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■九月、東京の路上で

■原作:加藤直樹,作・演出:坂手洋二,劇団:燐光群 ■ザスズナリ,2018.7.21-8.5 ■役者たちは「九月、東京の路上で 1923年関東大震災ジェノサイド残響」(加藤直樹著)を持って登場します。 朗読劇だとみていたが本は時々読む程度で科白が主です。 千歳烏山オリンピック対策委員会の13人は烏山神社を皮切りに関東大震災下の朝鮮人虐殺現場巡りを始める。 夫々の現場の説明や今昔風景、そして時間が遡り震災時の状況を再現していくのですが具体的で迫力があります。 それは住所や人数、武器、殺傷内容なども語られるからです。 朝鮮人ばかりではなく中国人や怪しい日本人まで対象にされていく。 その理由は「井戸に毒を入れた」等々の流言を受けて殺しに及んだらしい。 軍や警察の態度行動もハッキリしていない。 むしろ虐殺を助長している。 何故どの地区も同じような状況に陥ってしまったのか? 日頃発生する一つ一つの小さな差別を見過してきたことが考えられます。 それが積み重なって犯行に及んでしまった。 たとえば先日の杉田水脈LGBT発言も些細なことではなく差別だという声を上げ続けることが同じ状況に陥らない一歩となるはずです。 また中国人の賃金上昇で一部の日本人が働き難くなっていたのが殺傷対象の一因とも言っている。 今なら正規・非正規社員の衝突のようで将来の経済悪化になった時の混乱が予想できます。 国会議員と自衛隊員の議論も興味深い。 民を死に追いやらないことが国の務めで、その逆ではない。 生死を国家が操作できる死刑制度は人を殺してもよい理由を国民が持ってしまうことです。 これが災害や戦争でも正当化されていく。 1923年と今とでは報収量や媒体は違っても情報判断や処理能力に差が見え難い。 近未来を描いているようで苦しい芝居でしたが淡々としてテンポが良くリズムがあり充実した2時間半を持てました。 震災時に千田是也が千駄ヶ谷で自警団に朝鮮人と間違えられ暴行されたので芸名を千田是也にした話にはびっくり。 *劇団サイト、 http://rinkogun.com/Kugatsu_Tokyo.html

■慕情の部屋

■作・演出:中村匡克,出演:桝井賢斗,川西佑佳ほか,劇団:スポンジ ■下北沢駅前劇場,2018.7.11-15 ■主人公の青年が女に騙される話である。 女は青年に近づく。 女は夫からDVも受けているらしい。 女を好きになった青年は何とかしなきゃと思う。 そして青年は女の夫を殺害する・・。 青年は刑務所で振り返る。 彼女がDVの傷跡を見せてくれなかったこと、寝室に鍵が掛かっていなかったこと、彼女が殺害前に夫に保険をかけたこと、刺したナイフの傷は浅かったこと、・・。 カットバック技法で過去が甦ってくる。  主人公の真摯な行動が誤解される話の多い演出家だ。 真っ当な行動を社会は無視するので主人公が苦しむパターンだ。 でも今回は違う。 殺人を犯したのは確かなようだ。 しかも主人公に苦しみがみえない。 青年にはすべてが謎としてやってくるからである。 青年は若すぎる。 これで苦しみより先に謎が来てしまった。  青年にはもっと苦しみぬいて欲しいところだ。 でも謎をより熟成させても面白いかもしれない。 しかし女の心は読めない。 謎以前だ。 これで作品はどうにも動けない。 どっちつかずで中途半端の感があった。 舞台美術の場面転換は良かった。 映画の話に逸れるが・・、科白に幾度もゴダールの名が聞こえた。 しかし青年はゴダールについて一言も喋ってくれない。 舞台の流れとゴダールの作品を当て嵌めようとしたが上手くいかなかった。 「トイ・ストーリー3」は観ていない。 「慕情・・」も映画タイトルを真似ているが舞台と結び付けられなかった。 振り出しに戻るが、青年がタクシーに乗って殺しに行く背景にクレジットタイトル映像が流れる。 この場面はどの映画作品を真似ているのか?謎解きのようにみえてしまった。 映画の話題は多かったが結局は舞台との因果関係は無いのだろう。 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/92821 *「このブログを検索」語句は、 中村匡克

■満州戦線

■作:パク・グニョン,翻訳:石川樹里,演出:シライケイタ,芸監:流山児祥,出演:伊藤弘子,清水直子,洪明花,いわいのふ健,カゴシマジロー,小暮拓矢 ■ザスズナリ,2018.7.11-16 ■客席を両端に分け舞台を中央に置く構造はこの劇場では初めてです。 本日は満席で男性高齢者が圧倒的に多い。 そして1940年満州国、新京在住6人の朝鮮人の物語が始まる。 その一人、金田という文学青年が舞台からときどき抜け出し未来から現在にト書きのように語りかけます。 これから生まれてくる彼の父を何とか育てようと周囲の人たちが奮闘する話だと分かってくる。 祖母芳江が新京役所に勤めていた時の上司との間にできた子が父になる。 芳江はすぐに日本人である上司に捨てられるからです。 それは日本人として生きていく為に芳江が取った行動でした。 戸籍上の祖父になる満州国陸軍軍官飛鳥も日本軍人に同化しようと努力している。 その妹慶子、医者の木村と婚約者であるキリスト教信者尚美を含め6人は五族協和のなか苦しい生活を続けて行きます。 そして戦争終結がみえたある日、君が代が流れるなか旭日旗の前で直立不動の彼らの姿を映しだしながら幕が下りる・・。 複雑さを感じる舞台でした。 客席が明るくなると周囲も騒めいていましたね。 アフタートークがある。 出席はパク・グニョン、シライケイタ、流山児祥、通訳は洪明花。 韓国上演でも終場は賛否があったようです。 当時の状況下で人々の多くは時代の流れに身を任せ必死に生きなければならなかったことを作者パク・クニョンは伝えたかったようです。 国家がどうであれ日常を生き切ることが大事だということでしょう。 次に作者はモンペの話をしだした。 それは国家総動員法を近頃知ってモンペに関心を持ったそうです。 国家強制のモンペ普及運動ですね。 朝鮮では日本支配の象徴ですが満州ではどうだったのか? また祖父を含め家系図の話があったが、これは元大統領批判が含まれている。 そして腐敗している一部キリスト教団体の話や、韓国国歌がいまだに満州国祝典音楽を使っているとの批判も出ました。 満州国が今の韓国に複雑な影を落としているのがわかります。 岸信介の満州資金が回りまわって安倍晋三まで繋がっている日本も同じだということでトークは終わりました。 *CoRich、 https://

■アマデウス

■作:ピーター・シェーファー,演出:マイケル・ロングハースト,出演:ルシアン・ムサマディ,アダム・ギレン ■TOHOシネマズ日本橋,2018.7.6-12(オリヴィエ劇場収録) ■イタリア時代の甘いお菓子の思い出がサリエリ自身から語られる。 それはカトリック家族の慣習や教会のフレスコ画にも広げられ出足から想像力が刺激される。 ト書きを喋るなどの進行係を彼が担当するので物語背景がよく分かる。 サリエリのモーツァルトへの嫉妬は現代人にも通ずるから前のめりになる。 違うのは神が絡むことである。 頂点にサリエリ、モーツァルト、神がいる三角構造だ。 サリエリは神の企てに翻弄され嫉妬することに苦しむ。 転機が訪れるのはモーツアルトの妻コンスタンツェを唆した場面からだろう。 ここは役者ルシアン・ムサマディの地が見えて面白い。 以降サリエリは神への態度を硬直化させていく。 「神の企てを阻止する」「神に思い知らせてやる」。 これで前半にあった物語の豊かさが萎んでいってしまった。 サリエリの科白や行動が事務的になってしまったからである。 釣られてモーツァルトの嫉妬される意識も天才の牙も遠のいていった。 楽団員をコロスにして演技をさせるので背景が濃い舞台になっている。 しかも後半はオペラに力が入る。 「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」そして「魔笛」で幕が下りる。 どれも一場面だがとてもリッチだ。 舞台の華麗さは悪くはない、がしかしサリエリとモーツァルトと神の三角構造が深まったとは言えない。 この嫉妬の形を煮詰めればより面白くなったはずである。 インディペンデントなど5紙の劇評は五つ星を取っているがタイムズ等4紙での四つ星は後半の深みへ行く力の弱さを指摘しているのだと思う。 まっ、それはどうでもよい。 NTの舞台からはいつも素晴らしい刺激を貰えるから。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *作品、 https://www.ntlive.jp/amadeus

■街の麦

■演出:天野天街,脚本:虎馬鯨,原作:加藤千晶,音楽:加藤千晶,珠水,原マスミ,振付:夕沈,劇団:少年王者舘,演奏:街々ソックス ■上野ストアハウス,2018.7.5-9 ■古くなった駅地下街が解体される話のようです。 主人公の女子中学生(高校生?)が地下街を歩くと未来の友人らに出会ったり街を走る電車に乗ったり・・、時空が混沌としてくる。 それが授業中に居眠りをしていた主人公の夢のようでもある。 昭和の風景が入り混じった懐かしさがあります。 生演奏と歌唱が彩りを添えます。 でも舞台は学芸会になってしまった。 科白が羅列だけの懐古趣味です。 生演奏は良いのですが歌詞が表面的です。 ギターを持った独唱は恰好イイがストーリーに噛み合っていかない。 ウンコの話は楽しかったが、学校の授業風景はいただけない。 全体を統一させようとして内容が薄くなってしまった? 人生の充実は夫々の年代で必要な体験をちゃんとしてきたかで決まります。 なかでも少年時代が宝であったことを現前化できるのがこの劇団でしょう。 今回はその宝が霞んでしまっていた。 *チラシ、 http://www.oujakan.jp/_images/machio.jpg

■真夜中の虹

■作・演出・美術:益山貴司,出演:劇団子供鉅人 ■下北沢駅前劇場,2018.7.1-8 ■オムニバス形式を採っています。 「真夜中のスタジオ」「・・の兄妹」「・・のパーティ」「・・のホテル」・・。 「真夜中の虹」と呼ぶの分かりました。 ストーリーは独立しているが後半はそれぞれが絡み合い最後は七色だが「虹」のように一つにみえる。 再演らしいが、この構造の面白さに演出家は惚れたのでしょう。 それと大阪弁?で喋ると人間味が濃く見えます。 関西系の劇団は時々出会うが舞台で直に接する方言は生々しく耳に届く。 家族や男女の喜怒哀楽が中心のため余計にそれを感じます。 特に認知症の妹が他人家族の綻びを治す話が光っていました。 90分の上演でしたが後半を取捨選択して15分短くすれば虹がよりハッキリ見えたでしょう。 *劇団サイト、 http://www.kodomokyojin.com/works/2016mayonaka.html *「このブログを検索」語句は、 益山貴司

■centrifugal  ■resonance  ■Intensional Particle

■以下の3作品を上演 □「centrifugal」,振付:梅田宏明,出演:Somatic Field Project,サウンド:S20 □「resonance」,振付:梅田宏明,出演:Somatic Field Project,サウンド:S20 □「IntensionalParticle」,振付・出演:梅田宏明,イメージ&サウンド&制作:S20,ビジュアル:LudovicBurczykowski,イメージプログラム:堂園翔矢,映像編集:GuillaumeGravier ■あうるすぽっと,2018.6.30-7.1 ■梅田宏明の振付はバタバタしていない。 それは足を地面に付けているからよ。 そして骨肉の動きを等速度に近づけるから。 最初の「centrifugal」は固さがありリズムが眠くなる感じね。 遠心力より慣性力の影響かしら? でも「resonance」には覚醒されたわよ。 「マトリックス」でネオが弾丸をヌルッと避ける動きに似ている。 以上2作品は暗い単色照明と突き刺さる雑音のような音響が背景なの。 最後の「IntnesionalParticle」は壊れたオシロスコープ映像が加わる。 梅田のソロだけど、見せる者をトランス状態に持っていく舞台は凄い。 映像の激しさに付かず離れずの振付はダンサーとしての妙味ね。 いま流行りのプロジェクション・マッピングを使わないから存在感を失っていない。 アフタートークで、梅田は写真家からダンサーに移った話をしたけどダンスに対する確固たる考えを無意識レベルで持っている。 そしてコンセプトを考えて観客にどのようにみせるか迄も描くことが出来る。 舞台を観てもブレていない。 将来は細胞などの器官素材をダンスで描きたいなんて言っているのは面白い。 また一人、楽しいアーティストに出会えて嬉しいわ。 *劇場、 https://www.owlspot.jp/events/performance/1-resonance_1.html

■山姥  ■鷹姫

■世田谷パブリックシアター,2018.6.23-7.1 ■舞囃子「山姥」,出演:観世喜正ほか ■先に観た「 楢山節考 」の続きのようだ。 雪山に消えていったおりんの後ろ姿を思い出す。 そして山姥となり再び登場か? 「人生100年時代」ならあり得る。 でも舞囃子のため演劇時空が途切れてしまった。 観世喜正の声が整い過ぎていて、より抽象へ向かう舞台になっていた。 ■能「鷹姫」,原作:W・B・イェイツ,横道萬里雄,演出:野村萬斎,出演:大槻文蔵,片山九郎右衛門,野村萬斎ほか ■空武麟は直面のため聞き取れたが、老人の科白を結構聞き逃してしまった。 ところで鷹姫を見ながら「楢山節考」の鴉の目付きがとても良かったことを思い出す。 解説で鴉と鷹を結び付けていたからでもある。 どちらも余分な意味を伴わない動きに感心してしまう。 鳥は目的へまっしぐらだ。 迷いある人間と自然の化身である鳥類を比較した2作品に思えた。 能のようで能ではない不可思議な感じはしたが、先月の能楽堂で観た「 桜の園 」のような衝撃は無い。 今回は登場人物の守備範囲が変わらないからだろう。 *狂言劇場特別版 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806kyougen.html

■呼声  ■楢山節考

■世田谷パブリックシアター,2018.6.23-7.1 ■狂言「呼声」,出演:野村萬斎,内藤進,中村修一 ■いやー、面白かった。 演者たちが普通の調子から平家節、小唄節、踊節とエスカレートしていく。 しかも同じ対話を繰り返していくからリズミカルである。 舞台作品としては完璧と言ってよい。 「にほんごであそぼ」でも上演したようだが「ややこしや」と同じく言葉と身体が一つになる舞台は子供大人を越えた楽しさがある。 ■狂言「楢山節考」,原作:深沢七郎,脚本:岡本克己,演出:野村万作,出演:野村万作,深田博治ほか ■映画や舞台で観ていたが狂言では初めてである。 「主人公おりんの回想を交えた形で展開」する。 山川で遊んだ子供時代の懐かしい思い出、食料難からくる盗人の記憶、歯が丈夫すぎた苦悩が楢山の雪の中で甦る。 涙なしでは観ることができない。 おりんは一言も喋らない。 彼女の動作はしっかりしている。 楢山へ行くには考えられない気力体力がある。 ミスマッチの戸惑いがおそってくる。 「人生100年時代」に再び楢山を現代に甦らせた。 *狂言劇場特別版 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201806kyougen.html