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■2018年舞台ベスト10

□ ヒッキー・ソトニデテミターノ   演出:岩井秀人,劇団:ハイバイ □ vox soil   演出:北村明子,出演:Cross Transit □ ハムレットマシーン   演出:三浦雨林,劇団:隣屋 □ その人ではありません   演出:富永由美,劇団:旧眞空鑑 □ 紛れもなく、私が真ん中の日   演出:根本宗子,劇団:月刊「根本宗子」 □ バリーターク   演出:白井晃,出演:草彅剛,松尾諭ほか □ チェーホフ桜の園より   演出:レオニード.アニシモフ,劇団:東京ノーヴイ.レパートリーシアター □ 魔笛   演出:ウィリアム.ケントリッジ,指揮:ローラント.ベーア □ Is it worth to save us?   演出:伊藤郁女,出演:森山未來 □ 歯車   演出:多田淳之介,劇団:SPAC *並びは上演日順。 選出範囲は当ブログに書かれた作品。 映画(映像)は除く。 *「 2017年舞台ベスト10 」

■愛犬ポリーの死、そして家族の話

■作・演出:根本宗子,劇中楽曲:小春,出演:藤松祥子,瑛蓮,小野川晶,根本宗子,田村健太郎,岩瀬亮,用松亮,村杉蝉之介,劇団:月刊「根本宗子」 ■本多劇場,2018.12.20-31 ■主人公花の飼い犬ポリーの話が続くのかとみていたら前半に愛犬は死んでしまいます。 しかしポリーの代わりに「先生」が登場する。 先生はSNS友達で花と気が合う。 花には三人の姉がいるから四姉妹ですね。 先生と花の話題に姉たちの家庭がまな板に乗せられる。 これが面白い。 三姉妹の家庭は亭主関白そのままです。 旦那たちが威張っている。 母親に抜いてもらう旦那も登場しますが、これはどうみても漫画でしょう。 威張っている理由はただ一つ、一家を養うカネを旦那が稼いでいるからです。 妻は結局何も言えない。 最後は妻が諦めてなんとか家庭が収まります。 日本の男女平等ランクが世界110位でダントツ最下位のニュースを先日見ました。 しかし女性健康寿命ランクは世界2位の最上位です。 三姉妹の家庭を含め日本の家族構造が変われない理由をこの順位落差が表している。  しかし舞台はあらぬ方向へ進む。 先生が花だけではなく姉妹たちの生活にも侵入してきます。 ストーカーですね。 花の父は早死にしているので先生は精神的な父親代わりのようにもみえる。 そしてなんと!先生は姉妹を肉体的に傷つけてしまう。 ・・。 しかし花は先生との関係を維持しようと心を砕く。 怒っていた家族もそれを応援するが、舞台は役者たちが役を半分降りてしまう異化効果で進めていきます。 終幕のこの反転場面は何を言いたいのでしょうか? よく分からないで幕が下がってしまった。 「信じる」ことについて演出家が書いている。 「一人の少女が自分と周りを信じて家族を変える」物語だと・・。 花は信用を失った先生をもう一度取り戻す為に、他者を無条件に信じて行動にでたのでしょうか? 師走のためか芝居のまとめを急いだようにみえます。 *月刊「根本宗子」第16号 *劇団サイト、 http://www.village-inc.jp/nemoto16/

■フェードル

■作:ジャン.ラシーヌ,訳:伊吹武彦,演出:ペーター.ゲスナー,出演:荒牧大道,後藤まなみ,松尾容子,石川湖太朗,小黒沙耶,西村優子,遠藤広太,劇団:うずめ劇場 ■東京アートミュージアム,2018.10.11.-2019.2.23 ■仙川劇場は知っていたが当会場はその続きにある美術館らしい。 今は「椎橋和子展」が開催されている。 花鳥風月琳派系の作品は安藤忠雄設計のコンクリートによく似合う。 その絵画に囲まれた一室で芝居が行われた。 通路を使うので奥の深い舞台だ。 狭いので観客は30席しかない。 はじめは舞台の無い舞台に戸惑ったが直に慣れた。 むしろ斬新な感じがする。 役者たちの声の調子や表情も違和感があったがこれも斬新の中に溶け込んでいく。 声がコンクリートに反射してよく響く。 これにも慣れてくると科白が脳味噌に届いてきた。 王妃フェードルと待女エノーヌは漫才に近づいていく関係が面白い。 もちろん負(悲劇)の漫才だが。 待女というより会社の秘書のようだ。 王子イポリットと待従テラメータはフットワークが良過ぎる。 物語を滑っている感じだ。 これもまた楽しい。 待従より職場の後輩だろう。 アリシーにも声に存在感があった。 この作品は科白から声へ、そして役者の身体へ、言葉がベクトルに変換され豪快に迫って来ようとする。 ギリシャ神話に題材をとった中では一番気に入っている作品だ。 場面展開のリズムとスピードが心地よいからである。 今回の舞台も満足した。 開幕前、配られた役者一覧の後藤まなみから後藤加代を連想してしまった。 以前観た渡辺守章の「悲劇フェードル」を思い出したからである。 合わせて演出家ペーター・ゲスナーの挨拶やうずめ劇団の状況を読み、展示されている絵画を眺めながら豊かな時間を過ごせたのは会場選択が成功したからだろう、客席はちょっと窮屈だったが。 *うずめ劇場第29回公演 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/95577

■現代日本演劇のダイナミズム  ■演劇評論家扇田昭彦の仕事

■感想は、「 現代日本演劇のダイナミズム他 」

■灰から灰へ

■作:ハロルド.ピンター,演出:長野和文,出演:稲川実加,平澤瑤,劇団:池の下 ■アトリエ第七秘密基地,2018.12.14-16 ■舞台は中央に鏡、左右に椅子がシンメトリーに置いてある。 男と女は椅子に座ったり凭れ掛かったり周りを歩き回り・・、女は二三度鏡に向かう。 美術も衣装も平凡だがスキ無く練られています。 男は女が付き合っていた男のことを聞き出そうとする。 女は以前の男に「握り拳にキスをしてくれと言われた・・」と。 しかし女の話は事実なのか夢の中の出来事だったのかよく分からない。 「ハメルーンの笛吹き男」や「ベツレヘムの幼児虐殺」に似た話もするからです。 男は持て余し気味に理屈でやり返す。 その不自然な対話は終幕まで続いていきます。 男と女は夫婦に近い間柄のようですが喜怒哀楽が見えない。 ついに男は握り拳をつくりキスをしてくれと女に言って幕が下りる。 ・・。 密室での不可思議な科白だけに役者二人の力量が全てでしょう。 どれだけ観客に想像力を与えられるか? 間の取り方や声の抑制などで面白さが変化する作品ですね。 二人の間に現れる肌理の滑らかさが有ればより膨らんだように思います。 *池の下第26回公演海外作品 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/95558 *「このブログを検索」語句、 ピンター

■ジゼル Giselle

■振付:アクラム.カーン,作曲:アドルフ.アダン,出演:タマラ.ロホ,ジェームズ.ストリーター,ジェフリー.シリオ他 ■東劇,2018.11.30-12.21(リヴァプール.エンパイア劇場,2017.10.25-28収録) ■アクラム・カーン版ということで早速観に行く。 バレエというより最早ダンスだ。 それは振付のみならず衣装・美術・照明・音楽の全てに言える。 舞台背景に厚い壁がそびえている。 はじめに驚くのはヒラリオンの鋭い眼差しである。 ダンサーはジェフリー・シリオ。 動きも鋭い。 肉ではなく骨で踊っている。 群舞も動物のように跳ね回る場面が多い。 比べてアルブレヒトが不調のようだ。 日常としての肉体を感じさせてしまっている。 音楽も打楽器が耳に付く。 時々遠吠えのようなサイレンが鳴り響く。 スピーカから流れるアザーンにも聞こえる。 そして全てを通してどこか東洋の匂いが立ち込める。 それはヒラリオンが貴族らに日本式お辞儀をする場面、ウィリたちが竹棒を振り回すのにも表れている。 彼ら二人はジゼルを愛しているのか? そうは見えない。 ヒラリオンはジゼルに対してもキツイし、アルブレヒトは彼女を見る目が死んでいる。 終幕の二人の悲しい別れが迫ってこない。 これでは「ジゼル」と言えないだろう。 彼岸と此岸を分ける壁の使い方は良かったが。 別作としてみれば、これはこれで楽しいが。 マシュー・ボーンの「白鳥の湖」のほうがまだ戦略的に成功していた。 *ENBイングリッシュ.ナショナル.バレエ作品 *作品サイト、 https://www.culture-ville.jp/enbgiselle

■うたかたの恋 Mayerling

■振付:ケネス.マクミラン,音楽:フランツ.リスト,指揮:クン.ケセルス,出演:スティーヴン.マックレー,サラ.ラム,ラウラ.モレーラ他 ■TOHOシネマズ日比谷,2018.12.7-13(ROH,2018.10.5収録) ■A・リトヴァクの1936年版は観たことがあるけどバレエは初めてよ。 マイヤーリンク事件は日本では知られていない。 ヨーロッパではどうなのかしら?  皇太子ルドルフの狂気に向かう精神状況を時系列に展開した舞台なの。 そこに多くの女性が絡む。 衣装や美術は華麗だけど暗い。 音楽はそこまで重くないから踊れるわね。 でもルドルフを追えない。 女性たちの存在感も愛人マリーを除いていつのまにか溶解していく。 観ていて苦しい。 ルドルフ役スティーヴ・マックレーは初老のようにみえてしまった。 マリー役はサラ・ラム。 二人は狂気が似合う。 初めて出会った二幕の、そして死の直前の三幕のパ・ド・ドゥは文句無しでドラマティック! 「予測不可能な振付」の面白さね。 あと一幕最後のステファニー王女?を入れて今回のパ・ド・ドゥ・ベスト3かな。 最後は久しぶりにROHのロイヤル感に浸れたわよ。 *ROHロイヤル.オペラ.ハウス.シネマシーズン2018作品 *作品サイト、 http://tohotowa.co.jp/roh/movie/?n=mayerling

■ジュリアス・シーザー

■作:W.シェイクスピア,演出:ニコラス.ハイトナー,出演:ベン.ウィショー,ミシェル.フェアリー,デヴィット.モリッシー,デヴィット.コールダー他 ■TOHOシネマズ日本橋,2018.12.1-7(ブリッジ.シアター,2018年収録) ■舞台上にロックコンサート会場を設けエキストラの観客を周りに配置して始まるの。 コンサート会場は広場になり戦場に変わっていく。 その観客は群衆にもなりそのまま終幕まで舞台上に居座る。 劇中劇ではなくて観客まで含めた舞台中舞台と言えるわね。 群衆に囲まれる赤い野球帽を被りジャンバー姿のシーザーはアメリカ大統領選のトランプ候補と重なる。 役者達の演技は申し分なし。 でもブルータスもアントニーも納得できる演説には聞こえなかった。 しかもブルータスがマイクで喋るのは最悪、途中からアントニーまでも。 ここは生の声で説得されたい。 戦場も凝っているけど新鮮味は期限切れよ。 ナショナル・シアターのシェイクスピアの戦い場面は現代の軍隊軍人を登場し過ぎる。 意図は分かるけど、今回は肝心な場面が心に伝わってこなかった。 ブリッジ・シアターの劇場としての良さはわかったわ。 「コアな観客にエッジの効いた芝居はやらない!」と演出家は前回に言っていたが、その通りにして自滅してしまった舞台にみえる。 *NTLナショナル.シアター.ライブ作品 *作品サイト、 https://www.ntlive.jp/juliuscaesar

■歯車

■原作:芥川龍之介,構成・演出:多田淳之介,劇団:SPAC ■静岡芸術劇場,2018.11.22-12.15 ■舞台床が鋭い角度で谷のように中央へ落ちている。 山の手に立った役者は客席から見上げるようだ。 急な床を昇り降りして観客席まで侵入してくる役者は力強いが緊張と不安も連れてくる。 まるでA・ヒッチコックのサスペンス映画の舞台だ。 原作字幕を表示したり役者が台本を持って朗読劇にする場面もある。 音楽と照明も切れ味が良い。 先ずは芥川龍之介より新感覚派の横光利一を思い出してしまった。 「歯車」は読んだかどうかも覚えていない。 この数十年芥川といえば芥川賞しか馴染みがない。 字幕をみて彼の自殺前の数日はこんなにも壮絶だったのか驚いてしまった。 作家カフカや美術展開催中の画家ムンクなど精神疾患系芸術家は医学系からの批評が多かったが近頃はそうではない。 疾患や芸術の見方が変化したからだろう。 これだけ元気のよい舞台にできたのは演出家多田淳之介のキラリ力もある。 芥川龍之介の不安も吹き飛ばしてしまったところもあるが・・。 その原動力を彼は「中高生鑑賞事業公演にある」と言っている。 でも中高生の頃から芝居三昧だと人生堕落の一途を辿ることになる。 それはともかく当分は海馬に残る舞台の一つになるとおもう。 *SPAC秋春シーズン2018作品 *CoRich 、 https://stage.corich.jp/stage/95129

■青いプロペラ

■作:南出謙吾,演出:森田あや,劇団:らまのだ ■シアタートラム,2018.11.29-12.2 ■地方の老舗スーパー「マルエイ」の従業員たちの日々を描く舞台です。 そこへ大型ショッピングセンターが進出してくる・・。 従業員の仕事ぶりがリアルというより写実ですね。 写実が成功している舞台は珍しい。 仕事と科白の細部が活き活きしているからでしょう。 具体から写実への移行の巧さです。 ホキ美術館へ行って写実絵画を観ているようです。 欠点といえば写実からリアルへの転化が弱い。 たとえば役者が何もない空間を見つめる目の動きなどに「・・従業員たちに切迫した様子は無く、どこかその運命を受け入れている」までには到達していません。 抽象化がなされていない。 具体→写実→抽象→リアルを追求する途中にみえます。 でも「・・かつては、マルエイも地元商店に壊滅的な打撃を与え、ここに出店した」社会的営みの繰り返しがジワッと感じられました。 人々の時の流れがみえてくる。 ユニクロやケーズデンキで買ってしまう。 終幕の店長の行動が中途半端になってしまったのは残念です。 *シアタートラム ネクスト・ジェネレーション vol.11 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201811next.html

■ヤング・マルクス Young Marx

■作:リチャード.ビーン,クライヴ.コールマン,演出:ニコラス.ハイトナー,出演:ロリー.キニア,オリヴァー.クリス他 ■TOHOシネマズ日本橋,2018.11.24-30(ブリッジ.シアター,2017.10収録) ■ロンドンのソーホーに逃げてきた1850年頃のカール・マルクスが主人公の舞台。 貧困生活のマルクス一家にスイスから亡命してきたエンゲルスも加わる。 プロイセン警察スパイが暗躍するなか共産主義者同盟やライン新聞の難しい運営を迫られるどたばたコメディー作品のようね。 結構笑えるけど当時の社会情勢が色濃く描かれていてズシッと重みのある舞台だわ。 「資本主義は変幻自在だ!」とマルクスは言う。 人間の欲望を取り込み増殖していく資本主義の前線で戦う若きマルクス。  「・・マルクスは暴君で自己中心的」と妻イェニーの言葉とは落差があるけど、家族や隣人など他者への人間愛がマルクスの行動の裏に感じられるわね。 私生活を描いたこの舞台はフォイエルバッハの影響がみえる。 唯物史観では彼を批判しているが、マルクスの公生活と私生活の差異が作品の面白いところだと思う。 ブリッジ・シアターの紹介があったがこの劇場は演出家ニコラス・ハイトナー達が作り今回が杮落しとのこと。 ハイトナーはインタビューで「コアな観客にエッジの効いた芝居はやらない!」。 なーるほど。 でもこの作品はコアな客にもそうでない客にも楽しめる。 *NTLナショナル.シアター.ライブ作品 *作品サイト、 https://www.ntlive.jp/youngmarx *「このブログを検索」語句、 ビーン *2018.11.30追記 先日、高取英が亡くなった記事をみつけたの。 サルバドール・タリも9月に亡くなっていたのね。 寺山修司の記憶がボロボロと欠け落ちていく。

■パリの炎

■音楽:ポリス.アサフィエフ,振付:アレクセイ.ラトマンスキー,指揮:パヴェル.ソロキン,出演:マルガリータ.シュライナー,デニス.サーヴィン他 ■Bunkamura.ルシネマ,2018.11.16-28(ボリショイ劇場,2018.3収録) ■旗はもちろん衣装にもトリコロールで一杯ね。 群集劇にあとから恋愛を付け足した作品らしい混乱に満ちた舞台だった。 農村の踊りはロシア風、宮廷での踊りは時代感覚が麻痺してしまいそう。 グラン・パ・ド・ドゥは男性が野性的で楽しかったけど。 初演が1933年モスクワだから内容はともかくフランス革命を借りたストーリーに時代の要請があったということね。 この作品がほとんど上演されない理由も分かる。 ボリショイ劇場御用達に必要な「鋼鉄の仕上がり」に達していないから。 ところでボリショイ劇場はホールが閑散として拍手も疎らでいつも拍子抜けしてしまう。 客席も映してほしいわね。 どのような観客が来ているのか見てみたい。  *BOLボリショイ.バレエ.イン.シネマ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/cinema/lineup/18_bolshoi.html *2018.11.29追記 B・ベルトルッチが亡くなったのね。 もはや古株はゴダールしかいない・・。 ベルトルッチの作品で好きなのは30歳代に作られた「暗殺のオペラ」と「1900年」、60歳頃の「魅せられて」「ドリーマーズ」の4品かな。 *2018.11.30追記(29日追記の続き) 浅田彰のベルトルッチ追悼記事を読む。 ベルトルッチが「ファシズムを描く」ことによってヌーヴェル・ヴァーグを越えたのには納得。 上記30歳代の2作と「革命前夜」「暗殺の森」でね。 次に浅田彰得意の音楽の話が続く。 シェーンベルクとの関係は知らないが坂本龍一とのコラボ「ラストエンペラー」「シェルタリング・スカイ」の面白さにも納得。 でも「ドリーマーズ」を酷評していたのは残念ね。

■ダンス・アーカイヴinJAPAN2018

□砂漠のミイラ■振付:藤井公,音楽:山本直,美術:三宅景子,出演:清水フミヒト他 □獄舎の演芸■振付:若松美黄,音楽:クルト.ワイル他,衣装:森荘太,出演:高比良洋 □八月の庭■振付:庄司裕,音楽:安良岡章夫,美術:白戸規之,出演:宝満直也ほか (以上の□3作品を観る) ■新国立劇場.中劇場,2018.11.24-25 ■アーカイヴ第3弾は戦後に活躍した振付家3人3作品を紹介。 どれもがどこか古く感じられた。 20世紀と21世紀の間には大きな壁がある(あった)ように思える。 演劇など他舞台ジャンルではその壁を感じないのだが・・。 ダンスは言語や形式から自由なため変化がよく見えるのかもしれない。 今回は能楽公演つまり能2曲狂言1曲のような形を取っている。 「砂漠のミイラ」(1993年)は大陸の乾燥がカラッと、「八月の庭」(1994年)は島国の湿気がジワッと伝わってくる。 音楽と照明も湿度に比例している。 どちらも重量級で見応えがあった。 狂言にあたる「獄舎の演芸」(1977年)はしっかりした骨組みを持ち遊びのある振付で衣装の面白さもでていた。 *NNTTダンス2018シーズン作品 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_012856.html

■オドリに惚れちゃって!ー形の冒険ー

■演出・出演:田中泯 ■東京芸術劇場.シアターイースト,2018.11.23-25 ■久しぶりの舞台だ。 映画などでは見ていたが2006年の「重力と愉快」、独舞だと2005年「赤光」以来である。 その田中泯は濃紺のコート姿で登場した。 彼の定番である。 しかし最初から凝った舞台美術だ。 地面が球状に膨らみだした・・! それが萎むと六尺褌のような晒木綿の旗をなびかせる。 旗の動きが爽やかだ。 そしてバッハ平均律と飛行機の爆音・・。 後幕が捲れ上がって灰色から黄緑色に変わり、・・模型飛行機の影を追う。 レギンズ姿になって。 トタン板のバラックの背景幕が再び捲れて茜色になる。 空襲だろうか?  衣装を着替える。 浪曲「清水次郎長伝」が聞こえてくる。 ・・。 田中泯の記憶を辿った舞台にみえる。 「形の冒険」とあるが「時」を形にしたいのではないだろうか? 時は記憶である。 21世紀に入りオドリの質を変えたように思う。 20世紀の彼の身体に時間は存在しなかった。 というより時間は一瞬に凝縮され身体の奥にうずくまっていたから。 そして今、時を解き放った。 *劇場サイト、 http://www.geigeki.jp/performance/theater194/

■さわひらきー潜像の語り手ー  ■さわひらきX島地保武ーSiltsシルツー

□潜像の語り手 ■神奈川芸術劇場.中スタジオ,2018.11.11-12.9 ■映像作品を中心に20点弱が9スクリーンに映し出される展示構成です。 スケジュール表を見ると60分/サイクルと書いてある。 同時上映もあるので90分前後で全ての作品を見ることができます。 「HAKO」(2007年)は同時5スクリーンの作品ですがディゾルブを多用した風景が記憶と融合し、懐かしさが諸々の感情を伴い押し寄せてきます。 作品群はモノクロの風景とカラーで撮った室内に分類できる。 後者は足のある食器が歩き回り洗面ボウルの中で馬が泳いでいたりしてアニメーションを強く感じさせる。 前者に近い作品が気に入りましたが、どちらも一度みたら記憶の片隅に必ず残ります。 劇場での展示でしたが暗い場内は大きな鏡の壁で奥行きを出し置物の映像作品を点在させて独特な雰囲気を匂わせていました。 掛け時計が作品の開始時刻を知らせるのも面白い。 作品上映のタイムスケジュールは分かり易かったですね。 映像作品の多い展示会は参考にしてもよいでしょう。 *KAAT EXHIBITION2018 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/h_sawa □silts シルツ ■構成・映像:さわひらき,演出・振付:島地保武,出演:Altneu(酒井はな,島地保武) ■神奈川芸術劇場.大スタジオ,2018.11.23-25 ■「潜像の語り手」でも上映されていた「silts」(さわひらき2009年)を舞台美術に取り込んだダンス作品です。 酒井はなと島地保武のデュエットで日常的且つ即興性のある振付といってよい。 でも前半は映像とダンスが合わない。 映像が強すぎるからです。 歯車や梯子を上る人物アニメ、歩き回る食器類に目が奪われてしまう。 壁と比較して床の映像は苦にならないのが不思議です。 後半、酒井が映像風景を眺める場面などもあり落ち着いてきた。 記憶や夢や風景をも取り込むダンスでないと映像と同期がとれない。 終わりに近づくほど違和感が薄れたのはダンサーが持っている余白(遊び)の質が良いからでしょう。 *KAAT DANCE SERIES2018作品 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/silts

■サムソンとデリラ

■作曲:サン=サーンス,指揮:マーク.エルダー,演出:ダクロ.トレズニヤック,出演:エリーナ.ガランチャ,ロベルト.アラーニャ他 ■新宿ピカデリー,2018.11.16-22(MET,2018.10.20収録) ■1幕は「ヘブライ人合唱」と「サムソンとデリラの出会い」、2幕が「大司祭とデリラの対話」と「サムソンとデリラの再会」、3幕の「牢獄のサムソン」から「ダゴン寺院」の全6場面は夫々が分かり易く完結かつ連係していて進みゆく物語の安定感は抜群ね。 舞台道具も穴だらけの壁や像をシンメトリーにして軽さのなかに現代アートの感覚が盛り込まれている。 セシル・B・デミルの享楽志向と比較してしまったわ。 でもペリシテ人の衣装、住居や寺院の黄金色の使い方は引き継いでいるし、ニジンスキー風のダンサー達も楽しい。 この作品は神をとるか愛をとるか? ガランチャが「作品が短くてなんともいえない」と言っていたけど、この舞台でのデリラはどちらも取れないと思っているようね。 でもサムソンは両方取っていた。 デリラは迷ってしまったの。 それでも「あなたの声に私の声は開く」の桃色ガウンを脱ぎ黄緑ドレスになる場面は素敵よ。 アラーニャの高音が響きすぎていたのは設備の悪さかしら?  *METライブビューイング2018作品 *作品サイト、 https://www.shochiku.co.jp/met/program/853/

■狂人教育ー人形と俳優との偶発的邂逅劇ー

■作:寺山修司,演出・音楽:J.A.シーザー,構成・演出:高田恵篤,劇団:演劇実験室◎万有引力 ■ザ・スズナリ,2018.11.9-18 ■爺婆父兄姉そして主人公らしき妹の人形家族6人。 その人形も、もちろん人形遣いも俳優が演じるの。 サングラスをかけた黒ずくめの人形遣いが彼らの周りに纏わりついていく・・。 家族の中にいる「気狂い」を探し出すストーリーみたい。 いわゆる共同体の維持結束を図る悲喜劇物語ね。 どこかレトロの雰囲気が漂うのは50年以上も前の作品だから? でも幾つかの激しい場面でも劇的高揚感がやってこない。 全体を通して二か所くらいしか見せ場が無い。 それは「人形たちに自由意思がないのは人形遣いのせい、でも人形遣いも作者の奴隷、その作者も遠い戦争やら紫煙のゆらぎで戯曲は変わり変わって・・」という人形俳優作家の階層関係を論ずる場面、「妹ランが周囲と同じ行動を取らないから気狂いとして殺せ・・」と繰り返される時代光景。 でもこの二つ以外はちょっと生温い。 原因は科白の多くが淡泊で物語の奥へと入っていけないからだと思う。 人形劇用として作ったので童話に近いのかも。 物語構造はおもしろいから台詞と身体の融合を推し進めればずっと良くなるはずよ。 そして母の不在が寺山修司のネットリ感を抑えていたわね。 *演劇実験室◎万有引力第67回本公演作品 *寺山修司没後35年演劇実験室◎万有引力創立35周年公演第2弾作品 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/95628

■バンガラ・ダンス・シアター Bangarra Dance Theatre

□Spirit2018■振付:スティーヴン.ペイジ,先住民ダンス振付:ドゥジャカプラ.ムンヤリュン □I.B.I.S■振付:デボラ.ブラウン,ワアンゲンガ.ブランコ (以上2作品を上演) ■彩の国さいたま芸術劇場.大ホール,2018.11.9-10 ■からだ全体を使うおおらかな振付ですが打楽器中心のためリズムは早い。 地面との接触も多い。 伝統舞踊にみえるが現代のダンスも混ざり合っている感じですね。 舞台は幾つもの場面で構成されている。 後半はスーパーマーケットを題材にしているので生活風景が少しですが見えてきます。 最初の場面で女性ダンサーは木の葉で身体を隠し男性ダンサーは草むらに隠れて登場したのですが、何故そして誰から隠れるのか? この舞踊団はトレス海峡諸島の文化を継承しているらしい。 島々はオーストラリアとニューギニアの間にあります。 魚の木彫や小舟が登場するので漁業で生活をしていても陸地は多分ジャングルなのでしょう。 猛獣から隠れていたのでしょうか? 時代が下った植民地闘争も考えられる。 日本の盆踊りを思い出す場面もある。 手拭を持って踊りますから。 終幕の男女ダンサーが絡み合う振付は現代的です。 歌や詩も現地語で入ります。 ダンスは観るだけでも楽しいですが、今回は日本語字幕が欲しかったですね。 日本語音声を直に被せてもよかった。 ・・アボリジナル6万年の歴史はどんどん遠くなっているように感じました。 *「I.B.I.S」とは諸島産業サービス委員会の略で地元の商店を指す呼び名. *劇場サイト、 http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/5574

■エディット・ピアフ、天に届く声  ■ピアフ、シャンソンの誕生  ■ピアフ、コンサート&ドキュメンタリー

□エディット.ピアフ,天に届く声 ■監督:アルアン.イズナール,出演:エディット.ピアフ,ミシェル.リヴゴーシュ,ジルベール.ゴラール他 ■(フランス,2003年作品) ■エディット・ピアフの舞台と関係者のインタビューで構成された50分のドキュメンタリーである。 ピアフが子供時代に罹った眼病とリジューの聖テレーズとの繋がりについて多くを語っている。 「彼女の愛はテレーズに向かっている」と。 しかし映像では彼女に宗教は見えない。 心の奥に仕舞ったのだと思う。 □エディット・ピアフ,シャンソン誕生 ■監督:マルセス.プリステーヌ,出演:エディット.ピアフ,ジャン.マレー,テオ.サラボ他 ■(フランス,2003年作品) ■「天に届く声」の続編のようだ。 エディット・ピアフの死後に関係者が思い出を語るドキュメンタリーである。 作詞・作曲家ミッシェル・エメールと彼女の語りのような歌唱は心を揺さぶられる。 ジャン・コクトー「聖なる怪物」に出演したピアフについて「見事な歌手は喜劇や悲劇の役者であることが多い」とジャン・マレーは言っている。 アラン・ドロン、マルセル・カルネ、ジャン=ポール・ベルモントもチラッと登場したがフランス映画の場面とピアフの声が溶け合い迫ってくるように感じた。 □エディット.ピアフ,コンサート&ドキュメンタリー ■出演:エディット.ピアフ ■(フランス,2006年作品) ■エディット・ピアフのコンサートを中心に20曲弱を歌い続けるドキュメンタリー映画。 観客は興奮して涙ぐむ人も多いという。 歌詞も歌唱も演劇的で圧倒される。 「過去なんてどうでもいい」「後悔はしていない」。 そして「死ぬのは怖くない」と彼女は何度も口にする。 今だけを必死に生きているようだ。 その生き様が舞台からあふれ出ている。 以上の3本から、先日観た大竹しのぶ主演「 ピアフ 」はピアフというより大竹自身を演じ歌ったようにもみえる。 *YouTubeサイト、 https://www.youtube.com/watch?v=IwmKVep7Yow

■ピアフ Piaf

■作:パム.ジェムス,演出:栗山民也,出演:大竹しのぶ,梅沢昌代,彩輝なお,宮原浩暢,上遠野太洸ほか ■シアタークリエ,2018.11.4-12.1 ■大竹しのぶライフワークミュージカルらしく淡々と物語が進んでいく。 この流れに追いついたのは一幕後半からだ。 「あたしには男がいなくちゃだめ」「一人ぼっちは大嫌い」と男を次々と替えていくピアフの愛は定まらない。 これで戸惑ってしまったからである。 でも科白に下品というか下ネタが結構あること、昔からの友達トワーヌの行動からエディット・ピアフがどういう人物か固めることができた。 トワーヌ役梅沢昌代の2016年菊田一夫演劇賞受賞は今日の舞台をみて納得! トワーヌはオバサンの代表だ。 客層の8割はオバサンとその候補だ。 ウハ! イヴ・モンタン役大田翔の歌唱時は会場から初拍手があったがこれも納得! シャルル・アズナブール役宮原浩暢も同じく! 「ピアフが大竹しのぶに舞い降りた」とあったが少し納得。 大竹しのぶと歌詞歌唱の間にあるピアフとの時代差が結びつかないからである。 でも淡泊な歌唱とスピード感ある演技で「舞い降りた」ようにみえたのは大竹しのぶの巧さだろう。 マレーネ・ディートリッヒも登場したが歌う場面はもちろん無い。 ところで劇場は場内放送が一切無かった。 係員がこまめに動き回って観客と接しているからできるのだとおもう。 劇場が新鮮にみえた。 場内放送がどれだけ劇場の雰囲気を壊しているかがわかる。 ピアフをもっと知りたくなった。 帰ってきてピアフのビデオを3本予約した。 ジャン・コクトーとの関係も分かるはずだ。 *作品サイト、 https://www.tohostage.com/piaf2018/ *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 栗山民也

■ニライカナイー命の分水嶺ー

■作・演出:金満里,劇団:態変 ■座高円寺,2018.11.2-4 ■出だしはF・ベーコンの絵を想像してしまいました。 しかし背景がジャングルになった二部からは落ち着きが戻ってきた。 それはギリシャ彫刻を想像したことからも分かります。 タイツ姿でゆっくり動く為もあるのでしょう。 足の裏や顔で地面を意識するのが伝わってきます。 この動きほど自然を畏れ自然に融和していく身体表現はありません。 彫刻を抱いて踊る場面などでは未開人を思い出させてくれます。 そして胴体だけのダンサーをみていると人類太古の歴史を遡る感慨が迫ってきます。 西表島との出会いが資料に書いてありましたがまさに「ダンスの淵源」を得たことが分かる。 死を意識しないのは自然を目指しているからでしょう。 自然の一部として死も昇華するからです。 舞台美術や照明は抽象的な強さがありますね。 ゆっくりな動きにメリハリをつけていました。 *劇団態変第68回公演 *劇場サイト、 http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=1958

■Is it worth to save us?

■演出:伊藤郁女,振付.出演:伊藤郁女,森山未來 ■神奈川芸術劇場.大スタジオ,2018.10.31-11.4 ■場内に入ると伊藤郁女が観客にマイムで語りかけている。 次第に幕が開き森山未來が観客に質問をし始める。 「流れ星は見たか?」「花は買ったか?」「・・?」。 次に伊藤が自身?の子供時代の思い出を朗読する。 「4歳、宇宙人だと思い込み・・」「5歳、バレエを始める・・」「・・」「14歳、母にひな人形を捨てられる・・」。 そしてダンス。 途中二人が裸になり無言で絡み合う場面は作品の佳境ともいえる。 ここはとても日本的だ。 小道具もそれに合わせている。 伊藤郁女は初めて見るが戦後映画女優の何人かを思い出してしまった。 溝口健二の作品に登場する娼婦たちに笠置シズ子を足し合わせたような(ダンサーというより)女優にみえる。 次に森山未来が朗読に入る。 「6歳、自転車で骨折をする・・」「・・」。 そしてマイクを持ち出し二人は歌いだす。 楽しい歌詞だが題名は知らない。 マイケルジャクソンの話題と演技は笑ってしまった。 最後にケーキやトマトを投げ合い全身がベトベトになって幕が下りる。 以上が作品の流れだが終幕まで飽きさせない。 このような歯切れのよい構成は見たことがない。 詩、歌唱、ケーキの投げ合いなど小粒ながらグローバル的な表現が多い。 世界のどこへ持ち出してもよい品質と内容がある。 伊藤郁女はフランス語圏を拠点としているようだ。 面白い舞台だった。 *KAAT DANCE SERIES 2018 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/isitworth

■ガラスの動物園

■作:テネシー.ウィリアムズ,仏語翻訳:イザベル.ファンション,演出・美術:ダニエル.ジャンヌトー,出演:ソレーヌ.アルベル,カンタン.ブイッスー,ドミニク.レイモン,オリヴィエ.ヴェルネル他 ■東京芸術劇場.プレイハウス,2018.10.27-28 ■舞台上に半透明カーテンで囲った何もない部屋が作られている。 役者は霧の中で演技をしているようにみえます。 細かな表情がよく分からない。 フランス語のため字幕を追う必要もある。 声と字幕が優先の舞台が浮き上がってきます。 カーテンから出て舞台前方で演技をする場面が幾度かある。 食事が終わってジムとローラの二人だけになる時です。 カーテンが急に無くなると役者の顔がはっきり見えて現実に戻される。 演出かもしれないが、特にローラの目が定まっていない。 彼女がどういう人間か?見失いました。 しかもジムとローラの対話が只々普通になっていくだけです。 好きな作品の一つです。 家族の物語にいつも胸が締め付けられる。 でも今回は変わった舞台で面白いが馴染めなかった。 ローラの心に辿り着けない。 母アマンダははしゃぎ過ぎるしトムは芝居の外にいる。 「・・人生が意味を欠いた経験として描かれている」。 演出家は言っている。 「この経験は時として強烈な美しさを放つ・・」と。 分かりますが、人生は意味を越えた何ものかだとおもいます。 *「 東京芸術祭2018 」参加作品 *劇場サイト、 http://www.geigeki.jp/performance/theater193/t193-2/

■ザ・ミスト The Mist

■出演:ルーン.プロダクション ■神奈川芸術劇場.ホール,2018.10.25-28 ■「ベトナム人の生命の源”米”をテーマに、農村の生活を描いたダンス・・」とある。 肩の張らない舞台だった。 ダンスはコンテンポラリ風だ。 古典バレエ風もある。 振付の多くは稲作から取ったのだろう。 演奏は民族楽器が受け持っている。 ベトナム語の歌詞は恋愛模様を謡っているようだ。 小道具は笊、桶、竿、糸車、竹や木の棒そして稲束。 衣装は簡素だがアオザイもみえる。  田舎の祭り風景を思い出してしまった。 木魚や鏧子(けいす)を楽器にして読経もある。 獅子舞(?)も登場し不可思議な懐かしさがある。 しかしダンスだけが現代風で面白い違和感を持ってしまった。 コメを作るベトナムと日本は日常行事が似てくるのだろう。 しかも仏教徒が多い。 渦巻をしている円錐形の置物が何度も登場したが、これをみてホーチミン市の仏教寺院に大きな渦巻線香があったことを思い出してしまった。 今のベトナム舞台は伝統風景にヌーヴェル・ダンスを重ねるような混沌な時代なのかもしれない。 * DanceDanceDance@YOKOHAMA2018 参加作品 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/mist

■フォリーズ Follies

■脚本:ジェームズ.ゴールドマン,音楽:スティーヴン.ソンドハイム,演出:ドミニク.クック,出演:イメルダ.スタウトン,トレーシー.ベネット,ジェイニー.ディー他 ■TOHOシネマズ日本橋,2018.10.19-25(オリヴィエ劇場,2017年) ■ニューヨークにあるレヴュー劇場が解体されると聞いて、かつて活躍した人たちが劇場に集まり思い出に浸るストーリーなの。 1971年初演のブロードウェイ・ミュージカルよ。  舞台は1971年だけど1941年と同時並行して物語は進むの。 つまり30年差のある二人一役ということね。 女優だったサリーが好きだったベンと再会し今からやり直そうとする。 サリーの夫バディやベンの妻フィリスを巻き込んでどうなるかと思いきや結局は元に戻る。 ・・ゥフフ。 30年前の出会いまで遡って演じるから彼ら4人の人生が見えてくる。 米国の豊かさを背景に登場人物たちの青春時代が光り輝いているのが素晴らしい。  三曲目くらいから歌詞とストーリーが一致してきたので面白くなったわね。 1945年にベンとバディが戦場から帰ってきて新聞を広げると一面に「WAR ENDS」。 ここで幕かな?とみていたら4人のFOLLY話が続くの。 ちょっと諄い感じがしたけど、題名と内容を一致させようとする責任感が出ていた。 インタヴューでソンドハイムは沢山の模倣をしたと言っていた。 一つは「セールスマンの死」かしら? それはサリーの夫バディの人生がウィリーにそっくりなの。 米国の豊かさの裏側を表現した歌詞が幾つもあったのが1971年のトニー賞優秀楽曲賞を取った理由だとおもう。 そして成功者たちの米国戦後30年をクッキリと浮かび上がらせたからよ。 ミュージカルだけど演劇的な後味がするのもNTらしい。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *作品、 https://www.ntlive.jp/follies

■授業

■作:ウジェーヌ.イヨネスコ,翻訳:安堂信也,木村光一,演出:西悟志,菊川朝子,出演:SPAC ■静岡芸術劇場,2018.10.6-28 ■舞台上に小さな舞台を作り椅子を二つ置くだけの簡素な構成です。 そして見ているだけで楽しくなるカラフルな服装の教授が3人も登場する。 彼らは交互に舞台に上がる時もあれば3人一緒で女学生に教授する場面もある。 4人は狭い舞台を動き回り科白を喋る時の動作も大げさです。 漫才を観ているような場面が多い。 しかも異化効果を所々に入れている。 舞台装置の担当者がそのまま女中役になり日常的な遣り取りで教授と話しをしたり、教授が言語学について一人ブツブツ呟いたりして、舞台から降りてしまったような場面がそれです。 この振幅が大きいので心配しながら観てしまった。 舞台から降りてしまう効果が大き過ぎると観客が白けてしまうからです。 でもギリギリで保っていましたね。 それは教授達が女学生を殺してしまった後に再び初めに戻って漫才のような場面を繰り返し、何もない舞台を走り回り、椅子を並べ壊しながら女学生が歌曲名と歌手?を叫んでいく終幕を作ることで精神的肉体的暴力を昇華させたからです。 それでも異化と暴力が重なり若い観客はちょっと引いていたようにみえます。 カーテンコールでの周囲の若い人たちの拍手が少なかったからです。 初めてみる演出家でしたが緻密でしかも大胆な内容、それ以上に度胸のある演出家だと感じました。 *SPACシーズン2018作品 *「 授業 」(楽園王,2016年) *劇場サイト、 http://spac.or.jp/lesson_2018.html

■竹取

■演出:小野寺修二,脚本:平田俊子,音楽:阿部海太郎,出演:小林聡美,貫地谷しほり他 ■シアタートラム,2018.10.5-17 ■初めはダンスのような動きが目立ったが次第にマイムへ比重が移っていく。 物語の節目には科白が入る。 能楽師も登場するので現代能楽集の新作だったことを思い出す。 竹取物語の凡そは知っているので突然の謡でも理解できた。 音響がとても凝っているように感じた。 風の音から虫の声、犬や狼?の遠吠え、鳥の鳴声や羽音、雨や水、そして花火など懐かしい春夏秋冬の音が聴こえてくる。 これに太鼓を要で打ち鳴らし音と音楽でマイムを活性化させていた。 表は畳で裏は板障子を2枚ひっくり返しながら歩き回るデラシネア風の楽しい場面もある。 竹を真似た細いゴム綱を何本も天井から垂らして床の重りを動かしながら前景や背景を作っていくのも同じだ。 しかし、このような舞台になるとは想像していなかった。 演出家の過去作品の延長を考えていたからである。 ダンスでもなければマイムでもない。 一つの言葉にまとめず、そのままダンスでありマイムであり能であり現代演劇であると言ったほうが正解かもしれない。 違ジャンルを巧くまとめていたと思う。 いつも深く考え続けている小野寺修二らしい舞台である。  太鼓の連打で始まり連打で終わった古川玄一郎の打楽器演奏は全体を引き締めていたし、要所で登場する佐野登の存在感はなかなかのものである。 大駱駝艦の小田直哉の坊主頭が舞台に輝きと深みを与えていた。 ところで崎山莉奈と貫地谷しほりは衣装姿が似ているので最初はどちらが「かぐや姫」か見分けがつかなかった。 舞台を引っ張る小林聡美はもっと老けた役作りをしたほうが全体の調和がとれたように思う。 これは崎山莉奈と貫地谷しほりの間にも言える。 例えばかぐや姫の衣装だけを少し変えるとか・・。 そして藤田桃子の相変わらず楽しく踊っている姿に何とも言えない面白さがあった。 *現代能楽集Ⅸ *劇場サイト、 http://www2.setagaya-pt.jp/performances/201810taketori-4.html *「このブログを検索」語句は、 小野寺修二 現代能楽集

■蛇と天秤

■作・演出:野木萌葱,劇団:パラドックス定数 ■シアター風姿花伝,2018.10.10-15 ■登場人物は大学医学部教員3人と製薬会社社員3人の計6人です。 大学病院で結核感染のため患者8人が亡くなってしまった。 この原因は何なのか?責任を誰が取るのか?否、どう隠すのか?・・?が議論されていく。 大学と製薬会社とのせめぎ合いが進んでいきます。 医者が悪いのか薬が悪いのか? 学内の師弟関係、社内の力関係、大学時代の同期、賄賂、プライドなどが入り混じって次第に組織から個人へと話しは落ちていく。 いや面白いですね。 以前に観た「 東京裁判 」(2015年)を思い出してしまった。 違いは登場人物一人ひとりが立場や人生を考えながら正義や責任を論じることです。 誰が味方で誰が敵か議論進行で変わってくる。 これをスムースに進める演出家の腕前は確かです。 物語を面白くするため台詞が数か所ほど非連続になってしまったのは致し方ない。 終幕、製薬会社研究員と主任教官の関係が明かされます。 新薬を患者に実験投与したのが大元の原因らしい。 ・・突飛にみえたが、物語としては腑に落ちます。 久しぶりの緊張感ある舞台でした。 *パラドックス定数第43項 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/95056

■土の脈

■演出:北村明子,ドラマトゥルク・音楽提供:マヤンランバム.マンガンサナ,音楽ディレクター:横山裕章,振付・出演:柴一平,清家悠圭,西山友貴,川合ロン他,出演:阿部好江 ■神奈川芸術劇場.大スタジオ,2018.10.12-14 ■今年3月に観た「 vox soil 」と美術が同じなの。 細かい所は覚えていないけど前回をより発展させた感じかしら? 舞台は3倍以上広くなりダンサーも一人増えてより賑やかになった。 ダンサーたちの瞬発力ある独特な振付と動きが素晴らしい。 「・・歌やリズム・踊り・しぐさなどの「脈」は身体を媒体として過去から未来、土地から土地へ受け継がれていく・・」(北村)。 「土の脈」はとても上手いタイトルだとおもう。 アフタートークは北村明子、音楽ディレクター横山裕章、ドラマトゥルクのマヤンランバム・マンガンサナが出席。 音楽関係の話が多くこの舞台でも使用した伝統楽器「ペナ」の演奏も入る。 北村明子の話が少なかったのが残念。 この数年、観たいと思うダンス公演が多いのは神奈川芸術劇場と埼玉芸術劇場かな。 東京の劇場でも気に入った公演は時々あるけど続かない。 *劇場、 http://www.kaat.jp/d/crosstransit

■君が君で君で君を君を君を

■作・演出:松居大悟,劇団:ゴジゲン ■駅前劇場,2018.10.3-14 ■舞台は花柄模様の家具類やぬいぐるみが置いてあり女の子の部屋にみえる。 場面が変わっても部屋をそのまま使うので戸惑ってしまいました。 大学の映画サークルの活動らしく撮影場面から始まる。 幕開きからの10分間は科白が冴えていましたね。 愛についての話らしい。 この話が煮詰まってくると科白に鋭さが衰えたのは残念です。 サークルの銀次に彼女ができたらしい。 名前はユリ。 ・・しかしなんとユリは熊のぬいぐるみだった! 戸惑いました。 映画では「Ted」「パディントン」「プリグズビー・ベア」・・、数えきれないほどぬいぐるみは登場している。 演出家は映画監督でも活躍しているのでこの流れを狙ったのかもしれない。 しかし映画は特殊撮影ができるが演劇は違う。 もろに現実に戻されてしまいますね。 パラフィリアでも狙っているのか? いろいろ想像しながら観ていると、二度目の同じ場面では人間の彼女が登場したのでやっと落ち着けました。 ぬいぐるみはテーマである愛とはあまり関係がない。 結局恋愛は上手くいかず彼女の方はサークルの中を渡り歩くようになる。 それは真面目に愛について考えた結果としてです。 しかもギャグが濃い舞台なのでバカバカしさと同時に青春のほろ苦さも感じます。 役者たちはゴツイですね。 独特な雰囲気の青春群像を出現させています。 演出家は2012年に「リリオム」を舞台化している。 登場する女もユリと言う名前です。 リリオムもユリも愛しているのに告白できなかった。 銀次の行動はリリオムを思い出させます。 *ゴジゲン第15回公演作品 *劇団サイト、 http://www.5-jigen.com/img/gojigen_main_b.jpg

■誤解

■作:アルベール.カミュ,翻訳:岩切正一郎,演出:稲葉賀恵,出演:原田美枝子,小島聖,水橋研二,深谷美保,小林勝也 ■新国立劇場.小劇場,2018.10.4-21 ■「ホテル経営の母娘が客を殺して金品を奪う・・」。 公演チラシに目を通して劇場に向かいました。 しかし客のジャンは登場するなり自分がここの息子だと観客だけにバラしてしまった。 謎はなくなり、母と妹は彼の素性をいつ知るのか?彼は殺されてしまうのか?等々を考えながら観ていくことになります。 その夜、母娘はナンダカンダ言いながら客である息子を殺してしまう。 二人は彼のパスポートを見て驚くが、しかし母は感じ取っていた。 「いつかはこうなると分かっていた・・」。 母は「母と娘」と「母と息子」の愛の違いを娘に話して息子の後を追う。 娘マルタは母に捨てられたと嘆き悲しむが、それに続くモノローグが長い。 この独白場面での彼女の科白が思い出せないためブログをどうまとめてよいのかわからなくなってしまった。 終幕、息子の妻マリヤがホテルに訪ねるのだが彼女もマルタを理解できない。 粗筋からギリシャ悲劇を思い出すが、観終わった時に同じようなカタルシスがやってきません。  やはりカミュは輝く太陽の下での衝動的殺人が似合っています。 薄暗い空の下での計画的殺人を実行する娘マルタがこの状況からどれほど逃げたかったか作者が一番知っていたのではないでしょうか? この作品は空の色に比例するかのように、とても暗い硬いカミュ的不条理が漂っています。 大きな布が空間を仕切り包み込む美術は直截な照明と共にシンプルな舞台を作り上げていて役者に集中できました。 使用人小林勝也の存在も面白かった。 でも彼の少ない科白で「神」を出現させたのには驚きでした。 *NNTTドラマ2018シーズン作品 *劇場サイト、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_011666.html

■魔笛

■台本:E.シカネーダー,作曲:W.A.モーツァルト,指揮:R.ベーア,演出:W.ケントリッジ,出演:S.ヴェミッチ,S.ダヴィスリム,安井陽子,林正子,九嶋香奈枝,A.シュエン他,演奏:東京フィルハモニー交響楽団 ■新国立劇場.オペラパレス,2018.10.3-14 ■大野和士新芸術監督就任一作目は「魔笛」。 指揮も新監督かと思いきや違ったわね。 演出・美術はW・ケントリッジよ。 彼のMETでの「 鼻 」「 ルル 」は覚えている。 舞台はどことなくオットリしているの。 衣装の多くを日常世界に近づけていること、ザラストロとパパゲーノが「背の高い静かなお兄さん」のようで全体の演技も地味だから。 ケントリッジ得意の映像もモノクロ系で動線はフリーメイソンの象徴(?)を描き出していて神秘的な静けさがある。 でも犀のような具体的な絵は意味が付いて煩い。 この落ち着いた背景が歌唱歌詞に清らかさを呼び込んでいる。 逆も言える。 演奏もこの流れに沿っている感じね。 モーツァルトの宗教観へと降りていくことができるの。 近頃の「魔笛」の多くはどれもカラフルで遊び心が一杯だから、今回のようにある種の宗教的感情が得られるのは珍しい。 観終わった時、心身の浄化される気分が持てた。 記憶に残る舞台になるかもよ。 *NNTTオペラ2018シーズン作品 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/opera/die-zauberflote/ *2018.10.13追記 新聞に大野和士のインタビューが載っていた。 彼は「新しい役割を楽しむ」と言っている。 「芸術監督は指揮者ではない」。 つまりプロデューサ、コンサルタントみたいな・・。 面白くなるわね。

■風をおこした男ー田漢伝

■作.演出:田沁鑫デンシンキン,出演:金世佳キンセイカ,上海戯劇学院 ■世田谷パブリックシアター,2018.10.6-7 ■舞台後方に6つの立方体を組み半透明幕を被せて体内での演技と外からの映像を同時表現できる構造にしてある。 例えばカメラマンが舞台で役者を撮影しながら上部の幕にパラレル映写をする。 それはモノクロで古い映画を観ているようだ。 役者本人を見ないで拡大された映像をみてしまうことが多い。 1898年生まれの劇作家・詩人である主人公田漢(でんかん)の名前は初めて聞いた。 1916年東京高等師範学校へ留学し6年間を日本で過ごしている。 20世紀前半の中国代表劇作家の一人となったが文化大革命で投獄、1968年に獄死した。 舞台はセミドキュメンタリーのようだ。 20世紀の歴史を田漢の人生に重ね合わせていくからである。 子供時代の思い出や4人の妻との出会い、彼の教え子との親交は深まっていかない。 中国激動の時代を前面に描くしかない演出家の義務のようなものを全体に感じる。 田漢は留学時代に松井須磨子の芝居に惚れ込んだらしい。 彼はロマンチシストにみえる。 自身の科白でもそう言っている。 芝居好きが伝わってくるところに彼を憎めない面白さがある。 劇中劇が途中に入るがその一つ「サロメ」は見応えがあった。 ここは白黒の同時映像ではなく役者身体に目がいってしまった。  アフタートークを聞くことにする。 出席は演出家田沁鑫、主演の金世佳、評論家七字英輔。 俳優を舞台で撮ることにした理由は? 「俳優の美しさに魅かれた」(田)。 なるほど上海戯劇院の学生らしいが演技も堂々としていて美貌人が揃っている。 金世佳も田漢役に嵌まっていた。 「何人もの劇作家が紹介されたが田漢を選んだ理由は?」(観客)。 「彼はロマンチックで(人生が)ドラマチック、そして詩が素晴らしいから。 トルストイのように女性を描くから。」(田)。 そういえば三番目の妻から「あなたはトルストイ的自信家」と言われる台詞があった(?) 同じく田漢もルソーに傾倒していたようだ。 ・・。 「漁光曲」や「義勇軍行進曲」の20世紀から離れて、田漢の母が好んだ「白蛇伝」が語られ関漢卿が劇中劇で演じられるので中国的時間軸の幅も出ていた。 ・・詰込み感は残るが。 また湖南省の季節描写など歌詞の多くに中国風景の広がり

■兵士の物語

■作曲:イーゴリー.ストラヴィンスキー,台本:シャルル.フェルディナン.ラミューズ,演出.美術:串田和美,出演:石丸幹二,首藤康之,渡辺理恵,串田和美ほか,演奏:郷古廉,谷口拓史,カルメン.イゾ,長哲也,多田将太郎,三田博基,大場章裕 ■スパイラルホール,2018.9.27-10.1 ■演劇と音楽が一体となった舞台は演出家串田和美が得意としているだけあって流石にまとまっていた。 これにバレエが加わったので楽しさは倍増ね。 大戦直後の1918年に作られたからこじんまりしている。 スパイラルホールには丁度良い作品にみえる。 そして語り手石丸幹二が舞台をしっかり支えていた。 7人からなる小オーケストラも素晴らしい。 演奏家も舞台に上り役を演ずるのが串田和美らしい。 科白はないけど。 台詞が入る演劇的なジャン・コクトー版は聴いていたけど実舞台に落とし込んだのは初めてみたのでイメージが固まった感じがする。 おとぎ話にすぎないと言っているが舞台だとオチがよく分からない作品だとおもう。 王女と一緒になれた兵士ヨセフが故郷に帰ろうとすると悪魔の餌食になってしまうから。 それは何故? 「いま持っているものに、昔持っていたものを足し合わそうとしてはいけない。 今の自分と昔の自分、両方もつ権利はないのだ」(WIKIより)。 欲張りはダメ! *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/93680

■かもめ

■作:A.チェーホフ,翻訳:浦雅春,演出:江間直子,出演:無名塾 ■シアタートラム,2018.9.28-30 ■無名塾を観るのは初めてだ。 以前、仲代達矢の映画「 役者を生きる 」で無名塾への彼の姿を思い出したからである。 ・・なるほど舞台の役者は仲代達矢の息がかかっている。 声の調子や動きに彼のメソドを感じる。 ただチェーホフの持つ何とも言えない哀楽はやって来なかった。 ポリーナとドールン、マーシャとトレープレフの視線の強さ、トレープレフの後半の心の推移が非連続にみえたからだろう。 しかし歯切れのある粗さが面白いところかもしれない。 態度が一貫している年寄り連中は安定した演技で舞台を支えていた。 場面切替えで聴こえてくるロシア語の歌がチェーホフの作品を次々思い出させてくれた。 舞台を観るほどにチェーホフが好きになっていく。 *劇団サイト、 http://www.mumeijuku.net/stage/img/flyer-kamome-2018-s.pdf

■タウンホール事件

■演出:エリザベス.ルコンプト,劇団:ウースターグループ ■神奈川芸術劇場.大スタジオ,2018.9.29-10.1 ■1971年NYタウンホールで開催された討論会「女性解放に関する対話」のドキュメンタリー映画「タウン・ブラッディ・ホール」(1979年作品)を基にした舞台である。 初演は2016年(?)。 この討論会は作家ノーマン・メイラー、ラディカルレズビアンのジル・ジョンストン、メイラーの友人である文芸評論家ダイアナ・トリリング、そしてメイラーが文学界へ迎い入れようとした作家ジャーメイン・グリアが出席した。 舞台は討論会壇上を模していて当時のタウンホール会場にいるようだ。 そして討論が再現されていく。 映画も映されるので同時に実人物の演技も見るようになる。 仕草も同じ場面がある。 映画からは会場の喧騒が伝わってくるが今この劇場は静かで奇妙な感じだ。 討論から離れて寸劇やノーマン・メイラーの「メイドストーン」(1970年作品)も映し出される。 彼の「女性解放」に対する保守性が感じられる。 変わった舞台だが構造の古臭さもみえる。 アフタートークがあったので席に残る。 出演は批評家内野儀、演出のエリザベス・ルコンプト、ジル・ジョンストンを演じたケイト・ヴァルク。 「完コピでトピカルでカオス的にできている」(内野)。 「いつもドキュメンタリーを考えている」(ルコンプト)。 観客からの質問「MeTooの広がりと関連があるのか?」で「この討論をどう捉えるかは観客である」(ルコンプト)。 ウースター・グループらしい。 ノーマン・メイラーに対しても立ち位置上の評価をしている。 二年前に「 初期シェーカー聖歌 」を観ているが、この劇団は過去に実在した素材に味付けをして再構成していく手法をとる。 NYの伝説的劇団と言われているがその片鱗を窺うことができた。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/TWG_TTHA

■イェルマ

■原作:フェデリコ.ガルシーア.ロルカ,演出:サイモン.ストーン,出演:ビリー.パイパー,ブレンダン.カウエル他 ■東宝シネマズ日本橋,2018.9.28-10.4(ヤングヴィック劇場,2017.8.31収録) ■上演前のインタビュー映像で演出家と評論家の対談があったが珍紛漢紛でした。 そのはずでこの作品は現代の出産の葛藤を描いていたからです。 保守的な共同体で子宝に恵まれず主人公が悩む話だと思っていたら大違い(?)。 ヤングヴィック劇場内は客席を両端に分け中央舞台にガラス箱を組み立て役者はその中で演技をしているようです。 映画ではガラスを意識しないが、役者が寄り掛かったり継ぎ目の所に来るとガラス壁があったのだと思い出します。 イェルマ(彼女)と夫ジョンの対話は具体的で際どいセックスの話が多い。 この舞台の見所ではないでしょうか。 でも出産に繋げているので多くは嫌らしさがない。 生物的行為のため社会との繋がりが物理的にみえてしまうからでしょう。 排卵期や精液検査、体外受精など幾つもの言葉が物語に食い込んでいきます。 この激しい対話で作品がヒットしたと言ってもよい。 現に迫力がある。 現代社会の夫婦が置かれている厳しさが出ています。 作品が最優秀リバイバル賞をそしてビリー・パイパーが最優秀女優賞を取ったのも頷けます。  でもイェルマは何故これほどまでに子供が欲しいのかが分からない。 出産へつながる具体的行為がとても強いだけです。 彼女の母性本能も見えない。 現代社会での彼女を動かす大きな力とは何か? でもこのような舞台はやはり日本では観ることができない。 家族結婚夫婦出産仕事など基本観が違う為とも言えます。 考えさせられました。 この作品は「受胎」「幻滅」「休戦」「現実」「欺き」「堕落」「帰宅」の7章から成り立っている。 章やシーケンスの間に日時の経過や状況を補足する語彙が入るがどれも厳しい言葉です。 でも画面一杯にデカデカと表示された文章を読むと脳内が停止して物語の流れが途切れてしまう。 章名はともかくデカデカ文章は不要でしょう。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *作品サイト、 https://www.ntlive.jp/yerma

■野がも

■作:H.イプセン,翻訳:毛利三彌,演出:広田淳一,劇団:アマヤドリ ■花まる学習会王子小劇場,2018.9.20-10.1 ■原作は読んでいないし、初めにヴェルレ家一同揃って登場するから人物相関図が配られると素早く馴染めて助かるわね。 前半はヴェルレ家とエクダル家の父子関係の際立つ差異が面白い。 前者はキリキリ感一杯で後者はユルユル感が漂っている。 途中休息をとり、後半初めで一気に盛り上がるの。 ヴェルレ家の息子グレーゲルスの言う「理想の要求(追求?)」「真実の結婚」が実践されたからよ。 これでエクダル家の息子ヤルマールと妻ギーナそして娘ヘドヴィクの幸せな家庭が粉々に破壊されてしまった。 でも盛り上がりは直ぐに下降線を辿る。 ヤルマールの「理想の追求」を目指す頑な態度と錯乱状態が続いたから。 妻ギーナの手の内を返すような態度を含め夫婦二人の演技は難易度を熟す必要がある。 グレーゲルスとヤルマールの怒鳴るような発声はもう少し抑えてもいい。 でも終幕の娘ヘドヴィクの自殺で再び盛り上がる。 面白い舞台だけど作品として気にかかる箇所が一杯。 ということでアフタートークを聞くことにしたの。 トークは翻訳の毛利三彌と演出の広田淳一の対談で盛り上がったわよ。 「原作に忠実な舞台は珍しい」(毛利)と褒める?と「時代が一周したのかもしれない」(広田)と返答。 台詞に行きつくまでの口語表現などで広田は苦労したみたい。 上演3時間以内を心掛けたので削除箇所もあるとのこと。 「グレーゲルスがヘドヴィクを妹だと気が付いたのはいつ?」の話題に移る。 これは数か所あったので見ていても(感覚的に)分かった。 でも「最初に知った場面はこの舞台では省かれている。 それは・・」(毛利)。 「!なーるほど」(広田)。 そう、これは喜劇作品という話もでる。 野鴨が今回は頻繁に飛び回っていたけど、「この野鴨は何の象徴か?」。 ヘドヴィクだけは聖なる対象として見ていたのは分かるけど・・、他の人物はどう思っていたのか掴めなかった。  そして「作品の主人公は誰か?」。 「グレーゲルスと言う人が多い」(毛利)。 ヤルマールはグレーゲルスの思想を追随しているだけだから? グレーゲルスの言っている全てを否定することはできない。 医者レリングを登場させて作者は中庸に持っていこうとしたのかしら? 「かもめ」(

■ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス

■監督:ルーシー.ウォーカー,出演:オマーラ.ポルトゥオンド,マヌエル.ミラバール,バルバリート.トーレス,イブライム.フェレール,ルベーン.ゴンザレス他 ■アップリンク,2018.8.25-(イギリス,2017年作品) ■「あれから18年経った」今回の作品がどのような内容になるのか想像できなかった。 18年前、出演者は既に爺婆ジジババだったはず・・。 W・ヴェンダース監督の前回作品(1999年)は編集が良かった。 出演者の公演の様子・日常生活・生い立ち・音楽との関わりをインタビュー形式で進め、一人ひとり積み重ねてBVSCを素晴らしい姿にまとめていました。 なんと今回も前回フィルムを新編集して上手に作られている。 前半は一人ひとりにフォーカスを当てながら1999年を起点にして19世紀末葉まで遡っていく。 それは奴隷制度に始まり、スペインからの独立戦争、苦しいバティスタ政権時代、そしてカストロが登場するキューバ革命が実写と共に語られる。 これにアフリカから引き継いだキューバ音楽を重ねていきます。 メンバー達の若いころの活動映像は興味が尽きません。 後半は1999年以降に話が移っていく。 でも老化は待ってくれない。 多くのメンバーの葬儀が映し出される。 残ったメンバーで2015年米国ホワイトハウス公演、若いメンバーを加えて2016年アディオス・ツアーのハバマ公演で幕が下りる。 カストロも革命にはキューバ音楽が欠かせないという認識を持っていた。 この幾つもの時代を受け継いだBVSCの演奏がキューバ音楽史としても迫ってきました。 キューバ国民と歴史を強く意識させる作品です。 でも一番はメンバーたちの最後まで前向きな行動力に元気づけられたことですね。 *作品サイト、 http://gaga.ne.jp/buenavista-adios/ *「このブログを検索」語句は、 ヴェンダース

■バレエ・ロレーヌ

■以下の3作品を上演 □「DEVOTED」(2015年作),振付:セシリア.ベンゴレア,フランソワ.シェニョー,出演:ロレーヌ.バレエ団 □「STEPTEXT」(1985年作),振付:W.フォーサイス,出演:ロレーヌ.バレエ団 □「SOUNDDANCE」(1973年作),振付:M.カニングハム,出演:ロレーヌ.バレエ団 ■神奈川芸術劇場.ホール,2018.9.16-17 ■久しぶりに至福の時を過ごせた。 作品ごとに独特な陶酔感が得られる為だろう。 「DEVOTED」はポワントとミニマル音楽が絡まり合いながら流れていく。 マネキンが踊りだしたようだ。 舞台はエスプリを感じさせる。 十人前後のダンサーたちは技能がまちまちにみえる。 フィリップ・グラスを選んだことによりカニングハムに向かう円環の物語になっている公演だ。 「STEPTEXT」はフォーサイス初期の作品らしいがバイオリンの粘りでダンサーの感情が抑えられている。 今度は彫刻が踊りだしたと言える。 男3人女一人の構成はとても安定している。 男二人だと緊張感が出すぎてしまうからだ。 三作品の中で一番気に入る。 「SOUNDDANCE」は音楽を含め古さがみえる。 ダンサーの動きや振付はカニングハムの特徴を持っていて懐かしい。 どこか人間的優しさが漂っているのは逆説的だが面白い。 それは20世紀が持っていた優しさだとおもう。 * DanceDanceDance@YOKOHAMA2018 参加作品 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/lorraine

■ROMEO&JULIETS ロメオとジュリエットたち

■原作:W.シェイクスピア,音楽:S.プロコフィエフ,演出振付:金森穣,衣装:YUIMA.NAKAZATO,美術:須長檀,田根剛,出演:武石守正,井関佐和子ほか,劇団:Noism1,SPAC ■彩の国さいたま芸術劇場.大ホール,2018.9.14-16 ■舞台美術が素晴らしい。 金色の紐カーテンが背景三面を取り囲んで床には幾つもの半透明ガラスの移動衝立が動き回り、そして舞台状況を後方スクリーンで映し出しているの。 金属的な華麗さが漂うけれど無彩色に近い為かサッパリしている。 衣装はギリシャ風ね。 先ずはプロコフィエフの音楽でロメジュリの世界へ一っ飛びよ。 でもロメオが車椅子で登場した途端これはハムレットだと思った。 ロメオの声が重たかったから。 科白も硬さがある。 ジュリエットは5人のダンサーが演じるけど科白が無い。 うーん、ジュリエットもオフィーリアに見えてきた。 最初は戸惑ったけど外は「ロメジュリ」内は「ハムレット」を演じていると考えれば面白いかも。 SPACの俳優が何人も登ったけどダンスとの融合は苦にならない。 台詞の一部が文字として写し出されてもね。 食事の二場面も日常を意識させない。 後半、金森穣が医師ロレンス役でサングラスをかけて踊る場面は「博士の異常な愛情」のストレインジラブ博士を思い出してしまったわ。 振付も博士に近づけている。 そしてロザライン役の井関佐和子は既にアンドロイドね。 しっかりした構造と様式で感動が昇華結晶していくような舞台だった。 「舞踊家と俳優が渾然一体となった舞踊とも演劇とも名状し難い舞台・・」とあるように劇的舞踊としては一つの到達点に来たように思える。 鈴木忠志のアイデアが多分に見られ俳優はSPACと言うよりSCOTに近い。 演出ノート「恋という病」「自己分裂」「医療信仰」「監視社会」「死生観」の五つは深読みをしないと見落としてしまう。 いつもと違った感覚が残る舞台だった。 当分のあいだ思い出しては場面を反復することになるわね。 *劇場、 http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/5158

■ショコラ -君がいて,僕がいる-

■監督:ロシュディ・ゼム,出演:ジェームス・ティエレ,オマール・シー他 ■(フランス,2015年作品) ■手元にあるチラシには「20世紀初頭、フランス初の黒人芸人ショコラと彼を支えた相方フテット。 ・・激動の半生を描く実話」とある。 二人はオーギュスト(愚かな道化)とホワイトクラウン(白い道化)、日本ではボケとツッコミと訳すのかしら? 二人は、出会った「デルヴォー座」を離れパリ名門サーカス「ヌーヴォー・シルク」に行き人気芸人となるがショコラは人種差別に目覚めていくの。 でも当時の壁は厚く彼はギャンブルに溺れていく。 それでもフテットを含め周囲の人々が彼を温かく見守っていく「愛と涙に満ちた」物語に仕立ててある。 植民地政策や人種問題を背景に留めておくのはテーマの混乱を防ぐ為ね。 ところでフテットの顔や演技を見ていてC・チャップリンを思い出したけど当たり。 彼はチャップリンの実孫らしい。 終幕ショコラが年老いて亡くなろうとしているサーカス小屋を訪ねてきたフテットの表情はチャップリンそのものだった。 二人の演技場面は沢山あるけど単純なドタバタ喜劇にみえる。 クレジット途中にリュミエール兄弟撮影の二人の実演が数秒映し出されたけれど、当時の笑いや悲しみを内に込めているのが分かる。 それを振り払う子供に通ずる動きと表現がいいわね。 「アントワーヌ劇場」でのショコラ主演「オセロ」を劇中劇のように挿入したのは事実かどうかは別にして舞台ファンとして嬉しい限りだわ。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/84870/ *追記。 ブログのデザインを9月初旬に変更したの分かった? 「Blogger」を利用しているけど更新があり古い機能が使えなくなってしまったからよ。 新しいスケルトンを使って再構築したけど微妙なデザインが作れない。 クリック(タップ)操作が増えてしまった。 コードは修正したくないし・・。 これでいくしかないわね。

■シラノ・ド・ベルジュラック

■作:エドモン・ロスタン,台本:マキノノゾミ,鈴木哲也,演出:鈴木裕美,出演:吉田鋼太郎,黒木瞳,大野拓朗ほか ■NHK・Eテレ,2018.9.8(日生劇場,2018.5収録) ■吉田鋼太郎の挨拶が最初に入る。 テレビ用編集だが彼の意気込みを感じる。 蜷川幸雄の舞台は近年ご無沙汰だったので常連俳優である彼のことはよく知らない。 ・・物語の風景描写が続いていくが1幕終わりから舞台に集中できるようになる。 シラノがロクサーヌに宛てた韻文形式の恋文を科白として声に出す構造が面白い。 それが操り人形の糸のごとくロクサーヌとクリスチャンを動かしていく。 韻文とクリスチャンの無垢な性格の対比が舞台を楽しくしている。 恋愛における理論と実践の落差からだろう。 しかしロクサーヌはこの理論を受け止めるだけである。 彼女の立場は理解できるが影が薄くなるのはやむを得ない。 戦場に食料を届けるなど作者も苦労している。 そして終幕、修道院の庭にシラノが登場するのも頂けない。 彼はこの前にサッパリ退場するのが筋だとおもう。 ロクサーヌだけの修道院なら彼女が語る総括がとても生きてくるはずだ。 この作品は過去に鈴木忠志演出を観て甚く感動した記憶がある。 今回の鈴木裕美演出もまったく違う面白さがあった。 吉田鋼太郎の熱演もとてもいい。 彼は即興ができる役者である。 微細な振動を内包しているので瞬間的な判断を迷わない。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/90666

■FIELD フィールド

■振付:北尾亘,出演:Baobab ■吉祥寺シアター,2018.9.1-4 ■スポーツを意識した舞台で始まります。 走る場面もありウォーミングアップをするアスリートを思い出させてくれる。 振付は静止を含め小刻で形も動きも平凡にみえます。 前半途中、ダンサーたちが靴を脱ぎ素足になった場面で雰囲気がガラリと変わりましたね。 <ダンサー>に変身したのを感じました。 しかも、農民ダンサーに見える! 機械化以前の農民を思い出してしまった。 17名のダンサーは20代前半ですが多くが稲作文化のDNAを持っているらしい。 「FIELD」には田畑の意味もある。 主宰者北尾亘が「あいさつ」で書いている。 「ダンサーとアスリートは何が違う?」と。 ダンサーたちを見た率直な答えとしてスニーカーを脱ぐか履くかでしょう。  途中マイムが数場面入りますが面白くない。 でも天井の竹棒?や棒を繋いだ台でドラムを叩くのは流れに溶け込んでいました。 後半も靴を履いたり脱いだりしながら進むが、疲れが出始めてから見応えがでてきた。 慣れや疲労によりスニーカーの持つ鋭さが取れたのでしょう。 アスリートからストリートに戻った。 流れに統一感は有りますが印象が薄い。 意味が入る場面ではそれが伝わってこない、振付の展開が弱く奥行きが出ていない、などが考えられます。 元気なアスリートダンサーから農民ダンサーそしてストリートダンサーへの変遷は面白かった。 *Baobab第11回公演 *劇場サイト、 http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2018/06/baobab.html

■出口なし

■作:J・P・サルトル,演出:小川絵梨子,出演:大竹しのぶ,多部未華子,段田安則,本多遼 ■新国立劇場・小劇場,2018.8.25-9.24 ■大竹しのぶの生舞台は初めてである。 ジャンヌ・モローに似た立ち振る舞いで興味を持ち一度は観たいと思いながら今日に至ってしまった。 彼女が出演した作品や演出に関心が向かわなかったこともある。 今回はサルトルだから期待とともに不安もある。 照明が灯ると背景の赤いビロード風カーテンが先ずは目に染まる。 三つのソファーを包む空間も異様だが圧迫感が天井へ逃げている。 「出口がある」と言っているようにみえる。 作品をポジティブに取ろうとする演出だろう。 ガルサンにもそれが乗り移っている。 エステルも「地獄なんて知らない」雰囲気だ。 二人の声が科白を楽観的にしているのかもしれない。 反してイネスが中途半端だ。 迷っているようにみえる。 二人と比して存在感も薄い。 不安が当たってしまった。 ガルサンの科白「他人は地獄だ」が日本的な関係の意味合いに聞こえてしまった。 3人の台詞が声になると日本化されてしまい世界へ出られない。 この意味で「出口なし」といえる。 サルトルではなく「さるとる」のような舞台だった。 それは現代日本を暗示している。 ところで舞台下手の胸像付近では役者の声が響いて聞こえた。 たぶんマイクのせいだろう(?)。 この作品に合わないし小劇場では生身の声を聞きたい。 ジャンヌ・モローとの再会は又にしよう。 *「出口なし」( 寂光根隅的父演出,2017年 ) *「出口なし」( 白井晃演出,2014年 ) *シスカンパニーサイト、 http://www.siscompany.com/deguchi/gai.htm

■Nf3Nf6

■作・演出:野木萌葱,出演:西原誠吾,植村宏司,劇団:パラドックス定数 ■シアター風姿花伝,2018.8.23-26 ■登場人物は二人。 先日の「 5seconds 」と同じね。 でも今回のほうが自由度はある。 役柄上で精神を患っていないからよ。 チェスだと思っていたら暗号の話なの。 二人は数学者で訳の分からない文字列を壁に書いていく。 有名なエニグマの開発や運用に携わったらしい(?)。 物語は「ホロコースト」と「エニグマ」を背景にナチス将校とユダヤ人捕虜の、かつては同僚だった「数学者」としての苦闘が描かれていくの。 暗号が敵国に解読されている不信感の漂うなか、将校は捕虜の弟を銃殺刑にし捕虜は将校の兄の自殺を見届けていることも語られる。 上記カギ括弧の三つ巴の姿を演出家の離れ業で縫い合わせていくのが凄い。 素材の組み合わせの面白さがでていたわ。 そしてチェスの駒は出来事を象徴にして盤上で反復されていく・・。 話は変わるけど、やっと公開鍵暗号方式が理解できたの。 凄いでしょう? うふふ。 *パラドックス定数第42項 *劇団サイト、 https://pdx-c.com/past_play/nf3nf6-2018/ *2018.8.28追記。 以下の作品を観る・・ ■イミテーション・ゲーム-エニグマと天才数学者の秘密- ■監督:モルテン・ティルドゥム,出演:ベネディクト・カンバーバッチ ■(アメリカ,2014年作品) ■早速「エニグマ」に関する作品を探したらこれが見つかったの。 芝居と違い連合国側から描いていて主人公は数学者A・チューリング。 彼の伝記物と言ってよい。 チェス優勝者も登場する。 チューリングはエニグマの解読に成功するけど個別の戦局に利用しなかった。 ドイツに見破られないようにする為よ。 これに統計的手法を加味して最後は勝利に導いたというストーリーね。 戦争の裏側で科学的に戦局を動かしていく恐ろしさがみえる。 面白い作品だわ。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/80082/

■トリスタンとイゾルデ

■作曲:W・R・ワーグナー,演出:マリウシュ・トレリンスキ,指揮:サイモン・ラトル,出演:ニーナ・ステンメ,シチュアート・スケルトン,エカテリーナ・グバノヴァ,ルネ・パーペ他 ■東劇,2018.8.18-10.3(MET,2016.10.8収録) ■METアンコール上映が開催されていたので行ってきたわよ。 この作品は2016年に観ている*1、けどずっと気になっていたの。 「ワーグナー」の文字を見るといつも目が止まってしまう。 彼の作品は深みのある謎と劇的さを持っているから。 この二つは舞台芸術の必須条件だとおもう。  2回目だと余裕を持って聴くことができるわね。 サイモン・ラトルが演奏と歌唱を融合させるため「指揮者としてのマーラーを研究した」と言っていたけどナルホド。 全幕を通して底から湧いてくる重みのあるカタルシスを感じるのは何とも言えない味がある。 *1、 「トリスタンとイゾルデ」(MET,2016) *METライブビューイング2016作品 *作品、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/s/2016-17/#program_01

■5seconds

■作・演出:野木萌葱,出演:井内勇希,小野ゆたか,劇団:パラドックス定数 ■シアター風姿花伝,2018.8.18-21 ■登場人物は日本航空350便墜落事故を起こした機長片桐とその弁護士平野の二人だけ・・。 精神障害や飲酒行為を舞台に乗せるのはとても難しいと思う。 現実に戻されてしまうからよ。 でも精神障害がテーマの核心だから今回は戻され難い。 片桐機長が交互にやってくる正常と異常の精神状況を対等に扱っている為もある。 しかし平野弁護士はこの対等世界を受け止めることが出来ない。 対話は堂々巡りのまま終幕へ向かう。 遂に、片桐機長は墜落5秒前の心の内を平野弁護士に語って幕となる。 操縦ミスの原因は機長と副操縦士や航空機関士の上下関係からくる競争意識のように聞こえてしまった。 5秒前の片桐機長の精神状態はたまたま正常だったということかしら? ・・。 場面切替では二人一緒に舞台奥へ行き水を飲んだり目薬をつけたり次場面の衣装に着替えたりするの。 面白い切替方法だわ。 帰りの目白駅行バスに揺られながら考えたけど、5秒前の彼の精神状況が異常だったらこの芝居は成り立たないはずよ。 *パラドックス定数第41項 *劇団サイト、 https://pdx-c.com/past_play/5seconds2018/

■反応工程

■作:宮本研,演出:米山実,劇団:文化座 ■東京芸術劇場・シアターウエスト,2018.8.17-19 ■舞台をみて反応工程が何であるかが分かりました。 それは旧三井化学系企業の製造部署の名です。 平和の時代には染料を戦時下では燃料(?)を造る工程らしい。 1945年8月の当部署の日常が描かれていく。 製造オフィスの雰囲気が上手く出ていますね。 科白が熟されているからです。 特殊な状況を除いて就業風景の一つの完成形がみえる。 出退勤や朝礼、新入社員受け入れ、引き継ぎ、事務所での宴会などを取り込み、九州弁(?)の心地よいリズムで当時の職場が現前してくる。 このまま終幕まで続いても面白い芝居になったでしょう。 でも後半はこのリズムが崩れていきます。 事件を入れないと話にならない。 当部門に配属されている動員学徒と監督教官との対立が表面化していくからです。 教官は物腰が柔らかく権威ぶっていないので何を考えているのか掴めない。 学徒員田宮が教官清原に向かって最後に吐く台詞は「あなたは権力の犬だ!」。 教育者が軍部に協力していく悲劇を描いた芝居にみえます。 でも清原がはっきりしないので田宮が一方的になり真の対決が描けなかった。 この時代、戦争について少しでも深く考えた人は「消極的協力」か「消極的非協力」に傾いていくのではないでしょうか? 前者は教官清原、後者はマルクス系の本を広める勤労課員太宰です。 学徒たちはもちろん「積極的非協力」です。 戦後世界に馴染むのも消極人間には容易です。 清原は学校でデモクラシーを教え太宰は会社で組合長になっていく。 でも学徒たちは傷を背負い戦後を生きるしかない。 教官清原から「 旗を高く掲げよ 」のハロルド・ミュラー夫妻を連想してしまった。 友人のユダヤ人が戦後にハロルドを強く非難したが、同じように田宮が清原を「10年、いや20年経っても許せない」と言っている。 作者の「本当は言いたくなかった」台詞ではないでしょうか。 ところで宮本研の作品は調べたら二本観ていました。 「ザ・パイロット」(青年座)と「美しきものの伝説」(文学座)です。 追記ですが貼り紙やアジ看板が目立ったが舞台上の文章を読むと芝居の面白さが逃げてしまう。 ここは役者の身体と声で表現したいですね。 *劇場サイト、 http://www.geigeki.jp/perf

■メタルマクベス ーdisc1-

■原作:W・シェイクスピア,作:宮藤官九郎,演出:いのうえひでのり,音楽:岡崎司,出演:橋本さとし,濱田めぐみ他,劇団☆新感線 ■IHIステージアラウンド東京,2018.7.23-8.31 ■円形劇場ステージアラウンドへ行ってきました。 席に着いてもそわそわしてしまった。 う?動いた・・。 なんと客席が回り出す時は加速度を感じさせない。 慣性運動と舞台の中心が一致していないことからくる目眩のようなものを体感できるのが面白い。 回り終わるのと同時に舞台の中心がどこだか分かる。 360度をうたっているが使っているのは120度くらいかな? 横幕のようなスクリーンの開け閉めで舞台が見え隠れするようになっている。 劇場のメリットを引き出した場面はライダーが荒野を走り回るところだろう。 この作品は「マッドマックス」を背景に「マクベス」を演じるヘビメタ調ミュージカル・プレイだからバイクは必須である。 座席が回転してスクリーンに2218年の廃墟と化した東京を映しだしながらバイクが走り出すと時空を越えて未来の豊洲にいるようだ。 それにしても貧弱なバイクが混ざっていた。 本格的な台数で円形舞台をガンガン飛ばしてもらいたい。 この芝居の楽しさはもう一つのストーリーであるヘヴィ・メタルバンドの存在だろう。 しかも魔女に引っ掛けている。 予言をディスクに記録したのも謎めいている。 しかし休息を含めて4時間は長すぎる。 派手な流れで物語を均一化しているので肝心要が見えない。 ナマヌルイ個所、例えば王を殺害する場面でダンカンを棺におさめ葬儀までおこなうのには呆れてしまった。 日本的情緒が強すぎる。 このような数個所を圧縮し上演を30分短くすれば締まって良くなる。 またマクベスが夫人に甘えるのも下手な笑いを誘うだけだ。 唯一静寂が訪れる場面で、ダンカンが「戦う理由はなんだ??」とマクベスに聞くが、彼は答えられない。 (家族の為だなんて最低だ!) 観終わった時、面白かったが何が面白かったのか? マクベスと同じように答えられない舞台だった。 キレイはキタナイ、オモシロイはツマラナイ。 *ゲキxシネ、 http://www.geki-cine.jp/m-macbeth/

■九月、東京の路上で

■原作:加藤直樹,作・演出:坂手洋二,劇団:燐光群 ■ザスズナリ,2018.7.21-8.5 ■役者たちは「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイド残響」(加藤直樹著)を持って登場します。 朗読劇だとみていたが本は時々読む程度で科白が主です。 千歳烏山オリンピック対策委員会の13人は烏山神社を皮切りに関東大震災下の朝鮮人虐殺現場巡りを始める。 夫々の現場の説明や今昔風景、そして時間が遡り震災時の状況を再現していくのですが具体的で迫力があります。 それは住所や人数、武器、殺傷内容なども語られるからです。 朝鮮人ばかりではなく中国人や怪しい日本人まで対象にされていく。 その理由は「井戸に毒を入れた」等々の流言を受けて殺しに及んだらしい。 軍や警察の態度行動もハッキリしていない。 むしろ虐殺を助長している。 何故どの地区も同じような状況に陥ってしまったのか? 日頃発生する一つ一つの小さな差別を見過してきたことが考えられます。 それが積み重なって犯行に及んでしまった。 たとえば先日の杉田水脈LGBT発言も些細なことではなく差別だという声を上げ続けることが同じ状況に陥らない一歩となるはずです。 また中国人の賃金上昇で一部の日本人が働き難くなっていたのが殺傷対象の一因とも言っている。 今なら正規・非正規社員の衝突のようで将来の経済悪化になった時の混乱が予想できます。 国会議員と自衛隊員の議論も興味深い。 民を死に追いやらないことが国の務めで、その逆ではない。 生死を国家が操作できる死刑制度は人を殺してもよい理由を国民が持ってしまうことです。 これが災害や戦争でも正当化されていく。 1923年と今とでは報収量や媒体は違っても情報判断や処理能力に差が見え難い。 近未来を描いているようで苦しい芝居でしたが淡々としてテンポが良くリズムがあり充実した2時間半を持てました。 震災時に千田是也が千駄ヶ谷で自警団に朝鮮人と間違えられ暴行されたので芸名を千田是也にした話にはびっくり。 *劇団サイト、 http://rinkogun.com/Kugatsu_Tokyo.html

■慕情の部屋

■作・演出:中村匡克,出演:桝井賢斗,川西佑佳ほか,劇団:スポンジ ■下北沢駅前劇場,2018.7.11-15 ■主人公の青年が女に騙される話である。 女は青年に近づく。 女は夫からDVも受けているらしい。 女を好きになった青年は何とかしなきゃと思う。 そして青年は女の夫を殺害する・・。 青年は刑務所で振り返る。 彼女がDVの傷跡を見せてくれなかったこと、寝室に鍵が掛かっていなかったこと、彼女が殺害前に夫に保険をかけたこと、刺したナイフの傷は浅かったこと、・・。 カットバック技法で過去が甦ってくる。  主人公の真摯な行動が誤解される話の多い演出家だ。 真っ当な行動を社会は無視するので主人公が苦しむパターンだ。 でも今回は違う。 殺人を犯したのは確かなようだ。 しかも主人公に苦しみがみえない。 青年にはすべてが謎としてやってくるからである。 青年は若すぎる。 これで苦しみより先に謎が来てしまった。  青年にはもっと苦しみぬいて欲しいところだ。 でも謎をより熟成させても面白いかもしれない。 しかし女の心は読めない。 謎以前だ。 これで作品はどうにも動けない。 どっちつかずで中途半端の感があった。 舞台美術の場面転換は良かった。 映画の話に逸れるが・・、科白に幾度もゴダールの名が聞こえた。 しかし青年はゴダールについて一言も喋ってくれない。 舞台の流れとゴダールの作品を当て嵌めようとしたが上手くいかなかった。 「トイ・ストーリー3」は観ていない。 「慕情・・」も映画タイトルを真似ているが舞台と結び付けられなかった。 振り出しに戻るが、青年がタクシーに乗って殺しに行く背景にクレジットタイトル映像が流れる。 この場面はどの映画作品を真似ているのか?謎解きのようにみえてしまった。 映画の話題は多かったが結局は舞台との因果関係は無いのだろう。 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/92821 *「このブログを検索」語句は、 中村匡克

■満州戦線

■作:パク・グニョン,翻訳:石川樹里,演出:シライケイタ,芸監:流山児祥,出演:伊藤弘子,清水直子,洪明花,いわいのふ健,カゴシマジロー,小暮拓矢 ■ザスズナリ,2018.7.11-16 ■客席を両端に分け舞台を中央に置く構造はこの劇場では初めてです。 本日は満席で男性高齢者が圧倒的に多い。 そして1940年満州国、新京在住6人の朝鮮人の物語が始まる。 その一人、金田という文学青年が舞台からときどき抜け出し未来から現在にト書きのように語りかけます。 これから生まれてくる彼の父を何とか育てようと周囲の人たちが奮闘する話だと分かってくる。 祖母芳江が新京役所に勤めていた時の上司との間にできた子が父になる。 芳江はすぐに日本人である上司に捨てられるからです。 それは日本人として生きていく為に芳江が取った行動でした。 戸籍上の祖父になる満州国陸軍軍官飛鳥も日本軍人に同化しようと努力している。 その妹慶子、医者の木村と婚約者であるキリスト教信者尚美を含め6人は五族協和のなか苦しい生活を続けて行きます。 そして戦争終結がみえたある日、君が代が流れるなか旭日旗の前で直立不動の彼らの姿を映しだしながら幕が下りる・・。 複雑さを感じる舞台でした。 客席が明るくなると周囲も騒めいていましたね。 アフタートークがある。 出席はパク・グニョン、シライケイタ、流山児祥、通訳は洪明花。 韓国上演でも終場は賛否があったようです。 当時の状況下で人々の多くは時代の流れに身を任せ必死に生きなければならなかったことを作者パク・クニョンは伝えたかったようです。 国家がどうであれ日常を生き切ることが大事だということでしょう。 次に作者はモンペの話をしだした。 それは国家総動員法を近頃知ってモンペに関心を持ったそうです。 国家強制のモンペ普及運動ですね。 朝鮮では日本支配の象徴ですが満州ではどうだったのか? また祖父を含め家系図の話があったが、これは元大統領批判が含まれている。 そして腐敗している一部キリスト教団体の話や、韓国国歌がいまだに満州国祝典音楽を使っているとの批判も出ました。 満州国が今の韓国に複雑な影を落としているのがわかります。 岸信介の満州資金が回りまわって安倍晋三まで繋がっている日本も同じだということでトークは終わりました。 *CoRich、 https://

■アマデウス

■作:ピーター・シェーファー,演出:マイケル・ロングハースト,出演:ルシアン・ムサマディ,アダム・ギレン ■TOHOシネマズ日本橋,2018.7.6-12(オリヴィエ劇場収録) ■イタリア時代の甘いお菓子の思い出がサリエリ自身から語られる。 それはカトリック家族の慣習や教会のフレスコ画にも広げられ出足から想像力が刺激される。 ト書きを喋るなどの進行係を彼が担当するので物語背景がよく分かる。 サリエリのモーツァルトへの嫉妬は現代人にも通ずるから前のめりになる。 違うのは神が絡むことである。 頂点にサリエリ、モーツァルト、神がいる三角構造だ。 サリエリは神の企てに翻弄され嫉妬することに苦しむ。 転機が訪れるのはモーツアルトの妻コンスタンツェを唆した場面からだろう。 ここは役者ルシアン・ムサマディの地が見えて面白い。 以降サリエリは神への態度を硬直化させていく。 「神の企てを阻止する」「神に思い知らせてやる」。 これで前半にあった物語の豊かさが萎んでいってしまった。 サリエリの科白や行動が事務的になってしまったからである。 釣られてモーツァルトの嫉妬される意識も天才の牙も遠のいていった。 楽団員をコロスにして演技をさせるので背景が濃い舞台になっている。 しかも後半はオペラに力が入る。 「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」そして「魔笛」で幕が下りる。 どれも一場面だがとてもリッチだ。 舞台の華麗さは悪くはない、がしかしサリエリとモーツァルトと神の三角構造が深まったとは言えない。 この嫉妬の形を煮詰めればより面白くなったはずである。 インディペンデントなど5紙の劇評は五つ星を取っているがタイムズ等4紙での四つ星は後半の深みへ行く力の弱さを指摘しているのだと思う。 まっ、それはどうでもよい。 NTの舞台からはいつも素晴らしい刺激を貰えるから。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *作品、 https://www.ntlive.jp/amadeus

■街の麦

■演出:天野天街,脚本:虎馬鯨,原作:加藤千晶,音楽:加藤千晶,珠水,原マスミ,振付:夕沈,劇団:少年王者舘,演奏:街々ソックス ■上野ストアハウス,2018.7.5-9 ■古くなった駅地下街が解体される話のようです。 主人公の女子中学生(高校生?)が地下街を歩くと未来の友人らに出会ったり街を走る電車に乗ったり・・、時空が混沌としてくる。 それが授業中に居眠りをしていた主人公の夢のようでもある。 昭和の風景が入り混じった懐かしさがあります。 生演奏と歌唱が彩りを添えます。 でも舞台は学芸会になってしまった。 科白が羅列だけの懐古趣味です。 生演奏は良いのですが歌詞が表面的です。 ギターを持った独唱は恰好イイがストーリーに噛み合っていかない。 ウンコの話は楽しかったが、学校の授業風景はいただけない。 全体を統一させようとして内容が薄くなってしまった? 人生の充実は夫々の年代で必要な体験をちゃんとしてきたかで決まります。 なかでも少年時代が宝であったことを現前化できるのがこの劇団でしょう。 今回はその宝が霞んでしまっていた。 *チラシ、 http://www.oujakan.jp/_images/machio.jpg

■真夜中の虹

■作・演出・美術:益山貴司,出演:劇団子供鉅人 ■下北沢駅前劇場,2018.7.1-8 ■オムニバス形式を採っています。 「真夜中のスタジオ」「・・の兄妹」「・・のパーティ」「・・のホテル」・・。 「真夜中の虹」と呼ぶの分かりました。 ストーリーは独立しているが後半はそれぞれが絡み合い最後は七色だが「虹」のように一つにみえる。 再演らしいが、この構造の面白さに演出家は惚れたのでしょう。 それと大阪弁?で喋ると人間味が濃く見えます。 関西系の劇団は時々出会うが舞台で直に接する方言は生々しく耳に届く。 家族や男女の喜怒哀楽が中心のため余計にそれを感じます。 特に認知症の妹が他人家族の綻びを治す話が光っていました。 90分の上演でしたが後半を取捨選択して15分短くすれば虹がよりハッキリ見えたでしょう。 *劇団サイト、 http://www.kodomokyojin.com/works/2016mayonaka.html *「このブログを検索」語句は、 益山貴司

■centrifugal  ■resonance  ■Intensional Particle

■以下の3作品を上演 □「centrifugal」,振付:梅田宏明,出演:Somatic Field Project,サウンド:S20 □「resonance」,振付:梅田宏明,出演:Somatic Field Project,サウンド:S20 □「IntensionalParticle」,振付・出演:梅田宏明,イメージ&サウンド&制作:S20,ビジュアル:LudovicBurczykowski,イメージプログラム:堂園翔矢,映像編集:GuillaumeGravier ■あうるすぽっと,2018.6.30-7.1 ■梅田宏明の振付はバタバタしていない。 それは足を地面に付けているからよ。 そして骨肉の動きを等速度に近づけるから。 最初の「centrifugal」は固さがありリズムが眠くなる感じね。 遠心力より慣性力の影響かしら? でも「resonance」には覚醒されたわよ。 「マトリックス」でネオが弾丸をヌルッと避ける動きに似ている。 以上2作品は暗い単色照明と突き刺さる雑音のような音響が背景なの。 最後の「IntnesionalParticle」は壊れたオシロスコープ映像が加わる。 梅田のソロだけど、見せる者をトランス状態に持っていく舞台は凄い。 映像の激しさに付かず離れずの振付はダンサーとしての妙味ね。 いま流行りのプロジェクション・マッピングを使わないから存在感を失っていない。 アフタートークで、梅田は写真家からダンサーに移った話をしたけどダンスに対する確固たる考えを無意識レベルで持っている。 そしてコンセプトを考えて観客にどのようにみせるか迄も描くことが出来る。 舞台を観てもブレていない。 将来は細胞などの器官素材をダンスで描きたいなんて言っているのは面白い。 また一人、楽しいアーティストに出会えて嬉しいわ。 *劇場、 https://www.owlspot.jp/events/performance/1-resonance_1.html

■山姥  ■鷹姫

■世田谷パブリックシアター,2018.6.23-7.1 ■舞囃子「山姥」,出演:観世喜正ほか ■先に観た「 楢山節考 」の続きのようだ。 雪山に消えていったおりんの後ろ姿を思い出す。 そして山姥となり再び登場か? 「人生100年時代」ならあり得る。 でも舞囃子のため演劇時空が途切れてしまった。 観世喜正の声が整い過ぎていて、より抽象へ向かう舞台になっていた。 ■能「鷹姫」,原作:W・B・イェイツ,横道萬里雄,演出:野村萬斎,出演:大槻文蔵,片山九郎右衛門,野村萬斎ほか ■空武麟は直面のため聞き取れたが、老人の科白を結構聞き逃してしまった。 ところで鷹姫を見ながら「楢山節考」の鴉の目付きがとても良かったことを思い出す。 解説で鴉と鷹を結び付けていたからでもある。 どちらも余分な意味を伴わない動きに感心してしまう。 鳥は目的へまっしぐらだ。 迷いある人間と自然の化身である鳥類を比較した2作品に思えた。 能のようで能ではない不可思議な感じはしたが、先月の能楽堂で観た「 桜の園 」のような衝撃は無い。 今回は登場人物の守備範囲が変わらないからだろう。 *狂言劇場特別版 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806kyougen.html

■呼声  ■楢山節考

■世田谷パブリックシアター,2018.6.23-7.1 ■狂言「呼声」,出演:野村萬斎,内藤進,中村修一 ■いやー、面白かった。 演者たちが普通の調子から平家節、小唄節、踊節とエスカレートしていく。 しかも同じ対話を繰り返していくからリズミカルである。 舞台作品としては完璧と言ってよい。 「にほんごであそぼ」でも上演したようだが「ややこしや」と同じく言葉と身体が一つになる舞台は子供大人を越えた楽しさがある。 ■狂言「楢山節考」,原作:深沢七郎,脚本:岡本克己,演出:野村万作,出演:野村万作,深田博治ほか ■映画や舞台で観ていたが狂言では初めてである。 「主人公おりんの回想を交えた形で展開」する。 山川で遊んだ子供時代の懐かしい思い出、食料難からくる盗人の記憶、歯が丈夫すぎた苦悩が楢山の雪の中で甦る。 涙なしでは観ることができない。 おりんは一言も喋らない。 彼女の動作はしっかりしている。 楢山へ行くには考えられない気力体力がある。 ミスマッチの戸惑いがおそってくる。 「人生100年時代」に再び楢山を現代に甦らせた。 *狂言劇場特別版 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806kyougen.html

■ブロウクン・コンソート

■作・演出:野木萌葱,劇団:パラドックス定数 ■シアター風姿花伝,2018.6.26-7.1 ■舞台は下町の銃製造工場の事務室らしい。 幕が開きすぐに息をするのも忘れてしまう程の緊張感がやってくるの。 それは警察やヤクザの仕事の裏側を見せてくれるからよ。 台詞が演技に浸み込んでいくリアルさがある。 少しでもズレると漫画になってしまう。 現実の底板下の世界をみている緊張感と言ってもいいわね。 そして二人一組の関係構造が面白い。 職位上下の二人の刑事、ヤクザの兄弟二人、銃製造職人も兄弟二人。 互いの二人は性格や人生観が違い危機への対応も違う。 題名の通りね。 この差が物語の襞を作っていく。 そして銃製造の機械音や殺人の叫び声を音響だけで、時間推移は微妙な照明差だけで表現しているのも世界の冷酷さを感じさせる。 劇的感動は無いけれど舞台の存在意義の答えを確かに持っている。 その答えを見事に表現しているのは流石ね。 客席は20歳代女性が5割、65歳上男性が3割かな。 この比率は時々お目にかかるの。 それは有能な若い女性演出家の作品が目立たない小劇場で上演される時よ。 演出家は要注目ということね。 来年7月の新国立劇場初登場は楽しみだわ。 でも牙を抜かれないでね。 *パラドックス定数第40項 *劇団サイト、 https://pdx-c.com/past_play/broken-consort-2018/

■日本文学盛衰史

■原作:高橋源一郎,作・演出:平田オリザ,出演:青年団 ■吉祥寺シアター,2018.6.7-7.9 ■4人の小説家、北村透谷・正岡子規・二葉亭四迷・夏目漱石の葬儀場面が舞台です。 4場から構成され、通夜ぶるまいの席で参列者が世間話をする。 懐かしい小説家ばかりですね。 多くは中・高校時代に読んだ作家でしょう。 でも北村透谷は記憶がない。 4場とも座敷では森鴎外が仕切っていく。 一場の透谷が面白かった。 後場へ行くほどつまらなくなる。 同じような繰り返しで差異が掴み難い為です。 特に夏目漱石の四場は登場作家が多すぎる。 その中で詩人たちは存在感が出ていましたね。 詩の朗読は舞台に強い。 宮沢賢治、若山牧水、石川啄木・・。 座敷での主要な話題を拾うと、一つは内面の問題、もう一つは翻訳の問題、それと嫁姑の問題です。 内面はもろに近代文学に通じますが、翻訳は国内と外国の二つがある。 国語の整備は国家統一に繋がるからです。 井上ひさしの舞台を思い出しますね*1。 この舞台の一番の驚きは世間話に現代が含まれることです。 大谷翔平やW杯、加計学園まで話題に登る。 面白いがコントロールが難しい。 戻った時に過去の話題が一瞬途切れてしまう。 演出家は計算済だとおもいますが。 通夜に訪れる作家の名前を一つ一つ追っていくとその時代が現れて来る。 青春群像劇たる所以です。 煮え切れないのは通夜だからでしょう。 「明治150年」が経っても当時の問題は形を変えて続いているようですね。 嫁姑を含め家族関係の変わらない日本が少子化へ進んだことは作家盛衰史で納得がいきます。 そして終幕のダンスがデスロック「再/生」に似ていたのは演出家のメッセージのようで意味深でした。 *1、「 國語元年 」(栗山民也演出,2015年) *青年団第79回公演 *劇場サイト、 http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2018/03/seinendan79.html

■山山

■作:松原俊太郎,演出:三浦基,美術:杉山至,出演:地点 ■神奈川芸術劇場・中スタジオ,2018.6.6-16 ■舞台の床がV字形でしかも客席側に低く傾き山・谷・山のようにみえる。 役者7人がその急斜面の山谷山を激しく動き回るの。 科白も7人が交互にラップ調で喋りまくり、集団で動き回るのでリズム感ある舞台になっている。 粗筋は目を通しただけなのでセリフに集中! 震災後に取り残された汚染物質の山に暮らす家族を描いているらしい。 夫婦とアメリカへ行こうとしている娘の三人かしら。 ロボットの話も出る。 社会性のあるストーリーにみえる。 でも発声や表情や動作で追っていくしかない。 観客の集中力が100分の長さに耐えられるか? 一度意識を外すと戻れなくて苦しい舞台になってしまう。 「・・チェーホフ、ベケット、イェリネク、「 バードルビー 」をモチーフにしているらしいがその余裕はない。 「声が聞こえるというのは凄いこと・・」。 作者が書いているとおりよ。 でも声はリズムを通過しないといけない。 この舞台の特徴だとおもう。 小林洋平の声は身体を通したリズムを持っていて良く聞こえた。 言葉の意味だけではなく意味背景もね。 役者のリズム感がより大事な舞台にみえる。 観客も感度をあげないとだめかな。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/yamayama

■東海道中膝栗毛、歌舞伎座捕物帖

■原作:十返舎一九,構成:杉原邦生,脚本:戸部和久,出演:市川染五郎,市川猿之助(脚本),中村勘九郎ほか ■東劇,2018.6.9-29(歌舞伎座,2017.8収録) ■「歌舞伎座捕物帖」は「こびきちょうなぞときばなし」と読む。 前回の「 やじきた 」ではYJKTの二人が花火に飛ばされて幕が下りたが、今回はその続きから始まる。 飛んできた先がナント木挽町歌舞伎座の前! 二人は歌舞伎座で働くことになるが「義経千本桜四ノ切」の稽古中に殺人事件が頻発するという話です。 殺人の周辺では座の経営問題や役者同士のイザコザ、舞台仕掛の話などがテンコ盛りで観ていても楽しいが忙しい。 しかも謎解きのため説明場面が多いから尚更です。 途中何度も人物関連図が写し出されたことも演出が混乱している証拠でしょう。 サービス精神旺盛は嬉しいがもう少しスッキリさせて欲しいところです。 *シネマ歌舞伎第31弾作品 *作品、 http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/38/

■SUKITA、刻まれたアーティストたちの一瞬

■感想は、「 SUKITA、刻まれたアーティストたちの一瞬 」

■繻子の靴、四日間のスペイン芝居

■作:ポール・クローデル,翻訳・演出:渡邊守章,映像・美術:高谷史郎,照明:服部基,音楽:原摩利彦,衣装:萩野緑,出演:剣幸,吉見一豊,石井英明,阿部一徳,小田豊ほか ■静岡芸術劇場,2018.6.9-10 ■上演8時間の舞台はどのように作るのだろうか? 「譜面台を前に俳優が朗読する局面と実際に演技をする局面を組み合わせる」ことで可能にしたらしい。 演出家は朗読場面を「オラトリオ型」と呼んでいる。  段々畑に似た「三層舞台」も面白い。 舞台地上、2階、3階の3段床で役者は演技をする。 しかも3分割された正面壁に映像を映し出すことで役者と映像の一体化が隅々まで可能になる。 スペイン大航海時代らしく海や星、船が映しだされるので物語背景を楽しく描くことができる。 星々を見ていると昨年の「 子午線の祀り 」を思い出す。 ・・ナント野村萬斎も登場するではないか! でも映像ではシラケる。 芝居は4幕だがそれを四日間と言っている。 第一日目は「オラトリオ型」や「三層舞台」に戸惑ったが休息を挟んで二日目途中から物語に入り込むことができた。 スペインからアフリカへ、アメリカへ、そしてアジアへ、日本へ・・。 主人公ドニャ・プルエーズの先夫ドン・ペラージュは途中亡くなり後夫ドン・カミーユとドン・ロドリッグの三人に絞られていくのだが、地理的な広さを背景とした三角関係に想像が追いつかない。 アメリカへ行き戻るにも当時なら数年いや十年単位になる。 世界の広さ!、大航海時代の海と星と人生一生が混じり合うところに芝居の面白さがある。 広さが時間として積み重なっていきプルエーズとロドリッグの愛が大海原に溶けていく感覚が舞台に現れる。 終幕の四日目、ロドリッグにもその感覚が救済として訪れたのだろう。 *ポール・クローデル生誕150周年記念作品 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/92262

■バーンスタイン・センテナリー

■以下の3作品を上映 □「幽玄Yugen」,曲:チチェスター詩編,振付:ウェイン・マグレガー,指揮:クン・ケセルス,出演:フェデリコ・ボネッリ他 □「不安な時代」,曲:交響曲第2番,振付:リアム・スカーレット,指揮:バリー・ワーズワース,出演:サラ・ラム他 □「コリュバンテスの遊戯」,曲:セレナード(プラトンの饗宴),振付:クリストファー・ウィールドン,指揮:クン・ケセルス,衣装:アーデム・モラリオグル,出演:マシュー・ボール他 ■TOHOシネマズ日本橋,2018.6.8-14(コヴェント・ガーデン,2018.3.27収録) ■作曲家レナード・バーンスタイン生誕100年記念として作られたバレエ3品です。 バーンスタインと言えば「ウェスト・サイド物語」でしょう。 あと「ファンシー・フリー」と言うより「オン・ザ・タウン」ですか。 どちらも映画でしか観ていませんが。 しかもバーンスタインよりジェローム・ロビンスの名前で選んだ記憶があります。 バーンスタインは作曲家より指揮者のイメージが強い。 今回の3曲は初めて聴きます。 「幽玄」は合唱や独唱が入り宗教性がある。 音楽も振付も強さがあり「幽玄」とは少し違う世界にみえました。 「不安な時代」は1940年代ニューヨークの酒場が舞台ですが「ウェスト・サイド物語」の主人公たちのその後に見える。 でも時代は逆に遡っている。 「コリュバンテスの遊戯」は三作品の中で一番気に入りました。 振付家クリストファー・ウィールドンとロイヤル・バレエの組織力の勝利でしょう。 衣装もよかった。 バーンスタインの音楽は志向性を持っているように感じます。 振付のベクトルを同方向に合わせることにより高質なエンターテインメントを舞台に作り出すことができる。 特に後2作品のように。 *ROH英国ロイヤル・オペラ・ハウス2017シネマシーズン作品 *作品サイト、 http://tohotowa.co.jp/roh/movie/bernstein.html

■金柑少年

■演出:天児牛大,音楽:吉川洋一郎,出演:山海塾 ■世田谷パブリックシアター,2018.6.5-6 ■山海塾が舞踏とは考えてこなかった。 センスが良すぎるからだ。 寺山修司系劇団の白塗りダンサーを舞踏と思わないのに似ている。 今回、この作品をみて初めて山海塾舞踏に触れたようにおもった。 それは舞踏の原点が一杯詰まっていたからである。 うずくまる姿勢や褞袍(どてら)で踊る姿、そして喜怒哀楽の表情場面の多さにである。 先日の「 和栗由紀夫、魂の旅 」で観た記録映像の到る所に顔表現の豊かさが映されていた為もある。 また鶏やヤギを登場させることはあるが孔雀は山海塾らしい選択だ。 ただオムニバス形式の各場面の繋がりが弱くて後味が薄い。 演出家も円環を言っている。 金柑少年を終幕に再登場させるような工夫をしてもよかったとおもう。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806-50139sankaijuku.html

■卵を立てることから-卵熱ー

■演出:天児牛大,音楽:YAS-KAZ,吉川洋一郎,出演:山海塾 ■世田谷パブリックシアター,2018.6.1-3 ■この作品は一度観ている。 殆んど記憶に無いが、卵が割れダンサーが水しぶきをあげて走り回る場面は忘れられない。 今回観て、水を張った床での演技時間が長いのに驚く。 濡れて肌に纏わりついた衣装はいつもと違った身体が浮きでて面白い。 「彼方から」「彼方へ」で声をあげるのも効果的だ。 飾りで置いてある卵は混乱する。 エイリアンを思い出してしまった。 ・・! 卵は一つが集中できる。 そして卵と水の関係が不安定で何方付かずだ。 落ちてくる砂も違和感があった。 有名作品のため多くを取り込み過ぎたようにみえる。 むしろ「卵>>水」か「水>>卵」のどちらかに比重を片寄らせた方が深みが出るのではないだろうか?  衣装はいつもながら素晴らしい。 今回は太糸で編んだショールから肋骨姿で悟りに入っている仏陀を想像してしまった。 小さな梵鐘もあり仏教的な雰囲気を感じさせる舞台であった。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806-50139sankaijuku.html

■サンドリヨン

■原作:シャルル・ペロー,作曲:ジュール・マスネ,指揮:ベルトラン・ド・ビリー,演出:ロラン・ペリー,出演:ジョイス・ディドナート,アリス・クート,キャスリーン・キム,ステファニー・ブライズ ■新宿ピカデリー,2018.6.2-8(MET,2018.4.28収録) ■有名な作品だけどオペラで観るのは初めてなの。 METでも初演らしい。 上演が少ない理由を「チェネレントラ」があるからと指揮者が言っていたけど、今日の舞台を観てもその事が分かる。 童話にあったシンデレラのドキドキ感が無い。 それは大事な場面を単純化しているから。 そして歌詞が平凡だから。 しかも舞台美術や衣装を記号化し過ぎてしまった。 演出家は考え過ぎね。 フランス的と言えば聞こえが良いかもしれない。 歌手では継母ステファニー・プライズと妖精キャスリーン・キムのキャラクターが上手く表現されていた。 これでメゾソプラノの主人公二人が脇役に近づき印象が薄くなったようにみえる。 演奏は新鮮だったわよ。 初演だから固まっていない、そして演奏者が研究熱心になる。 この二つの賜物ね。 これで2017シーズンは終了。 今年は「 ノルマ 」「 セミラーミデ 」「 ルイザ・ミラー 」と本日の「サンドリヨン」の4本を観たことになる。 「ノルマ」を除き他は初めての作品で楽しかったわよ。 それと「 皆殺しの天使 」も追加しておくわね。 *METライブビューイング2017作品 *作品サイト、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/76/

■ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ

■作:トム・ストッパード,演出:デヴィッド・ルヴォー,出演:ダニエル・ラドクリフ,ジョシュワ・マグワイア ■TOHOシネマズ日本橋,2018.5.25-31(オールド・ヴィック劇場収録) ■劇場では「ハムレット」を上演している。 そこでは裏にもう一つの舞台と客席を持っていて当作品を同時上演している。 表舞台の「ハムレット」の役者が裏舞台に時々現れる。 裏主人公ローゼンクランツとギルデンスターンは嫌々ながら彼らと演技を合わせていく。 ・・舞台構造をこのように捉えたがどうだろうか? また死と演劇を論じている芝居でもある。 確率から死を、関数から演劇を考えさせてくれる面白い手法を採っている。 コイン投げや言葉遊びから<信念の度合いを表す主観確率>という概念を用い、二人の来るべき死を予測している。 そして旅芸人たちが、演劇が持つ構造から本質を見せる<再帰的関数である劇中劇>を展開し「ハムレット」の練習や二人の死刑執行場面などを演じていく。 劇中劇は目眩と共に覚醒を呼び起こしてくれる。 しかし確率と関数はやはり、どうでもよい。 コメディアンな二人と対照的な「ハムレット」の役者たち、演奏をしながら旅をする芸人一行は抜群の組み合わせにみえた。  鵜山仁演出(2015年) の時は「ゴドーを待ちながら」を意識したが、今回は作品構造や科白の混沌、役者身体の活きの良さ、簡素な舞台美術と的確な衣装などなどナショナル・シアターの豊富な総合力を楽しむことができた。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *作品、 https://www.ntlive.jp/rosencrantz

■ヘンリー五世、嘆きの王冠ホロウ・クラウン

■原作:W・シェイクスピア,監督:テア・シャロック,出演:トム・ヒドルストン他 ■(イギリス,2012年作品) ■先日の「 ヘンリー五世 」を観た序でにDVDを取り寄せました。 ・・これは原作に忠実にみえます。 英語のリズムが心地よいからです。 とは言っても原作は読んでいません。 戦場兵士たちを鼓舞する場面が良く出来ている。 そういえば他監督作品も同じだったことを思い出してきました。 シェイクスピア史劇を本場の映画で観るのは楽しい。 DVDをみると、ヘンリー五世がキャサリンに求婚する場面でキスはしなかった。 先日の舞台では浦井健二と中嶋朋子は熱いキスをしていたが・・、演出とは便利なものです。 *映画comサイト, https://eiga.com/movie/86600/

■フィデリオ

■作曲:L・V・ベートーヴェン,指揮:飯守泰次郎,演出:カタリーナ・ワーグナー,出演:リカルダ・メルベート,ミヒャエル・クブファー=ラデツキー,ステファン・グールド,妻屋秀和ほか,管弦楽:東京交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.5.20-6.2 ■古ぼけたビルディングが舞台一杯に建てられている。 それを縦割りにして部屋々や牢獄が見える。 上階の歌手は見上げるようね。 そして演奏が始まった途端、あのベートーヴェンが牢獄に居る気配を感じたわよ。 迫りくる重圧・・。 最初は演出家の意図がみえなかったの。 娘マルチェリーネのままごと遊びもね。 おカネの話も沢山でてくる。 その現実が監獄の暗さと溶け合ってベートーヴェンの苦悩に繋がっていく。 素面な対話が途中に入るから拍手もできない。 呼吸をするタイミングも取れない。 歌手も下に向かって歌うからそれにつられて呼吸まで意識するのね。 でもビルディング1階(牢獄)からのフロレスタンの最初の一声は暗さを突き破った。 そして終幕の賛歌へと近づいていく。 まさに第九の合唱よ。 ステファン・グールドもリカルダ・メルベートも滑らず重みの有る声で締めくくったわね。 地下牢の囚人合唱団も迫力があった。 それにしても、なんてゴッツイ作品なんでしょう。 ストーリーも粗過ぎる。 謎も無い。 「偉大なベートーヴェンに慣れてしまったが・・、その奥へ迫りたい!」と指揮者は言っていたけど、ベートーヴェンの心の在り様がそのまま舞台に出現していた。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *作品サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/fidelio/

■チェーホフ桜の園より

■原作:A・チェーホフ,演出:レオニード・アニシモフ,出演:東京ノーヴイ・レパートリーシアター ■梅若能学院会館,2018.5.26 ■幕が開くまでどのような舞台になるのかイメージが湧かなかった。 能舞台を借りて「桜の園」を普通のように演じるのかな? しかし驚きのハズレだ。 役者の発声や摺足まで能を真似ている。 地謡も登場する。 能の雰囲気が漂っているが、もちろん能ではない。 科白と科白の間が生きている。 その空白は役者の身体に語らせるからだ。 和服のようにみえる衣装も素晴らしい。 アジア折衷衣装と言ってよい。 唸り声を静かに発しながら徘徊する爺やがまた面白い。 ほぼ舞踏だ。 橋掛かりでは、役者が別世界からやって来て再び帰っていくようにみえた。 そして少しずつ舞台に引き込まれていく。 前半の領主婦人と養女の喋り方が少し遅く少し高過ぎて違和感があった。 後半は良くなる。 それと商人が早足になった場面、また領主婦人と大学生の恋愛についての感情的な問答は折角の能的リズムが壊れてしまった。 感情的なところは別方法を考えてもよい。 この延長として娘と商人の結婚話が壊れる大事な場はもっと緻密な計算が必要だと思う。 終幕の爺やは徘徊を止め皆の後ろ姿を見送るだけでよい。  今日はいつも以上にチェーホフの色々なことを考えてしまった。 予想外の楽しさが詰まっていたからである。 *2018年ロシア文化フェスティバル参加作品 *劇団、 http://tokyo-novyi.muse.weblife.me/japanese/index.html

■ヘンリー五世

■原作:W・シエイクスピア,翻訳:小田島雄志,演出:鵜山仁,出演:浦井健二,岡本健一,中嶋朋子,立川三貴ほか ■新国立劇場・中劇場,2018.5.17-6.3 ■木材を積み上げた舞台は「 ヘンリー四世 」と同じですね。 今回はその続きでハル王子はヘンリー五世となりフランスへ進軍する話です。 シェイクスピア史劇はいつも混乱します。 ヘンリー何世か?どのパートか?分からなくなる。 調べると「ヘンリー五世」は映画で観ていました。 監督がローレンス・オリビエ(1945年作)とケネス・ブラナー(1989年作)の二本です。 詳細は忘れたがどちらも面白かったことは覚えています。 昨年公開した「 嘆きの王冠ホロウ・クラウン第4話 」(テア・シャロック監督、2012年作)は見逃してしまった。 舞台はあっというまに戦場に変わる。 フランス遠征に反対していた王がテニスボールで賛成に回る経緯は史実は別にして史劇の面白さがあります。 そして休憩を挟んで戦場場面が延々と続いていく。 フォルスタッフ旧友の登場や王の演説、観客に語りかけるコロスの起用もある。 それにしても熱気が感じられない。 劇場の広さも密度を薄くしている。 科白量の多い役者は別としてどこか冷めています。 脇役が持て余しているのも一因かもしれない。 戦争場面の難しいところですね。 少し騒めいたのはヘンリーがフランス王女キャサリンに求婚する終幕くらいでしょう。  でも英国人ならハーフラーやアジンコートの戦いは壇ノ浦や関ヶ原の合戦と同じようにハラハラドキドキしたはずです。 この舞台でも王が戦死した貴族や兵士の名前を一人ひとり読む場面が残っているので分かります。 *NNTTドラマ2017シーズン作品 *作品サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/special/henry5/

■NHKバレエの饗宴2018

*以下の□4作品を観る。 ■指揮:井田勝大,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■NHK・Eテレ,2018.5.20(NHKホール,2018.4.7収録) □「くるみ割り人形第2幕から」,振付:ウェイン・イーグリング,音楽:チャイコフスキー,出演:木村優里,井澤駿,新国立劇場バレエ団 ■シーズン作品の中から選ぶので「くるみ割り人形」になったのだろう。 今季作品の中では平凡だが妥当かもしれない。 ディヴェルティスマンのため夫々の場面を観客は楽しめる。 気に入ったのは「花のワルツ」。 一番バッターだから賑やかの方がよい。 □「Chimaira/キマイラ」、振付:平山素子,出演:小尻健太,鈴木竜,堀田千晶,平山素子 ■これは面白い! インタビューで平山は「・・現れ、解体し、違う何かに変わっていく」と解説している。 例えば組体操が崩れてしまったような、4人が喧嘩をしているような、・・ような。 一瞬「・・ような」意味が見えるが直ぐに消えていく。 身体も意味も流れとともに変容していく。 新作初演らしいが驚きの振付だった。 脳味噌が久しぶりにビビッと来た。 □「Flowers of the Forest」,振付:デヴィッド・ビントレー,音楽:アーノルド・ブリテン,出演:吉田都,マティアス・ディングマン,渡辺恭子,池田武志,スターダンサーズ・バレエ団 ■「多彩なステップで描き出すスコットランドの光りと影」とある。 背景の空模様は重く暗い。 男性衣装のガウンも見た目に重く感じる。 後半、光りと影が混ざり合い音楽のリズムに乗って重さは恍惚感を伴ってくる。 バレエを観る愉しみがあった。 □「ラ・バヤデールから影の王国」,振付:ナタリア・マカロワ,音楽:ミンクス,出演:上野水香,柄本弾,東京バレエ団 ■作品の佳境だが抜粋のため物語には入り難い。 でもバレエらしいバレエで幕を閉じたかったのは分かる。 みる機会が少ない人にはよいかもしれない。 フィナーレで上野水香は木村優里の挨拶を見つめていたが彼女のクララをどう見ただろうか? *NHKサイト、 https://www.nhk-p.co.jp/ballet/index.html

■サーカス

■演出:森山開次,美術:ひびのこづえ,音楽:川瀬浩介,映像:ムーチョ村松,出演:浅沼圭,五月女遥,谷口界,引間文佳,美木マサオ,水島晃太朗,宮河愛一郎 ■新国立劇場・小劇場,2018.5.19-27 ■客席を二つに分けた舞台はとても観やすい。 バレエ、ダンス以外にリボンやボールを使う新体操やジャグリングができるサーカス出身ダンサーも含まれているからとても華やかよ。 縫いぐるみなど小道具も数多く舞台に載せるから子供たちは大喜びね。 床面に映像を映してダンサーは動きを同期させていくの。 風景としての青空や雲や雨を映すのはよかったけど広げ過ぎるとサーカスの素朴な身体が隠れてしまう。 ダンサーと小道具だけの関係でも面白さは削がれない。  大人からみると空へ向けて飛び跳ねるウサギ団長やミラー娘のほうが面白い。 弱虫ライオンや黒雲芋虫のように地面を這うのは子供向きね。 でもすべてが一緒になったサーカスの混沌と目眩は十分に堪能できたわよ。 * 「サーカス」(森山開次,2015年) *NNTTダンス2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/33_009657.html *「このブログを検索」語句は、 森山開次

■ルイザ・ミラー

■作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ,演出:エライジャ・モシンスキー,指揮:ベルトラン・ド・ビリー,出演:ソニア・ヨンチェヴァ,ピュートル・ペチャワ,プラシド・ドミンゴ他 ■東劇,2018.5.19-25(MET,2018.4.14収録) ■原作の「たくらみと恋」は読んでいないの。 なので物語にぐいぐい引き込まれていく。 特に1幕の展開は素晴らしかった。 またキャストの個性がばらけているのも観ていて楽しい。 日常の延長にいる娘ルイザのソニア・ヨンチュヴァ、老練な父ミラーのプラシド・ドミンゴ、ルイザの恋人ロドルフォ役は円熟期のピュートル・ペチャワ。 ペチャワは鉄を枯らした錆びのような豊かさがでてきたわね。 目も据わってきた。 そしてロドルフォの父ヴァルター伯爵とその家来ヴルムの二人のバス共演も面白い。 美術や衣装はどこかアメリカ西部劇の風景を遠くに思い出させてくれる。 「ドニゼッティに始まりオテロで終わる」。 この作品を一言で表すとこうなるのね。 ドニゼッティに譬えたのは速度が有ることだと思う。 オテロは後半のストーリーが似ているから? ペチャワが3幕の歌い方をドミンゴに質問したら「オテロのようにやれ」と言われたらしい。 ・・! でも「オテロ」を越えられなかった。 それは二人の父親のせいだわ。 父と子の関係はやっぱ粘っこいのよ。 終幕のミラーとルイザの関係をみてもそれが言える。 そのルイザ役ソニアは「プッチーニは映画でヴェルディは演劇」と答えていたけどプッチーニに映画的リズムを感じ取っていたのね。 ともかく後半の傑作に繋がるヴェルディ30代の作品を観ることができて満足よ。 *METライブビューイング2017作品 *MET、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/83/

■バリーターク BALLYTURK

■作:エンダ・ウォルシュ,翻訳:小宮山千津子,演出:白井晃,出演:草彅剛,松尾諭,小林勝也 ■シアタートラム,2018.5.12-6.3 ■粗筋も読まずに観たので珍紛漢紛だった。 舞台の男二人は何をしているのだろう? 黒っぽい衣装で登場した人物は誰なのか? 終幕の女の子は・・? しかし観終わった後にある種の快感が残る。 ダンスを観た時の心地好さと同じだ。 二人の男の科白内容や意味、発声、受け止める身体がダンスに近づいている。 これは言葉によるコンテンポラリーダンスである。 この心地よさを壊したのが黒づくめの男小林勝也だ。 なんと棒読みリズムで科白を喋る。 なんとかしてくれ! ・・これは演出だろうか? 科白から「第七の封印」が脳裏に浮かぶ。 彼は死神か? 対して二人の男は激しい動きのため緊張が続かない場面もあったが申し分ない。 特に草彅剛の演技は快感の域に達していた。 ともかく訳の分からない面白さがあった。 此岸生活と意識の覚醒、死と再生を人生一生から考えているようにみえる。 作品の情報を集めてみようか? 否、これは身体で感じて身体で人生一生を想う作品である。 それはダンスに通じているから。 *KAAT神奈川芸術劇場x世田谷パブリックシアター作品 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201804ballyturk.html

■あかねさす紫の花  ■Santé!!

■TOHOシネマズ新宿,2018.5.12,25(博多座,2018.5.12ライブ中継) ■あかねさす紫の花 ■作:柴田侑宏,演出:大野拓史,出演:明日海りお,仙名彩世,鳳月杏,花組 ■「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」  「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも」 人生の流れを表現するのが宝塚では難しい。 でも再演の積み重ねが熟成した舞台を作り上げていた。 額田女王と大海人皇子の初めての出会い、そして時が経ち二首を詠む場面ではホロリとしてしまったわよ。 配役は大海人皇子が明日海りお、額田女王が仙名彩世。 ■Santé!!-最高級ワインをあなたに- ■作・演出:藤井 大介,出演:花組 ■楽しいけど同じような場面が続き飽きてしまった。 少し短くしてメリハリを付ければずっと良くなる。 でも宝塚システムを回すにはこの長さは必要かもね。 *劇団サイト、 http://kageki.hankyu.co.jp/revue/2018/akanesasumurasakinohana/index.html

■紛れもなく、私が真ん中の日

■作・演出:根本宗子,出演:月刊「根本宗子」 ■浅草九劇,2018.4.30-5.13 ■根本宗子を観るのは初めてです。 雑誌等で彼女の名前をよく目にするので浅草へ足を運びました。 舞台は主人公の山ちゃんの誕生会で始まるから小学生時代?でしょう。 裕福な山ちゃんが終幕にホームレスになってしまう。 でも友達が山ちゃんに<真の友情>エールを送り幕が下りる・・。 いやー、面白かったですね。 オーディションで合格した20人程の20代女優が登場したが現代女子の生き様が丸出しです。 演技や事件はオーバー気味ですがリアルな方向を指し示していた。 人間関係の一つである友情が本質に迫った形として提示されていましたね。 現在と未来が同時に描かれる構造や二人一役は良く出来ていて驚きです。 そして狭い舞台での20人の動きもしっかりしていました。 根本宗子の公演チラシを今後は目を通すことにします。 *劇団サイト、 http://gekkannemoto.wixsite.com/home/dai15gou *2018.5.10追記。 根本宗子は「 墓場、女子高生 」(福原充則演出,2015年)に出演していました。

■1984 -ビッグブラザーは見ている-

■原作:ジョージ・オーウェル,脚本:ロバート・アイク他,翻訳:平川大作,演出:小川絵梨子,出演:井上芳雄,ともさかえり他 ■新国立劇場・小劇場,2018.4.12-5.13 ■読書会で幕が開く。 劇中劇の外枠ようだ。 内枠は主人公ウィンストンの夢にもみえる。 入れ子にした時間軸の隙間からその夢?が時々滲み出ている。 大杉漣の死去で神農直隆に替わっていたが二人は似ている。 兄弟のようだ。 数日前に「アウトレイジ最終章」を観たが、生き埋めにされ車に引かれ壮絶な死に方をした大杉漣を、舞台をみながら思い出してしまった。 出来上がってしまった全体主義を描いている前半は盛り上がらない。 それより現実で起きている例えば選挙に流れたフェイスブックのデータ不正利用疑惑事件の方がより不気味である。 全データをクラウドに上げ物品購入を含め自身の情報を全てGAFAに預けている為でもある。 メールの全スキャンも国難という一存で実施するだろう。 企業と顧客の所有概念、国家と企業のグローバルな関係性が崩れつつある。 80億人一人一人管理は既に可能になっている。 「ビッグブラザーは見ている」ではなく「ビッグデータで見ている」が現実を蔽い始めている。 舞台に戻るが、拷問室から面白くなってくる。 子供の密告をパーソンズが何度も口にするのもボディブローのように効いている。 ウィンストンとジュリアの破局も拷問の結果だが物語のヤマである。 鼠を使った拷問は哺乳類の共食いだから器具とは違う恐ろしさがでていた。 全体主義が芽生えるのは日頃の疑心暗鬼が積み重なっていくからである。 現代は情報の不正操作と情報の隠蔽がその引き金になる。 <敵>を必要とする全体主義はそれを助長し成長していく。 21世紀にそれはとても芽生え易い。 *NNTTドラマ2017シーズン作品 *劇場、 http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009661.html

■シミュレイクラム/私の幻影

■演出:アラン・ルシアン・オイエン,出演:小島章司,ダニエル・プロイエット ■静岡芸術劇場,2018.5.3-4 ■フラメンコダンサー小島章司と歌舞伎舞踊家ダニエル・プロイエットが出演する変わった舞台です。 小島章司の生い立ちや歴史を思い出すかのように二人が語り踊っていく。 小島は1939年生まれ。 戦後を生き抜き単身スペインフラメンコ修行に渡った苦労がそのまま暗い舞台に現れています。 アルゼンチン出身のダンサーダニエル・プロイエットは日本舞踊、特に女形を習う。 歌舞伎では女形を意識したことが無かったが、彼が女形の話をしたり着物で踊る姿は奇妙に聞こえ見えます。 それは歌舞伎舞台以外で女形をあまり見たことが無いからでしょう。 日本舞踊では衣装や化粧を付けない素踊りになる(?)。 同じように小島章司のフラメンコもスペインではどこか違うと感じられていたのではないか? 小島は前半終幕に、ダニエルは後半に一回だけ踊ります。 小島のフラメンコはどこか枯れていて日本的です。 舞踏から派生したようにもみえる。 ダニエルの日本舞踊はヌメリ気がありどこか非日本的です。 この違和感を受け入れるのが舞台のテーマにみえました。 二人はスペイン語、英語、日本語で語り、その日本語は片言です。 考えさせられる作品でした。 *ふじのくに⇔せかい演劇祭2018参加作品 *劇場サイト、 http://festival-shizuoka.jp/2018/program/simulacrum/index.html

■リチャード三世、道化たちの醒めない悪夢

■原作:W・シェイクスピア,演出:ジャン・ランベール=ヴィルド,ロレンゾ・マラゲラ,出演:J・L=ヴィルド,ロール・ヴォルフ ■舞台芸術公園・稽古場棟BOXシアター,2018.4.28-30 ■役者は二人のため何役もこなす。 でもジャンはリチャード役がほぼ9割です。 そのリチャードはパジャマ姿に白塗りで当に道化師として振る舞う。 二人は笑いをとる仕草を連発していく。 舞台美術は流行りのコンピュータ仕掛けではなく(表面的には)機械仕掛けが多く五感に伝わって来るので楽しい。 見世物小屋ですね。 しかし舞台に入っていけない。 ナゼか?わかりました。 たぶん役者が作り出す世界と字幕が馴染んでいないからです。 その日本語は硬く書き言葉に近い。 しかもこの作品は字幕に強く依存するからでしょう。 上演数が3回のため字幕まで手が回らなかった(?) 途中から字幕は読まず見るだけで役者の顔へ視線を直ぐに移し表情を楽しむことにしました。 つまり字幕は残像要約になる。 それにしても役者は観客を挑発し続けますね。 小さな劇場のため役者と視線が何度も合います。 観客に菓子を配ったり、ワインを馳走したり、舞台に引きづり出して(裁判官のような)人形にボールを当てることを手伝わせたりしていく。 でも観客は乗れない(周囲を見回してもそれが分かる)。 「リチャード三世」と道化的世界は親密性があると言われています。 でも「リチャード三世+フランス語的道化」を目の前にすると混乱してしまったのはなぜか? 身体能力の違い、社会的仕草の違い、言葉の綾の違い(日本語字幕の問題を含めて)のリズムを上手く受け取れなかった。 本来はもっと楽しめたはずなのにです。 複雑な思いで劇場を後にしました。 ところで茶畑には黒布が被せられていたが霜除けでしょうか? *ふじのくに⇔せかい演劇祭2018参加作品 *劇場、 https://festival-shizuoka.jp/2018/program/richard-3/index.html

■Mirroring Memories それは導き光のごとく

■演出:金森穣,出演:金森穣,Noism1 ■東京文化会館・小ホール,2018.4.28-30 ■全12章から成り、新作は2本(章)で他の10章は2008年以降に発表した作品から黒衣のシーンを選びオムニバスにしてある。 1時間の上演だから1章が5分前後よ。 最初の0章は新作でベジャールの写真が背景に写し出される。 金森穣のソロで衣装は白。 次章からは歌舞伎や人形浄瑠璃に出てくる無の象徴ともいえる黒子も登場する。 でも黒子はダンスだと<無>ではなく<死>を意識してしまう。 この意識の違いはダンスに宗教性を感じさせるからだと思う。 最後の11章も新作で0章の対になっていて金森を含め3人のダンサーが宗教的雰囲気で締めくくるの。 重厚な音楽が章を結び付けて一つの作品として巧く仕上がっている。 ベジャール物語舞踊のオマージュとも言えるわね。   小ホールは舞台が狭い。 しかも金森穣は思ったより身長がある。 小柄な女性ダンサーは伸び伸び踊ったけど男性は少し窮屈かしら? このため動きが喜劇的に感じるの。 しかも場面切替が速くて黒衣の深淵へ降りていくことができない。 ホールや会館周辺はゴールデンウィークとバレエホリデイで大変な混み様! 黒衣的雰囲気が保てなかったのは仕方がないわね。 *チラシ、 http://noism.jp/wp2015/wp-content/uploads/Noism1_Mirroring_Memories_A4.pdf

■ポリーナ、私を踊る

■監督:ヴァレリー・ミュラー,アンジュラン・プレルジョカージュ,出演:アナスタシア・シェフツォワ,ジェレミー・ベランガール ■(フランス,2016年作成) ■主人公ポリーナはボリショイ・バレエ団に入団が決まった。 にもかかわらず恋人を追ってフランスに渡ってしまうの。 結局彼女は舞踊団を転々としていくことになる。 日々の生活にも困り出す。 最後は気の合うパートナーと踊りながら幕が下りてしまうストーリーよ。 バレエでは生身を「見せるな」、ダンスの「見せろ」は表裏の関係だからどちらも大切ね。 でも彼女が舞踊団をやめる肝心な理由がいつも語られない。 自分探しの物語は方向性が見えないから作り込みが難しいことはある。 「あなたの踊りは何も感じない」。 リリアが言っていたのはこの映画のことかもね。 プレルジョカージュやベランガールが名を連ねていたので手に取ったけど、残念な1本だわ。 *作品サイト、 http://polina-movie.jp/

■空観

■演出:扇田拓也,出演:ヒンドゥー五千回 ■座高円寺,2018.4.25-26 ■名前は聞いていましたが初めて観る劇団です。 長いあいだ活動を休止していたらしい。 しかも今回が最終公演とのこと。 最初で最後です。 先ずは演出家の挨拶がありました。 <空>は仏教用語から採っている。 「ヒンドゥー五千回」もどこか宗教的な響きがしますね。 道具の少ない舞台ですが代わりに役者が家具やドアや門に変身する。 鏡に映る姿を別の役者が演ずるのは面白い。 言葉も意味の無い羅列を喋る。 身体動作の比重が大きい劇団です。 そして役者たちの衣装からある階級を表しているのが分かる。 古びた背広・ジャケット・ロングスカートなど西欧風な正統性ある下層市民の姿の為です。 しかし仮想言語から最初は東南アジア、対人動作から徐々に中南米世界に近づいていった。 途中日本語の朗読や般若心経も唄われる。 <空>のごとく我が広がっていくのを舞台化した作品にみえました。 宗教性は身体に溶け込んで見えなくなっている。 このような劇団だったとは予想しませんでした。 「・・新たな劇団を立ち上げる」と演出家挨拶文にある。 「この世の存在・現象・自我に境界はなく実体がない」という意味の「空観」が新劇団名となるらしい。 活動の休止や出直す理由は知りません。 少し古めかしい社会性を誠実さのみえる身体で描く、変わった感じのする舞台でした。 *劇団サイト、 https://hd5000k.wixsite.com/hd5000k

■Responding to Ko Murobushi、室伏鴻

■室伏鴻アーカイブカフェshy,2018.4.25 ■「北龍峡時代」「Le Dernier Eden」を中心に70年代室伏鴻の活動映像上映会である。 彼の舞台は21世紀に入ってから何度か観ている。 枯節のような鋼鉄の肉体に圧倒された覚えがある。 70年代は違う。 時代の肉体とでも言おうか、ギラギラ感が漲っている。 以前モーリス・ベジャールの50年代初期映像をみてあまりの凄さにノケゾッタことがあったが、そんな感じと同じだ。 映像の質はあまり良くないが公演前後の裏舞台や稽古風景をたっぷり撮っているので時代の雰囲気など当時の全てを見ることができる。 次回上演の80年代「木乃伊」「Zarathoustra」「EN」の映像もみたいが都合がつかない。 貴重な映像で貴重な時間を過ごすことができた。 *公演サイト、 https://ko-murobushi.com/response/

■じゃじゃ馬馴らし

■作:W・シェイクスピア,演出:蜷川幸雄,出演:市川猿之助,筧利夫,山本裕典,月川悠貴ほか ■新宿バルト9,2018.4.21-29(彩の国さいたま芸術劇場,2010年収録) ■蜷川幸雄オールメール・シリーズの一つです。 市川猿之助が出演しているので興味が湧きました。 しかし舞台は粗雑感があります。 バラエティ番組のようなアクションの強い寸劇場面が重なる。 相手をスリッパ板で叩きまくるのも笑いを取るのはいいのですがやり過ぎにみえます。 舞台の面白さはキャタリーナの市川猿之助、ペトルーチオ役筧利夫そしてルーセンシオやビアンカの若手俳優たち演技差のある三者のぶつかり合いでしょう。 これが観ていても三者が混じり合わない。 キャタリーナの身体的惚れ惚れ演技とペトルーチオの台詞喋りっぱなし演技、ルーセンシオやビアンカのヤンチャ風大人びた演技。 バラバラの楽しさですね。 蜷川幸雄の遊び心が一杯でした。 *蜷川幸雄三回忌追悼企画作品 *作品サイト、 http://hpot.jp/stage/nt2 *「このブログを検索」語句は、 蜷川幸雄

■その人ではありません

■作:別役実,出演:富永由美,土井通肇 ■旧眞空鑑アトリエ,2018.4.6-22 ■結婚するのはとても易しい、そしてとても難しい。 この芝居では結婚までの過程を男は易しく女は難しく考える。 易しいとは「日常」で、難しいとは「非日常」のような感じだろう。 だから女は考えられないような物理学を日常に適用する。 余計に日常から遠ざかる。 これに別役的不条理とも言える非現実が被さってくる。 日常と非日常はともに現実だが、女はその向こうにある非現実に一歩踏み入れているようだ。 男が訝っているのは女が持っている非日常ではなく非現実である。 これで男は結婚を躊躇う。 女は非現実=狂気との境界を彷徨いながら現実である日常を演技するが非日常まで戻るのが精一杯である。 日常も非日常も受け入れて現実を生きる男の世界に届かない。 そして一緒になりたくてもなれない女の哀しみが舞台に滲み出てくる。 *旧眞空鑑第33回公演

■和栗由紀夫、魂の旅

■主催:「和栗由紀夫魂の旅」実行委員会,中嶋夏,谷川渥 ■東京ドイツ文化センター,2018.4.21 ■「2017年10月に急逝した舞踏家和栗由紀夫を偲ぶ」会が開催された。 赤坂のドイツ文化センターは来場客で一杯だ。 ロビーには写真や衣装・資料そして来客から和栗由紀夫へのメッセージが「花びら」として貼られている。 配られた20頁のプログラムも充実している。 第一部「楼閣」第二部「翼」の公演構成で全3時間の内容(□)は以下の通り・・。 □挨拶・トーク:谷川渥、森下隆、後藤光弥 □舞踏:小林嵯峨、山本萌、正朔、工藤丈輝、川本裕子ほか □ダンス:関典子「マグダラのマリヤ」 □和太鼓:富田和明ほか □映像:「疱瘡譚」(1972年)、「眠りと転生」(1989年)、「野の婚礼」(1994年)、「百花繚乱」(2007年)、「病める舞姫」(2017年)より。 ダンスでは関典子と正朔が印象に残る。 映像では「野の婚礼」だろう。 和栗の舞踏の形が出来上がりつつある。 40歳前半で脂が乗り切っている感じだ。 この作品は通しで観てみたい。 しかし「病める舞姫」は彼の死の1週間前の為か苦しみの動きで満ちている・・。 和栗は状況劇場唐十郎の門を叩いたが無視されアスベスト館土方巽に入門したらしい。 今だから楽しい話題だ。 彼の舞台は当に百花繚乱のごとくみえる。 あるときはキートンでありチャップリンである。 ニジンスキーでもある。 そして彼のどこか一味違う理由がプログラムを読んで分かった。 彼は土方巽のもとで衣装係を担当していたのだ。 「・・和栗はイメージの色に近づけるのに何度も衣装を染め直した」(和栗佳織)。 土方巽から伝承された舞踏譜の一部がプログラムに載っている。 「・・土方巽は即興を演じながら即興を否定した」。 ダンサーと衣装・美術・照明・音響・・全てが一つに溶け合うその一瞬に舞台芸術の真髄が現れる。 納得の技術としての総合力が舞踏花伝だと和栗は言っているのだと思う。 *公演サイト、 https://otsukimi.net/koz/#top *「このブログを検索」語句は、 和栗由紀夫

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル4日目)

■d-倉庫,2018.4.17-18 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:こしばきこう,劇団:風蝕異人街 ■満席ですね。 本日は観客の年齢性別がバラけている。 ダンサーたちの床を踏み歩くリズムが強く響いてきます。 彼女らは緑色ノースリーブの同一衣装を着て科白を交互に喋りながら舞台を前後する。 ハムレットは途中衣服を脱ぎパンツ一丁で激しく喋り踊ります。 残りの数名が舞台壁際でうごめく。 舞台奥には映像です。 作者ハイナー・ミュラーの心象風景はこうだと言っているようです。 しかし科白と身体動作の関係がぎこちない。 両者が結びつかない。 舞台壁際でうごめく役者は衣装も動きもよいが孤立していた。 原作者と直にぶつかったが無視されてしまった感じです。 演出家が急いでしまい役者まで浸透しなかったのではないでしょうか? ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:伊藤全記,劇団:7度 ■出演者は二人。 スポーツ衣装で舞台を走るのはハムレットなのか? 白い衣装で立ち科白を延々と喋るのはオフィーリアのようです。 そしてハムレットはビーチチェアに横たわる。 科白の発声が透き通っていて耳によく聞こえてきます。 ハムレットは略椅子に横たわっていましたが存在感がありました。 「ハムレットマシーン」を続けて8本観ました。 戯曲の非物語性から滲み出る作者の生きた時代と、身体重視の劇団の、戸惑いの出会いが面白かった。 戸惑いの拘り具合で舞台に巾が出ていたようにみえる。 拘りを強く意識していたのは「サイマル演劇団」「身体の景色」「ダンスの犬」「楽園王」「風蝕異人街」。 この縛りから逃げていたのは「隣屋」「初期型」「7度」です。 もちろん直観で分けたのですが。 前者は社会や政治情勢が強く現れる。 社会主義総崩れ直前の戯曲は重みがあるからです。 後者は台詞が同じでもそれに比較して弱い。 言葉の意味を作者のいる過去に探し求めなかった為でしょう。 面白さが出ていたのは後者でした。 社会主義崩壊が新しい何ものも作り出せなかったこともある。 フェスティバルは特にですが初めての劇団に出会えるのが嬉しいですね。 「IDIOT SAVANT」と「劇団シアターゼロ」の公演が残っていますが都合で観ることができない。 「ハムレットマシーン」4月の連続観劇はこれで終わりにします。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル

■セミラーミデ

■作曲:ジョアキーノ・ロッシーニ,指揮:マウリツィオ・ベニーニ,演出:ジョン・コプリー,出演:アンジェラ・ミード,イルダール・アブドラザコフ,ハヴィエル・カマレナ,エリザベス・ドゥショング他 ■新宿ピカデリー,2018.4.14-20(MET,2018.3.10収録) ■ロッシーニのオペラ・セリアでは一番の荘厳さを持っているかもしれない。 タイトルロールがアンジェラ・ミードだから余計にそうなるの。 2時間もある一幕序曲からグングン集中できる。 歌唱が始まりキャスト5人の聴き応えは満足度120%ね。 歌手は舞台で殆んど動かない。 存在感は身体ではなくて流れる声で形成されていく。 物語はギリシャ悲劇から借りてきたみたい。 バビロニア女王セミラーミデが愛した若き軍人アルサーチェは彼女と前王との息子なの。 しかもアルサーチェはズボン役。 でもエリザベス・ドゥショングだからあまり意識しない。 「オイディプス」と違い先王を殺したのは母であり最期に母は息子に殺される・・。 二幕は80分だけどさすが聴き疲れがでてくる。 いつものロッシーニ得意の明朗快活さが無いこともあるわね。 MET25年ぶりの再演らしいけど歌唱技術の難しさから上演されなかったと聞いている。 ロッシーニはこの作品に根(こん)を詰め過ぎたとおもう。 この詰めが疲れを呼び寄せるのね。 *METライブビューイング2017作品 *作品サイト、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/85/

■NINAGAWA・マクベス

■作:W・シェイクスピア,演出:蜷川幸雄,出演:市村正親,田中裕子ほか ■新宿バルト9,2018.4.7-13(シアターコクーン,2015年収録) ■記録をひっくり返したが観ていなかったので早速映画館へ出向いた。 いやー、とても面白かった。 それは・・ 1.ストーリーの取捨選択と科白に無駄が無い。 演出家好みの場面が強調されている。 リズムがあり物語に淀みが生じないので一気通貫の気持ち良さが残る。  2.舞台美術と衣装が見事。 緞帳に格子戸を使いその前後舞台の利用が上手い。 門にも見えるので二人の老婆の開け閉めで「羅生門」を思い出してしまった。 そしてバーナムの森の桜が満開で感激。 マクベス夫婦の髪型も決まっていた。 3.日本の戦国時代劇としてみても違和感が無い。 名前や地名は原作のままだが日本名ならマクベスを忘れてしまうくらいだ。 魔女が歌舞伎調の巫女のようで楽しい。 などなど数え上げればきりが無い。 蜷川幸雄流エンターテインメントが遺憾なく発揮されていた。 *蜷川幸雄三回忌追悼企画作品 *劇場サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/15_macbeth.html

■エンジェルス・イン・アメリカ、国家的テーマに関するゲイ・ファンタジア

■作:トニー・クシュナー,演出:マリアン・エリオット,出演:アンドリュー・ガーフィールド,ジェイムス・マカードル,ラッセル・トーヴィ他 ■東宝シネマズ日本橋,2018.3.16-22他(リトルトン劇場,2017.7.20,27収録) ■3月に第二部「ペレストロイカ」を、今月に入って第一部「至福千年紀が近づく」を観たが、やはり順番通りに間を開けずにみたかった。 一か月も経つと第二部の記憶が薄れてしまう。 しかし8時間の上映は長さを感じさせない。 場面をフェードイン・アウトの映画的手法でまとめ、且つ舞台を分割し共時的に進みながら物語を熟成していく。 1985年頃のゲイ、今はLGBTと一纏めにしているが男性同性愛者たちを主人公にした舞台である。 彼らが治療の困難なAIDSエイズを発症したことで人間関係に底知れぬ不安を招き寄せる。 それは愛や憎しみ信頼や差別も生み出す。 舞台では人種差別や宗教差別が幾度も議論される。 この<多様>なマイノリティが作品の特長を作っている。 例えばモルモン教と他宗教、現代ユダヤ人の位置付けや黒人との関係などなど。 それが政治にも繋がっていくのが面白い。 ロイとピットの共和党やワシントンの話から、トランプ大統領や森友・加計学園問題を思い浮かべてしまった。 ところでLGBTは30年先の時代を歩いているような描き方だ。 他のマイノリティが薄くなってしまうからだろう。 しかし突然のAIDSの発症と死への過程がやはり主役である。 そして物語を飛び越えるのが天使の登場になる。 天使はいつも混乱させてくれる。 日常的身体的に理解できないからである。 祖先や死んだ人の霊の出現なら分かる(気がする)が。 しかも第一部では幕が下りる数秒前で天使が出現したから劇的であった。 第二部を先に観たからそう思う。 当時のAIDSは歴史に登場するペストと同じで決定的威力を持っていた。 キリスト教なら神の使いである天使を登場させないと収まらない。 ゲイ・AIDS・天使は1980年代の裏アメリカを代表する語句かもしれない。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2018年作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/88302/ *映画com、 https://eiga.com/movie/88303/

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル3日目)

■d-倉庫,2018.4.10-11 ■演出:深谷正子,出演:ダンスの犬ALL IS FULL ■2メートルもあるヴァギナの模型がデーンと舞台に置いてある。 そしてアベ・マリアの歌に乗って5人の女性ダンサーたちが登場する。 が、なんと!ダンサーの胸にはオッパイが30cmも垂れさがっている。 しかも足に紐をつけコーラ瓶を引きずりながら踊り出すのです。 振付は原始的な激しさを含んでいます。 舞台を見つめていると人類というものを感じますね。 それは女、人間、雌、ヒトと順番に壊れていき人類へと行き着く。 この広がりはヴァギナと乳房を模型ですが包み隠さず出したからでしょう。 見ていると生殖を意識し出すからです。 とちゅう乳房を交換します。 やはり垂れ下がっているが先がふっくら饅頭のようです。 音楽はダンスに寄り添い順調でしたが、それを破って歌謡曲「おふくろさん」が流れて来る。 これには参りました。 地球規模まで広がった人類が日本の母と子の狭い世界に縮んでしまった。 終幕、ダンサーたちはヴァギナを通過する・・。 現代日本の女性からみた<ハムレット>があからさまに表現されていました。 ■演出:長堀博士,劇団:楽園王 ■劇場を訪れた男が役者を演ずる場面から入ります。 その前に役者に変身しようとしている女の口上があったことも思い出した。 遣り取りをみていると劇中劇の様子です。 途中観客席にいた役者を舞台ひ引きずり出し劇中の劇に参加させる。 この劇団はト書きと科白を分けて演ずるなど劇構造がとても豊かです。 今回も重層的ですがしかし、劇的に繋がらない。 作品の言葉と真面目に格闘し出すと冴えてしまい劇的から遠ざかるような気がします。 「ハムレットマシーン」は演出家や劇団の特徴を露わにしますね。 ところで化粧をしたハムレットの死が濃く表れている顔色はとてもよかった。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html *「このブログを検索」語句は、 長堀博士

■アイーダ

■作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ,指揮:パオロ・カリニャーニ,演出:フランコ・ゼッフィレッリ,出演:イム・セギョン,ナジミディン・マヴリャーノフ,エカテリーナ・セメンチュク,上江隼人,妻屋秀和,久保田真澄ほか,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.4.5-22 ■日差しが鈍く輝いて空気の重みを感じる。 よくみたら舞台前面に透過網幕が張ってある。 残念なことに幕は最後まで取れなかったの。 大道具転倒対策の為かしら? そしてこの劇場でこれほどの物量を見るのは初めてよ。 ウゥッ、量の感動が押し寄せて来る。 ゼッフィレッリが自慢したいのはよく分かる。 ラダメス凱旋の馬は本物にみえたわ!? それに比してアイーダ、ラダメス、アムネリスの三角関係が形式的にみえる。 三人の心の内が押し寄せてこない。 アイーダの素晴らしい声に若さが出過ぎているせいかしら? 伴っている感情も直截過ぎる。 何回か観ている作品だけどいつもそのように感じるの。 原作に一因が有るのかも。 でも劇場得意の電子的機械的美術と違ってマッス有る具体美術と出演者の多さの素晴らしさを味わえたのは大満足。 そして若さから脱皮する前のイム・セギョンに出会えたこともね。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009642.html

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル2日目)

■d-倉庫,2018.4.7-8 ■演出:カワムラアツノリ,劇団:初期型 ■コンピュータ分野での「初期」はリセットの意味合いが強い。 今回この劇団を初めて観て正に初期化を感じました。 しかも型にしている!?。 役者の一人が裸のもう一人のオチンチンを後ろから手を伸ばして隠している姿は人形遣いと人形そのものです。 この二人の姿こそリセットをし続けるハムレットマシーンにみえました。 そしてハムレットが父に対してこんなにも多くを費やすのか?という疑問が甦ってきた。 「ハムレット」を好きになれないのは実は父を想うハムレットがよく分からなかったからです。 正義の家系や正義の戦争が無くなった現代では男が父を語ることもまず無い。 二人の役者が語る父の姿は惨めですがほっとします。 「・・対人間は演劇で、対宇宙はダンスだ」と書いてあったが、役者たちが輪に座って声を出す姿は人間と宇宙を融合する姿にみえました。 この二つの混ざり合いが面白かった。 ■演出:身体の景色,ドラマターグ:田中圭介,音楽:松田幹,劇団:身体の景色 ■フェスティバルは毎回二本立てのようです。 今日の二本目は「身体の景色」。 変わった名前ですね。 作品タイトルだと勘違いしていた。 舞台は暗くて着物姿そして玉音放送や銀座ブギウギが流れてくる。 ハムレットの周りに6人ほどのオフィ-リアが倒れていて次々と演技をしていく。 腹の奥から出す声に特徴があります。 重みのある舞台にみえました。 「ハイナー・ミュラーの言う減速に共感する」と演出家?は言っている。 演出家はこれを「簡素・静寂・余白」で表現しようとしているようだがよく分からなかった。 減速が加速と表裏の関係であることも分かり難い理由かもしれません。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html

■高丘親王航海記

■原作:澁澤龍彦,脚本・演出:天野天街,出演:ITOプロジェクト ■ザスズナリ,2018.4.5-10 ■ITOプロジェクトは聞いていたがやっと観ることができた。 糸あやつり人形劇である。 パペットではなくマリオネットのほうだ。 キャスト紹介文に「糸は上に引くだけ・・、下に押すことはできない」。 つまり人形は浮遊感を持つ。 これが時空を一瞬に飛び越える天野天街の演出にマッチしたのだとおもう。 挨拶文に「ジカンとクウカンの意図を、そのはみ出したヘソノオの系で切り裂き分断せよ・・」。 その下に地図が載っている。 近江から南へ下り・・、琉球、広州、扶南、海南島、真臘、羅越、南詔、阿羅漢、獅子国・・。 東南アジアの懐かしさが未来へ過去へ行き来する時間に豊かに積み重なっていく。  天竺を目指す親王(みこ)の死への意識は作者に通ずるらしい。 「天竺を往復する虎に食われたい! そうすれば天竺に行くことができる」。 演出家得意のミニマム映像も空海曼荼羅のように効いていた。 ところで従者の一人秋丸の物語が中途半端だったのは残念。 真珠を飲んでしまっている作者はそこまで余裕がなかったのだろう。 人形はジュゴンやアリクイなどの動物、作者が紹介したハンス・ベルメールの球体関節人形まで登場して華やかである。 顔の表情が固定しているにもかかわらずここまで物語に入り込め時空を飛ぶことができたのは嬉しい。 *CoRich 、 https://stage.corich.jp/stage/88461

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル1日目)

■d-倉庫,2018.4.4-5 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:赤井康弘,出演:サイマル演劇団 ■二本立てです。 先ずはサイマル演劇団。 車椅子に座っている男、傘をさしながらゆっくり歩く女、絡み合いながら床を転がる男女の、登場人物は4人ですが終幕まで状景は殆んど変わりません。 車椅子の男は科白の紙片をみながらしゃべり続ける。 同時に歩く女と絡まる男女は場面ごと交代で喋っていく。 車椅子の声が通奏低音のごとく奏でられ、その上にもう一つの声が重なっていくような構造です。 変化と言えば場面の境で照明と音響にノイズが入るくらいです。 事前に戯曲を読んできたのですが意味は断片になり押し寄せて来るだけです。 詩の朗読のようですが何故か面白みがありません。 詩的からほど遠い。 重声が聴きづらく通俗的です。 歩くこと床を転がることそして喋ることが機械的なことも一因です。 当にマシーンのようですね。 終幕、車椅子の男が立ち上がり倒れる。 演説のような録音も聞こえたようです。 観ているほうも身体が硬くなる舞台でした。 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:三浦雨林,劇団:隣屋 ■休息をはさんで次は劇団隣屋が登場。 同じ作品でもこんなに違うとは驚きです。 掛け合いのような演技をする男女とその影のようなダンサーの3人が登場します。 豆電球で作られた土俵で子供の遊びを真似てハムレットごっこをしていく。 二人はハムレットになりオフィーリアになりラスコリニコフになる。 原作を生身の役者に合わせて写像変換している。 それはハイナー・ミュラーを飛び越して作品内の作家たちと向き合っているようにみえる。 役者たちは独特な動きをしてダンサーと巧く同期を取っていきます。 途中、ドラえもんとのび太の場面があったが<演技をしない演技をしている>ようで劇的でした。 多くの場面で声を含めて身体への繊細感が伝わってきます。 演奏もシンプルな楽器を使い効果を高めていた。 久しぶりに感覚器官が全開しました。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html

■悪人

■原作:吉田修一,演出:合津直枝,出演:中村蒼,美波 ■シアタートラム,2018.3.29-4.8 ■途中ウトウトしてしまったので感想が書き難い。 多分、誰かからの手紙(メールかも)を読む場面とその前後なの。 ここはクライマックスかしら? カーテンコールの時に肝心なところが無い(=覚えていない)舞台だと分かったからよ。 悪人が誰だか分からない。 それとも何も無い作品かしら? 原作は読んでいないし。 居眠りは二人の出会いや殺人がちょっとぬるかったせいもある。 でも地方生活の一端が上手に描かれていたと思う。 北九州?の方言もね。 と言うことで、ゴメン。 *主催サイト、 http://www.tvu.co.jp/product/stage2018/

■vox soil

■演出・構成・振付・出演:北村明子,ドラマトゥルク・音楽・出演:マヤンランバム・マンガンサナ,振付・出演:清家悠圭,西山友貴,川合ロン,多賀田フェレナ,チー・ラタナ,ルルク・アリ,鼓童:阿部好江,音楽ディレクタ-:横山裕章 ■せんがわ劇場,2018.3.28-30 ■ドラマトゥルクが写真家キム・ハクから音楽家マヤンランバム・マンガンサナに替わるとまた違った舞台になるわね。 歌唱や演奏がダンス・マイム・科白と融合し総合芸術としての舞台に一層磨きがかかったようにみえる。 それはアジア全域に広がり朝鮮芸能や日本の歌謡曲まで感じることができるの。 ダンスもユニークで地面との関係を思い出させてくれる。 そしてマイムと科白の音素発声が他者としてのダンサー同士をより密に結び付ける。 鍊肉工房やパパ・タラフマラと同じ方向を目指しているようにも思える。 それ以上に計算されているけど全てが有機的に振る舞っているようにみえる。 「Cross Transit」は舞台というジャンルを越えた何かを招き寄せている。 とても充実した時間に浸れたわよ。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/90358

■ハムレットマシーン

■作:ハイナー・ミュラー,構成・演出:真壁茂夫,出演:OM-2 ■日暮里サニーホール,2018.3.22-24 ■客席が囲む円形舞台の中央に幕を下ろしハムレットとオフィーリアが携帯で話し合うところから始まるの。 席の都合上オフィーリアしか見えない。 彼女はカメラで身体や口の中を撮りそれが幕に映る。 交互に古い「ハムレット」の映画断片も流す。 場面が移りドカベン風の役者が登場し赤い衣装に着替えオフィーリアを語りだす・・。 コーラを飲み菓子を食べ、そしてバットでテレビや冷蔵庫を壊していくの。 掃除機の空気で膨らませた大きな風船に入りオフィーリアらしき台詞を喋る・・。 プラカードを掲げたデモがあり天井からは沢山の役者の写真が降って来る来る。 そして終幕、オフィーリアらしき人物が登場し自身の体を傷つけながら倒れる・・。 ウーン、「ハムレットマシーン」はどの劇団が演じても寄せ付けてくれない作品ね。 「・・戯曲に忠実ではない、・・解釈ではない、・・読み方を提示しているのではない、・・のではない、 感情の集中度にフォーカスを当てた実践なのだ」(新野守広パンフレットより)。 日常を延長した過激な舞台だから醒めた暴力を感じる。 OM-2の舞台は過激の質と量は毎回違うけどいつ観ても同じような感想を持ってしまうわね。 過剰なシラケが襲ってくるの。 日常の裂け目を静かにこじ開けていく。 感動の喜びが得られないから近づきたくないのが本心よ。 *「 ハムレットマシーン」フェスティバル 連携作品 *劇団サイト、 http://om-2.com/works2013-/hamletmachine/ *「このブログを検索」語句は、 OM-2

■愛の妙薬

■作曲:G・ドニゼッティ,指揮:F・シャスラン,演出:C・リエヴィ,出演:ルクレツィア・ドレイ,サイミール・ピルグ,大沼徹,レナード・ジローラミ,吉原圭子,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.3.14-21 ■劇場に入ると緞帳の英文字柄がよく目立つ。 でも美術や衣装に原色を使った舞台はそれ以上だわ。 妙薬を飲むと世界がこのように見えるのかしら? 「トリスタンとイゾルデ」の本も悪くはない。 タイトル文字が目に付いてちょっと諄い感じだった。 文字は多くの意味を呼び寄せてしまうからよ。 そして歌手の鬘がカラフルだと本人の真の姿が見え難くなって歌唱に想いが乗らない。 歌手の顔や髪はなるべく素がみえるほうが良い。 出だしは細かいところが目についたけど段々と上り坂になっていった。 ベルコーレ軍曹もね。 二幕はたっぷりと歌唱を堪能できたわ。 特にアディーナとドゥルカマーラの掛け合いは楽しい。 直後の感情落差が「人知れぬ涙」を一層際立たせるの。 それに指揮者も結構な役者ね。 元気を貰えた舞台だった。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009643.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 ドニゼッティ

■椿姫

■演出:小野寺修二,出演:カンパニーデラシネラ ■世田谷パブリックシアター,2018.3.16-21 ■二本立てだったが「分身」は都合で観ることができなかった。 ダンス比重が小さくみえたのは台詞や演技が目立ったのでそう感じられたのかもしれない。 粗筋を知っていないと面白さは半減する。 演出家はよく小説を舞台に載せるが観客にそれを要求している。 挨拶文に「理性と本能が拮抗して動けず静止して・・、理性が負ける瞬間いきいきして・・」と書いてあったがマルグリットとアルマンの間にその動きを出したかったのかもしれない。 ダンサー人数が多いので相互の距離を開けて局所と全体の均衡を保った為か二人の間に拮抗の瞬間が見え難くなってしまった。 新人ダンサ-たちの新鮮な雰囲気はあった。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/20171207-46601derasinera.html

■罪と罰

■振鋳:麿赤兒,鋳態:大駱駝艦 ■新国立劇場・中劇場,2018.3.17-18 ■中劇場のだだっ広い空間を巧く使っていたわね。 後方の回転するコロスが前方のダンスと均衡を保ち続けていたからよ。 回転が静寂なリズムを醸し出していた。 幾何学的な赤壁の緊張感がとても良い。 運動会や学芸会の様相に陥りそうになるとこのリズムが軌道修正してくれるの。 その場で手足をバタバタさせるより、ストロークの深い日常の動きやスローな動きの方が存在感が出ていた。 広い空間に対抗するためにはこの方が有効なのかもしれないわね。 例えば・・、ゆっくりと歩き静止する(罪と罰を背負う?)ダンサー、豚や魚の仮面と風船を持って歩き止まるダンサー、遠方で何かを探して走り回るダンサー等々。 音楽はいつもの通りブッキラボウであまり良くない。 でもドイツ歌唱はいつもの通り舞踏に合っていた。 大駱駝艦の持っているユーモラスが「罪と罰」のようなタイトルとどう折り合いを付けるかは楽しみだったの。 タイトルを見た時は少し不安になったけど。 「怯えつつも果敢に彼岸にジャンプ」したことは認める。 楽しかったわよ。 *NNTTダンス2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/33_009656.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 大駱駝艦

■夏への扉

■原作:R・A・ハインライン,翻訳:福島正美,脚本:成井豊,真紫あずき,演出:成井豊,出演:キャラメルボックス ■サンシャイン劇場,2018.3.14-25 ■戯曲の読み合わせをしているような舞台である。 ト書きもちゃんと登場人物が喋る。 猫も喋る。 大道具小道具の移動はテキパキしている。 役者たちが事務処理作業をしているような演技にみえる。 しかも契約の話が頻発に上る。 会社の設立、公証人や弁護士の登場、保険会社との契約上の権利・義務の遂行など次から次へと出てくる。 台詞も動きも物語も全てが理論整然と進んでいく。 しかしどうも面白くない。 会社で仕事をしているようだからである。 もちろん芝居という仕事である。 同時に珍しい舞台表現だと感心しながら観ていた。 演出家が「あまりの感動を!・・」したのでこの作品は劇団員の必読書になっているらしい。 タイムマシーンや人工冬眠、ロボットなど登場するが60年前の作品なので今となっては欠点だらけだが20世紀戦後のアメリカらしい躍動感がある。 この作品に感動する人は「時をかける少女」と同じような興奮を持つのだろうか? それなら分かるが・・。 ともかく仕事を観て来たような観後感だった。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/90001

■ミヤギ能オセロー、夢幻の愛

■原作:W・シェイクスピア,謡曲台本:平川祐弘,演出:宮城聰,出演:SPAC ■静岡芸術劇場,2018.2.11-3.11 ■「オセロ」を夢幻能にした驚きの内容だった。 前場では女3人を引き連れた老婆らしき人物が僧と昔話を始める。 女の言葉は地謡が多くを担当するの。 ワキの僧と地謡が語り合う風景描写が素晴らしい。 能が得意な言動分離だからこの手法が自然にみえる。 女たちはそのまま囃子方にもなる。 役者の動き、地謡や演奏を含め場面展開に無駄がないわね。 囃子もグッと抑えて叙情豊かに響く。  中入りで男優たちが揃い現代語訳で物語を進めていく。 オセロやキャシオー、イアーゴは地謡がそのまま変身よ。 役者が役割を変えていく流れが面白い。 顔と着附が日本語で袴は英語の文字衣装がまた楽しい。 背景の瘤付ロープが照明に当たるとお経の文字列に見えてくる。 そして後場でデズデモーナの霊が登場しオセローとの愛を語る・・。 囃子も笛が入って高揚し、地謡はオノマトペのようにも聞こえてくる。 複雑だけどとても練れている構造だわ。 「オセロ」になぜ感動するのか? 「首を絞められるデズデモーナがその瞬間にこそ最もオセローに近づいていた。 この一瞬こそが人生で最も大切な時間となり・・」。 凝縮した愛と嫉妬の融合を演出家はこのように言っている。 そして恋愛の掟として「相手を<信じる>以外にない」と。 この言葉通りにオセロとデズデモーナが愛を超えたことを直観するから「オセロ」に感動するの。 それでもデズデモーナが霊としてこの世にやってくるのは何故なのか? 「デズデモーナよ成仏して」と言ってやりたい。 イアーゴのことはもう終わった。 「オセロ」は「オセロ」を超えられるか?がこの作品の課題かも。 でも凝り過ぎて「オセロ」のその先へ辿り着けたのかは疑問ね。 *劇場、 https://spac.or.jp/au2017-sp2018/othello_2017

■赤道の下のマクベス

■作・演出:鄭義信,池内博之,浅野雅博,尾上寛之ほか ■新国立劇場・小劇場,2018.3.6-25 ■1947年シンガポール・チャンギ刑務所に収容されたBC級戦犯死刑囚の話です。 先ずは死刑台が奥にデーンと聳え立つ異様な舞台が目に入る・・。  BC戦犯の中に朝鮮人がいるが日本統治時代や戦争責任は強く語られない。 それは朴南星パク・ナムソンがマクベスを演じることで議論に緩衝帯が作られるからです。 これは「 平昌冬季オリンピック開会式 」の梁正雄ヤン・ジョンウンにも言える。 劇場WEBのトークイベントで演出家鄭義信チョン・ウィシンは「この作品の韓国版は1947年と現在の同時進行にしていた」と言っている。 しかし現在を切り捨てた理由は語らない。 朴南星は台詞で「何故マクベスは王を殺したのか? 自分で破滅の道を選んだのだ!」と。 「マクベスではなくてオセロでもよかった」は演出家の苦渋?の冗談とも言えます。 そして両民族の親子・兄弟の家族観が似ていることもあり自ずと死と向き合う姿が同期し強調されていく。 死刑囚が登場する作品はいつ見ても考えさせられます。 黒田直次郎の「頭がスッキリしてウンコは快調だ! それでも死ななければならないのか!?」は生理的にスッキリした台詞です。  明るく振る舞うほどに今この時代の舞台の位置付けが見えて来ます。 *2018.3.9追記。 食事のビスケットを食べる場面で思い出してしまった。 シンガポールで英軍の捕虜になった伯父がイギリス兵から弁当を入手した時の話をです。 英軍の弁当は1個で2食分あり食後のデザート用に紙に包まれた煙草が2本づつ入っていたそうです。 それをみて伯父は日本の負けたのが分かると言っていた。 戦場で吸う食後の煙草の旨さは計り知れない。 そして前線兵士の食料を現地調達するくらい悲惨なものはありません。 戦況次第で現地人からの食料強奪へとエスカレートし遂には戦友の肉まで食うことになるからです。 日本軍の食料調達システムは前線を飢餓地獄に変えます。 舞台に戻って・・、ビスケットを食べる時は楽しそうでしたね。 これで絞首刑の衝撃が増しました。 *NNTTドラマ2017シーズン作品 *劇場、 http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009660.html

■坂本龍一PERFORMANCE IN NEWYORK:async

■監督:スティーブン・ノムラ・シブル,出演:坂本龍一 ■恵比寿ガーデンシネマ,2018.1.27-(アーモリー,2017.4収録) ■パークアベニュー・アーモリーでのライブ記録である。 編集や音質が気になり作品を楽しむというより演奏を観るという感じだった。 昨年の「 設置音楽展 」の環境が良すぎたので今回が期待外れになってしまったのだろう。 はたして天井に映像が映し出されていた。 前作「 CODA 」はともかく監督S・N・シブルはライブに弱いらしい。 演奏+音楽+映像が一体化されていない。 やはり多次元作品は会場に出かけないと全体がみえない。 それでも坂本龍一が登場してからの最初のいっときは涙が止まらなかった。 過去に出会った映画作品それに纏わり付く多くの事を思い出してしまったからである。 断片音でも非同期でも映像を招き寄せる。 彼の作品は正に映像音楽と言える。 *作品サイト、 http://liveviewing.jp/contents/sakamotoasync/ *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 坂本龍一

■ホフマン物語

■作曲:ジャック・オッフェンバック,指揮:セバスティアン・ルラン,演出:フィリップ・アルロー,衣装:アンドレア・ウーマン,出演:ディミトリー・コルチャック,レナ・ベルキナ,安井陽子,砂川涼子,横山恵子,トマス・コニエチュニー他,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.2.28-3.10 ■新国でこの作品を観るのは初めてだから行く前から楽しみが膨らむわね。 そして幕が開き、いつもの無機質でカラフルな舞台美術は物語に合っていると直観できた。 一番に登場した議員リンドルのコニエチュニーが素晴らしい。 心臓まで届く声だわ。 悪魔メフィストの化身ね。 ホフマンとニクラウス役のコルチャックとベルキナも悪くないけど味が薄い。 二人は兄妹のように似すぎているから差異を出せたらもっと面白くなるはず。 サプライズはオランピアの安井陽子とアントニアの砂川涼子かしら。 特にアントニアの第3幕は最高。 アントニアの心の在りようが歌唱としてしっかり伝わってきた。 ダンスも素敵。 でも2幕オランピアと4幕ジュリエッタは合唱団員が動き過ぎて舞台に集中できない。 ホフマンと恋人の微妙な関係に入って行けない。 合唱団は立っているだけでも存在感は出るの。 寒色系から暖色系への舞台色の移行はとてもよかったど。 この作品は劇中劇のため夢のような人生の寂しさや喜びが感じられるかが大事。 今回は量の積み重ねでそれを獲得していた。 流石というかNNTTらしさがでていたわ。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *新国立劇場開場20周年記念公演 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009640.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 ホフマン物語

■シャンハイ・ムーン

■作:井上ひさし,演出:栗山民也,出演:野村萬斎,広末涼子,鷲尾真知子,土屋佑壱,山崎一,辻萬長 ■世田谷パブリックシアター,2018.2.18-3.11 ■1934年の上海、内山書店の2階が舞台です。 主人公は野村萬斎が演ずる魯迅。 実は魯迅を読んだことがない。 それも忘れかけていた魯迅が<急に出現!>した感じです。 ということで休み時間に急遽プログラムを購入して読み始める。 観ていて魯迅の好みや健康状態は分かりました。 彼の嫌いなものは医者、歯医者、3、4がなくて5が国民党。 好きなものは甘納豆、ジャム、クッキー、・・とにかく甘いものばかりです。 煙草は日に50本。 持病は虫歯を筆頭に不整脈、胃腸カタル・・。  治療のため主治医と歯医者が魯迅に麻酔をかけますが過去に出会った人々が彼の記憶に甦ってしまう。 記憶の人物と周囲の家族・友人を混同してしまう。 そのうち呂律も回らなくなり語句も誤ってしまう。 井上ひさしらしさが出ています。 しかし起こりそうで何も起こらない。 科白も間延びしている。 登場人物が説明ばかりしている。 <説明演劇>と言ってもいいくらいです。 その中で魯迅役野村萬斎は存在感がありますね。 彼の声は低くてもハッキリと耳に届く。 彼の動きや佇まいが一つの魯迅像を形成している。 周囲を見回すと魯迅をよく知っている観客が多いらしい。 比較ができて面白いはずです。 魯迅を知らない人はこの魯迅像で舞台をみていくことになる。 終幕、妻許広平の意見もあり魯迅は鎌倉へは行かず上海に留まる。 周囲がこの決定に従ったのは内山書店に出入りしている人々が中庸の精神を持っているからでしょう。 井上ひさしが言う「人間と人間の信頼」の基本と言っているものかもしれない。 魯迅を慕う国民党や日本人会の人々もいるようです。 しかし煮え切らない芝居です。 井上ひさしはこの作品で息抜きをしたのではないでしょうか? そして魯迅が<急に出現した>理由がわかりました。 いま立ち止まり魯迅を振り返る時期に入ったということでしょう。 *こまつ座&世田谷パブリックシアター共同制作 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201802shanghaimoon.html

■ST/LL

■総合ディレクション:高谷史郎,出演:鶴田真由,オリヴィエ・バルザリーニ,平井優子,薮内美佐子,音楽:坂本龍一ほか,照明:吉本有輝子,音響:濱哲史,グラフィック・デザイン:南琢也 ■新国立劇場・中劇場,2018.2.24-25 ■床には水が張り巡らされているの。 机の上にはワイングラスや金属皿、赤い林檎や黄色いメトロノームがみえる。 天井の移動カメラが背景のスクリーンに机上を映し出していく。 次に食器類を片づけてダンサーが机にのりそれをカメラが追う・・。 シャープな舞台ね。 映像とダンサーの寒暖関係が素晴らしい。 微妙にズレているようにもみえる。 西欧の物質観を感じさせる実験映画を観ているようだわ。 でも張った水を歩く女性ダンサーの動きに日常が見えてしまい緊張が崩れる。 たとえば机を動かす場面もね。 水の抵抗に負けているからよ。 後半ダンサーたちは舞台を動き回り始める。 背景映像も食器や書物の落下を挿入しながらダンサーと同期・非同期を繰り返していく。 オノマトペのような詩の朗読もあるの。 音楽は空白が多くて控えめだけどダンサーを引き立てていた。 そして再び机を使って静かに幕が下りる。 配られた解説に「・・相対性理論的、あるいは量子的世界観へ接近」と坂本龍一が書いているけどそれは感じる。 ダンサーと映像や映像間の微妙な揺れからもね。 水と油の相対論と量子論の融合かしら。 この二つの境界で生命体としてのダンサーが無関心を整いながら動き回っている。 深読みが必要な舞台だった。 カーテンコールで拍手が弱かったのも観客は楽しむ前に考えてしまったからよ。 *NNTTダンス2017シーズン作品 *劇場、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/33_009655.html

■ヒッキー・ソトニデテミターノ

■作・演出:岩井秀人,出演:ハイバイ ■東京芸術劇場・シアターイースト,2018.2.9-22 ■「引きこもり」支援施設の日常を描いた舞台です。 十年以上も家に引きこもっている鈴木太郎と斉藤和夫の二人に焦点をあてて物語が進む。 施設職員森田冨美男も元ひきこもりです。 太郎には親子関係の失敗がみえますが和夫の心の内はよく分からない。 二人は自身が完璧でないことに負い目を感じて外に出られない設定になっている。 しかし完璧さは人生の罠です。 ・・そして二人は支援施設から社会へ飛び立つ。 ストーリーから逸れますが・・、太郎の父の新しい上司である中国人女性がいつのまにか施設職員に変身する場面は驚きです。 声だけで時空と役者間を移動してしまうのは凄い。 演じたのはチャン・リーメイです。 このような感心する場面が多々あり役者の立ち位置や小道具の使い方、そこに被さる時間空間の処理は完璧です。 そしてリアルな生活を暴き出すさり気ない対話が続くから唸ってしまいます。 演出家は「世界の正しさに勝てないと勝手に思い込んでいる人達」と「世界に抗うのをやめた人達」の両方を描きたいと言っている。 正しさよりドロドロした人間関係の煩雑さもこれに加えたい。 社会に出ていけた人は抗うのを止めるのではなく、世界に馴染んでいくのだと思います。 それにしても太郎と和夫は優等生過ぎる。 太郎は両親から離れればよい。 和夫は古舘寛治が演じていましたが彼には独特な役者個性が滲んでいる。 この舞台では老練過ぎて引きこもりと言うより仙人に近かった。 これで和夫の自殺は予想外になってしまった。 冨美男を演ずる岩井秀人も抑えが効いていて巧い。 久しぶりに面白い舞台に出会えたという感触が残りました。 *劇場、 http://www.geigeki.jp/performance/theater167/

■松風

■作曲:細川俊夫,演出・振付:サシャ・ヴァルツ,美術:P・M=シュリーヴァー,塩田千春,照明:マルティン・ハウク,指揮:D・R・コールマン,出演:イルゼ・エーレンス,シャルロッテ・ヘッレカント,グリゴリー・シュカルパ,萩原潤ほか ■新国立劇場・オペラパレス,2018.2.16-18 ■開演前のピットを覘く。 打楽器が目立つ構成だ。 合唱団の席も上手に広く取ってある。 そして舞台中央から階段がピットに降りている。  幕が開いてから当分の間はダンスが主になる。 手足を振り広げ大きな動作で流れていく。 毛筆で文字を描く感じと言ってよい。 そして歌手の登場。 演奏も歌唱も不協和音のような響きでなかなか良い。 歌手もダンスに交わるので舞台の動きが崩れない。 しかし違和感が抜けない。 ワキはともかくシテ役の登場がとても煩いからだ。 あの世からやって来たようには見えない。 ギリシャ神話風の神々の登場方式である。 舞台前面に網を張り巡らし、そこを蜘蛛のように動き回る為もある。 能や舞踏のような存在の不思議さが無い。 風の音にも馴染めない。 日本語字幕にもそれは言える。 どこか解説的である。 この違和感を乗り越えようと努力しながら観続けた。 僧が宿泊を願い出る「暮」あたりから慣れてくる。 しかし「舞」の狂乱場面では天井から1メートルもある松葉が落ちてきた。 僧が目を覚ますとそこは台風一過の様である。 チケット購入時に日本語でないことを知った。 「相手を慮って使う言葉ですから・・」と細川俊夫は日本語を避けたようだ。 しかし松風および村雨の行平への想い(歌詞)も自然描写(音響・美術)もダンス(身体)も別々に動いていて劇的にまとまらなかったと言える。 言語的関係性を優先した為である。 唯一、演奏と歌唱が姉妹の叫びを受け取ったように思えた。 母語以外での上演の宿命だから「松風」を忘れて観なければいけなかった。 いま観客として反省している。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009639.html

■平昌冬季オリンピック開会式

■総合演出:梁正雄ヤン・ジョンウン,音楽監督:梁邦彦 ■平昌オリンピックスタジアム,2018.2.9(NHK中継) ■虎や竜と5人の子供たちを登場させ神話の世界から入っていきます。 動物は人が中に入った張子のため温かみがある。 チャング演奏や踊りなどを取り入れながら舞台は進みます。 そして神話構造である陰と陽の太極旗を描き宇宙の調和を示して前半は終わります。 後半に入ると先ずは選手団入場。 続いて成長した5人の子供と科学技術の未来を描きます。 演者が四角い枠を持って照明と映像で表現していく。 次にオリンピック会長挨拶、歌はハ・ヒョヌら4人で「イマジン」。 トーマス・バッハ会長の話はツマラナイですね。 その心境は分かる。 ドローン編隊の登場は驚きですがテレビではよく分からない。 しかしファン・スミのオリンピック聖歌は最高! 聖火台点火のキム・ヨナも言うことなし。 朝鮮白磁に似せた台もなかなか趣があります。 さいごにトッケビが踊るストリートダンスで幕が閉じる。 こんなにも政治的経済的イデオロギーを抑えた開会式は初めてでしょう。 大過去と近未来を描いて近代と現代は飛ばしている。 前回の「 ソチ冬季オリンピック 」とは違う。 スタッフの政治問題への苦心が今回は表れています。 昨年末に観た同演出家の作品「 ペール・ギュント 」をより単純大味にした感じもします。 *JOCサイト、 https://www.joc.or.jp/

■Sing a Song

■作:古川健,演出:日澤雄介,出演:戸田恵子,鳥山昌克,高橋洋介,岡本篤,藤澤志帆,大和田獏 ■本多劇場,2018.2.7-16 ■主人公三上あい子は淡路のり子に似ている。 とは言っても彼女をよく知りません。 舞台上の三上は音楽のプロだと分かります。 「人を死に追いやるような歌は歌ではない。 だから絶対に軍歌は歌わない」。 この100年の、音楽の真髄です。 小津安二郎を思い出してしまった。 二人の表現や立場は違いますが彼は軍服を絶対に撮らなかった。 ストーリーの先読みのできる作品ですが中村軍曹のジャズ好きが皆にバレる所から分からなくなる。 しかし彼のジャズ好きと三上の鞄持ち成田が旅順攻囲戦の生き残りという二人の趣味戦歴が物語を過激にさせない防波堤のようです。 長内大将の切腹や葛西中将の敗戦の弁が表面的になってしまったのも致し方ない。 沖縄へ特攻機が出撃していくのをみて三上は歌えなくなり泣いてしまう。 成田はそれをみてプロではないと諫めます。 それでも舞台の素晴らしいのは、歌手三上あい子の憲兵をも物ともせず歌への強いおもいで難局を乗り切っていく姿でしょう。 高齢客からすすり泣きも聞こえましたが自身の歴史と重ねてしまうのかもしれません。 * 第28回下北沢演劇祭 参加作品 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/89895

■2030世界漂流

■演出:小池博史,出演:フィリップ・エマール,ムーンムーン・シン,荒木亜矢子,谷口界ほか,演奏:下町兄弟,太田豊,蔡美和 ■吉祥寺シアター,2018.2.3-12 ■客席に子供たちが多い。 未就学児入場可能日だったのね。 しかも舞台は子供にも楽しめる内容になっていた。 おかげで客席も含めて一体感が持てたわよ。  いつものことだけど体温が感じられる舞台だった。 近頃のダンスは体温有無の巾が広がっているの。 小池博史は体温派の筆頭ね。 そして色々なことを思い出しながら観てしまう。 体温で身体から記憶が溶け出すのよ。 前回の「 世界会議 」もそうだった。 今回はフィリップ・エマールの動きが強い為かフランスのことばかり浮かんでしまった。 過去に出会った映画ダンス芝居マイム小説シャンソン美術・・。 ケベックはよく知らないけど、港の匂いが北アフリカまで広がっていく。 映像も断片だけど意味風景として結ばれていく。 「難民」を扱っているらしい。 そのような漂流を経験したことがないと自身の記憶が漂流となり押し寄せて来るのね。 マドレーヌの香りのように。 演出家の意図した漂流とは違ってしまったかもネ。 *SuperTheater小池博史ブリッジプロジェクト作品 *主催者、 世界シリーズ(kikh.org)