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■EVERY DAY

■脚本:冨士原直也、演出:津田拓哉、出演:津田記念日 ■下北沢OFFOFFシアター、2011.6.23-27 ■ http://tsudakinenbi.net/next_files/%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7%E8%A3%8F.jpg ■ストーリに戸惑ったがすぐにゴースト系物語だとわかる。 妻が事故で意識不明だがゴーストとして日常生活を営むという設定だ。 舞台は板や箱が置いてあり、そこに折りたたみ机や椅子や小道具を出したりしまったりできる。 小劇場用デザインにできている。 夫はゴーストに戸惑い仕事も捗らない。 毎日が過ぎていき一週間後の日曜日、お互いに「ただいま、おかえり・・」を繰り返して妻は行ってしまう。 チラシに「甘えた幻想からこの物語はできた」とあるが一週間があるから甘えではない。 逆にとても辛いことだ。もし死ぬ時期が事前にわかってしまったら、その間は覚悟を持って死に向かうしかない。 しかし日常生活を淡々と過ごす流れになっている。 芝居はこれを肯定してくれるので観客は癒される。 ところで部長が詳細を知らないで部下が始末書を書くことなどありえない。 仕事には少し甘い。

■ソコハカ

■原作:鴨長明、作・演出:岩渕幸弘 ■プルヌスホール、2011.6.23-26 ■ http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage21364_1.jpg?1414371037 ■舞台中央に塔婆が立っている。 背景には大きな「夢」文字。 盆踊りの櫓のような舞台が前に進み出て幕は開く。 しかし最初は役者がセリフを叫んでいるようで何を言っているのかよく聞き取れない。 咽が潰れている役者もいるようだ。 2,3の女性役者を除きこの状況が最後まで続いてしまった。 何回も耳を塞ぎたくなった。 物語の流れもよくわからない。 あらすじでも書いてあれば有難かったが。 科白も否定的な言葉が多く、耳に障る。 途中で監督・音響・照明・カメラが登場するが複雑な構造は面白みが遠ざかる。 もっと直球で勝負してほしい。 スタッフ、キャスト共に学生が多いようだが、まずはわかり易い芝居を心がけてもらいたい。 セリフもだ。 「全力プレー」は結構だが、これでは鴨長明も仰天しているだろう。

■一輪の華をはなむけ手向けることも赦されず

■作・演出:ラディー、出演:劇団ING進行形 ■タイニイアリス、2011.6.9-26 ■ http://ing.nobody.jp/ ■キリスト教が絡むとそこはSFの世界ね。 ジャンヌ・ダルクの霊を呼び出す場面で始まる神の啓示と使命の物語のようねだけど・・。 演舞と言われるダンスは悪魔的イメージで今回のテーマにマッチしているわ。 にもかかわらず踊りへの必然性が弱かった。 物語を高揚させてダンスに行かなければならないのに、観客は物語を自身のものにできず置いてきぼりにされてしまったからよ。 公演時間が短いとダンスとセリフが同時進行するから観客は容易に受け取れるの。 荒くてもあまり気にしなかった。 展開が粗雑なのかな? 長時間になるとこれが分離する。 すると物語とダンスの結合を緻密に計算しないと感動が届かない。 ということでいまからドラマツルギ2012が楽しみだわ。

■人涙

■作・演出:鈴木アツト、出演:劇団印象 ■タイニイアリス、2011.6.9-26 ■ http://www.inzou.com/jinrui/jinrui-omote.jpg ■レーシック手術で見えなかったものが見えてくるお話。 主人公が見えるようになった妖精は、衣装も大好きな涙を食べる仕草もとても素的ね。 今日子の母とその愛人その姉の4人が登場し、対話の中から日常の襞が見えてくる。 それは些細なことだけど生活を意味あるものにしていく事柄なの。 でも結局はどうでもいいことね。 観終わったら妖精の楽しさと登場人物の社会的関係しか覚えていないわ。 しかし塞ぎこんでいる時に観にいきたくなるような芝居ね。 妖精に会えるから。

■オイディプス神話

■演出:笛田宇一郎、出演:笛田宇一郎演劇事務所 ■シアターイワト、2011.6.15-19 ■ http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage22109_1.gif?1414371417 ■セリフが連続しかも早口で物語の繋がりを追っていくことが出来ない。 登場人物関係も混乱してしまった。 しかしセリフは体から発する特異なリズムがあるので心地良い。 途中から詩を観ている感覚になる。 若い役者も硬さがあるけど離されないで付いてきている。 武内靖彦のダンスは動きが少なくて良かった。 でも他役者はもう少し動いたほうが舞台に興味がより生じたはず。 パンフレット「・・人間が宗教や悲劇を必要としているのは、・・混乱や無秩序に巻き込まれ身体的に一体化することが秩序なのだ・・」とあったが、大震災と芝居を結びつけていて目が止まってしまった。 観終わって、充実感はあったが感動が少ないことに気付く。 役者間の身体からの返信が弱かったからだとおもう。

■モリー・スウィーニ

■作:ブライアン・フリール,演出:谷賢一 ■シアタートラム,2011.6.10-19 ■盲目モリーの目の手術の前後まではヘレン・ケラーを思い描きながら観ました。 触覚優先の別世界へ想像力が働く舞台です。 後半は再び目が見えなくなるがその原因が伝わってきません。 モリーが何かを失ったことはわかりますが。 夫フランクはコント?を演じたり、時にはケーシー高峰のようにホワイトボードで医学論を展開したり、セリフを叫んだり、そして観客にも愛想をふりまきます。 ライス医師も手紙を読んでるような棒読みで時にはフランクに釣られてか叫び調子になります。 モリーとフランク、ライス医師の三人は別々の芝居の役者のようです。 舞台の机や椅子や本棚のあるつまらない日常風景が、後半は黒の基調で赤いコート、黄色い傘、水色の服と波を打っている黒銀色の床への抽象的風景に再編成されます。 この舞台移行の理由も不明です。 SFのような物語でしたら気にしませんが、以上の三点が観後に残った芝居の不可解さです。 これが面白いとも言えます。 *劇場サイト, https://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/06/post_229.html

■雨

■作:井上ひさし,演出:栗山民也,出演:市川亀治郎,永作博美ほか ■新国立劇場・中劇場,2011.6.9-29 ■前半途中から平畠弁?になり戸惑ったが、後半は少しずつ耳に馴染むようになった。 いつもと違って歌舞伎を観ているような場面が多々ある。 声がよく届き、歩き方も他役者とは違う、主演である市川亀治郎の影響力に驚く。 他役者も張り切るしかない。成りすましの徳が紅花問屋に藩に幕府に騙されていたことが終幕近くでまでわからない。 他の井上作品と比べて物語の流れに複雑さが無い。 これも歌舞伎的演出を活かせた一つの理由のようだ。 そして中劇場の締まりのない広さが気にならないのも、この不要を捨てた抽象性が効いている。 「観るまで読むな、観てから読め」は井上ひさしの芝居の観方である。 今回もチラシだけしか読まないで劇場に向かったのは正解だった。 *NNTTドラマ2010シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/play/20000328_play.html

■四番倉庫

■作:宮森さつき,演出:多田淳之介,出演:二騎の会 ■こまばアゴラ劇場,2011.6.4-15 ■「友だちがいない」というセリフが決定場面で必ずでてきます。 これが「ダメ男たち」の条件のように聞こえました。 でもこれは十分条件にみえます。 必要条件は会社や家族などなどの組織から外れていることです。 ところで、この芝居は変形版ボケとツッコミですね、 そして客席の二人が時々ストーリーを延ばす為の野次を飛ばす感じ。 ツッコミの内田や野次を飛ばすことができるのは必要条件を持っていない人、 つまり曲がりなりにも会社や家族という組織に居る人です。 速水にはそれがない。 「ダメ男」はボケをやるしかない。 昔なら速水は仙人です。 *劇場、 http://www.komaba-agora.com/line_up/2011/06/nikinokai/

■椿姫、何日君再来

■原作:A・D・フィス,演出:鈴木忠志,出演:SCOTほか ■静岡芸術劇場,2011.6.11-12 ■主演を固めるのは台湾俳優たち。 歌われる14曲の多くは1900年前半の中国流行歌謡曲。 初めて聞く曲ばかりだわ。 背景の客人達=コロスはニューヨークのウォリアーズ感のある衣装で場所がどこだか見当がつかない。 多分上海ね。 アルマンの父がマルグリットに息子から手を退くように懇願する、物語の高揚場面で北京語から台湾語に替わったらしい。 日本の観客は見過ごすけど、台湾の観客には身体と歴史が塗れている言語変換でとても感動したと聞いたの。 これはわかる気がする。 最後の「緑島小夜曲」がよかったかな。 でももっと歌にけだるさがあってもいいかも。 上海の雰囲気ももっと欲しかった。 そうすればS・メソッドの重みのある身体動作と一層マッチしたはず。 テレサ・テンの「何日君再来」を聞きながらこれを書いたのよ。 *劇場サイト、 http://www.spac.or.jp/11_fujinokuni/camellias.html

■光ふる廃園

■振付:工藤丈輝,若林淳 ■座・高円寺,2011.6.10-12 ■発行態での若林淳のダイナミックなソロでは照明が前後左右から点滅を繰り返しユックリみることができなかった。 観る楽しさを壊している。 この場面の照明はどっしり構えていて欲しい。 工藤丈輝は鋼鉄の肌黒い肉体を持った河原乞食だ。 若林と対照的な体を持っている。 この二人なら面白い舞台が作れるはずだ。 しかしそのように進行しない。 なぜかつまらない。 女性が登場しても展開に硬い感じが続いた。 ダンサーは汗をたくさんかいていて緊張しているようだ。 チラシの解説は数行だが重たく難しい言葉で綴られている。 この言葉を身体迄に落とすのに精神を使い果たしてしまったのではないだろうか。 *劇場サイト、 http://za-koenji.jp/detail/index.php?id=455

■天守物語

■原作:泉鏡花,演出:毛利亘宏,出演:少年社中 ■吉祥寺シアター,2011.6.3-12 ■妖怪の住む天守閣と人の道が深い自然で分かれている舞台、父親に戻る時間の展開方法、妖怪と人の相違を説明している多くのセリフ、「妖怪も人も死ぬのは怖い」。 具体性を持っているにもかかわらずシンプルで分かり易い舞台です。 そして中国風の華麗な衣装と日本の祭りの踊りがこれを包み込んで少年らしい世界を提示しています。 そのぶん深い精神の襞は描けていません。 しかしそれは観客が想像すればよいのですから。 もう少し抽象性を進めたらまた少し夢幻世界へ近づけたかもしれません。 ところで黒衣の鷹の動きは、右腕だけで羽を表現し身体とその位置を分離して面白い存在感を持っていました。 楽しい一時を過ごせた芝居でした。 *劇団サイト、 http://www.shachu.com/tenshu/

■真夏の夜の夢

■作:W・シェイクスピア,潤色:野田秀樹,演出:宮城聰,出演:SPAC ■静岡芸術劇場,2011.6.4-5 ■木々と梯子で奥行と縦の立体感を出しグレー系の落ち着きのある舞台美術。 衣装も料理屋従業員の白から、妖精達の灰色、メフィストフェレスの黒までの無色、そしてそぼろだけワイン色なのは彼女の夢だったから? 野田の言葉優先から来る緊張感ある舞台と違って宮城の言葉と身体を対等に置く表現は落ち着きのある宇宙を作り出している。 メフィストの登場で善悪・恋愛・人生などを反芻することができて、観客は物語に深く分け入りながら進んでいくことができるの。 最後に恋愛の行き違いから森を失ってしまうのをみて人間の些細な出来事の積み重ねが歴史だと見えてくる。 「 グリム童話 」と違って今回はちょっと複雑。 だから観後の帰り道に舞台を思い返すごとに充実感が増していくのね。 *劇場、 http://www.spac.or.jp/11_fujinokuni/nightsdream.html

■届けて、かいぶつくん

■振付・演出:KENTARO、出演:東京ELECTROCK STAIRS ■シアタートラム、2011.6.1-5 ■ http://setagaya-pt.jp/cgi/posterWindow.cgi?imgPath=tokyoelectrock_todoketekaibutsu_l_pm_poster_2.jpg ■日常の動きに速さと丸めを加えた振付、しかも腕と手先に比重が分散してきてとてもいい感じだ。 自作の音楽もまあまあ。 しかし観客にいつものような躍動感が伝わって来ない。 これは90分の流れにメリハリがなかったからだ。 いつもは数グループの一つとしての出演だから10数分の踊りっ放しだった。 短い時間だから無条件で楽しめた。 今回のように上演時間が長い場合の戦略・戦術は見直したほうが良いと思う。 たとえば、素人レベルだが・・ 歩くことや走ることも取り入れる。 音楽やセリフを厳選する。 セリフに詩を増やす。 ダンサーを舞台袖で休息させる(これも客に見せる)。 ・・などなど。

■泥リア

■作:林周一,演出:笠原真志,出演:風煉ダンス ■調布市せんがわ劇場、2011.5.27-6.5 ■嵐の中のリア王→リアの妻の葬儀→三人娘や夫の登場→壁の模様替え→泥人間登場・三人娘がギドラに変身・エドマンドの謀略・・→壁の模様を戻す→嵐中のリア王→リアの妻の葬儀、こんな流れだったかしら? ギドラや泥人間の楽しい登場は、暗い場面の嵐のリア王や葬儀に一層の深みを届けている。 リア王の二人は舞台慣れしていてそこだけ違う芝居のようね。 これで→が進むごとに時空を超えていくような舞台にみえた。 一種の劇中劇かな。 そしてあらゆる観客層を取り込もうと努力しているようね。 ギドラや泥人間が登場の理由はこれかも。 賑やかさと楽しさのある荒っぽい芝居だったわ。 *劇場サイト、 http://www.sengawa-gekijo.jp/_event/05657/image1L.jpg

■DANCE to the Future 2011 ダンス・トゥ・ザ・フューチャー

■振付:キミホ.ハルバート,石山雄三,上島雪夫 ■新国立劇場,2011.5.28-29 ■ 3作のどれも低調な感じですね。 でも「ナット・キング・コール組曲」は楽しめました。 この中劇場はどうしても集中できないもどかしさがあります。 なにもない空間どころか、雑念が漂っている空き地で上演しているようです。 最初の「ALMOND BLOSSOMS」はダンサーが舞台中央まで来るのに10M近くもあるから、観ていても繋がりが切れてリズムが狂ってしまいました。 舞台袖も廃れた街角のようで出番を待つダンサーの演出も台無しです。 2作目「QWERTY」 はデジタルメディアとの関係がみえませんでした。 情報処理をした映像や音楽を使用することでしょうか?キーボードの映像上をダンサーが動き回るなど30年前のイメージです。 映像に遊ばれていたようにもみえました。 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/20000356_dance.html

■月食のあと

■振付:平山素子 ■世田谷パブリックシアター,2011.5.27-29 ■照明がとても素的だった。 照明技術の進歩が舞台を変えていくのがよくわかる。 でも踊りとは無関係にみえたわ。 ダンサーが照明に対して受け身だったからよ。 特に宇宙線を変換する光や、制約の多い豆電球の衣装を着て踊る場面はね。 春に観た「 私たちは眠らない 」(東野祥子)は照明をなんとか身体に絡ませようとしていたけれど、素子はまだ傍観してるだけね。 でも次は電球ではなくて光を纏って踊ってちょうだい。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/theater_info/2011/05/after_the_lunar_eclipse.html