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■今晩は荒れ模様

■構成・演出・振付:笠井叡,出演:上村なおか,黒田育世,白河直子,寺田みさこ,森下真樹,山田せつ子,笠井叡 ■世田谷パブリックシアタ,2015.3.26-29 ■女性ダンサー6人が次々登場して舞うのだが比較ができて面白い。 黒田育世は素人ぽい踊りをする。 息は激しく苦しそうだ。 寺田みさこはダンスの踊る喜び観る喜びを教えてくれる。 二人で踊った上村なおかと森下真樹は台詞の喋りが身体と巧く繋がっていない。 白河直子は我が道を行く感じだ。 最後の山田せつ子は動きと形に思想を持っている。 音楽もいい。 笠井叡は最初と最後そして山田せつ子に途中から入る。 「戦争の時代は終わっている」とチラシにある。 「戦争」を前提で事に当たれば必ず戦争は近づいてくる。 日々の生活の中で、この前提を捨て去り乗り越えようと言っているようだ。 彼女たちの真摯なダンスを観ることができ愉快であった。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/theater_info/2015/03/post_391.html

■イオランタ  ■青ひげ公の城

□イオランタ ■作曲:P・チャイコフスキ,指揮:V・ゲルギエフ,演出:マリウシュ・トレリンスキ,出演:A・ネトレプコ,P・ペチャワ ■東劇,2015.3.28-4.3(MET,2015.2.14収録) ■G・オキーフを思い出すわね。 「 エフゲニ・ネオーギン 」はA・ワイエスだった。 チャイコフスキはアメリカ美術に馴染むのかしら? 舞台は時間がゆっくりと過ぎていくの。 歌唱が安定していたから尚更ね。 チャイコフスキ(?)の思想が詰まった作品にみえる。 「見るとはどういうことなのか?」。 視覚に依存しがちな現代を窘めているようね。 一元論的な自然観・生命観に始まり終幕に近づくほど宗教を感じるの。 でもロシア正教との繋がりはわからない。 宗教歌劇の一つだとおもう。 □青ひげ公の城 ■作曲:バルトーク・B,指揮:V・ゲルギエフ,演出:M・トレリンスキ,出演:N・ミカエル,M・ペトレンコ ■四角の枠で空間を仕切るのは「イオランタ」と同じ。 この形は舞台に集中できるの。 ユディットは金髪に緑の衣装。 化粧も含めるとT・レンピッカの作品から飛び出てきたようだわ。 心の影をもっと表現してもよかったけど。 緊張感ある詩的な舞台だった。 歌詞と歌唱と音楽が絶妙! オペラのように動きの少ないほうが似合うのかもしれない。 寺山修司作は観ているけどこのような感動は初めてよ。 でも映像の多用は折角の舞台を台無しにしていた。 序でに7扉の女たちはP・デルヴォーのシュールさを表現したら面白いとおもう。 そして東欧美術で固めるの。 解説でJ・ディドナートは二本立ての効果を言っていたけどそうは思わない。 光と闇がお互い打ち消し合ってしまったから。 *METライブビューイング2014シーズン作品 *作品、 https://www.shochiku.co.jp/met/program/s/2014-15/#program_08

■丹下左膳-百万両の夢枕-

■作:趙博,演出:金守珍,劇団:新宿梁山泊 ■東京芸術劇場・シアターウエスト,2015.3.15-29 ■この劇場はいつもレトロな雰囲気を感じさせてくれる。 イーストとは違う何かがある。 これに沿った作品しか観ないからかな? 席数が微妙に影響しているのかもしれない。 幕開はポツダム宣言受諾直前の御前会議のようだ。 スメロギから天皇制にも話が及ぶ。 そして場面は発電所事故が起こった現代の町へ・・。 そこでは事故に群がる利権屋と職を求める人々が蠢いている。 事故を隠蔽したい国家と利権が結びつき異様な世界が出現する。 この風景を描くことができる数少ない劇団である。 しかし20世紀と21世紀の決定的看板「ARBEIT MACHT FREI」「原子力エネルギの明るい未来・・」を二つも掲げられてしまうと逆に舞台をFREIに飛び回れない。 丹下左膳はこの隠蔽手段としての現地映画撮影に登場する俳優らしい。 しかも行商人の売る飴を舐めると夢で左膳と出会うことができる。 唐十郎的世界で楽しい。 最後に左膳は利権屋のボスを倒すのだが、前後を省略した流れにみえた。 「核々、死か慈か」という歌と踊りで幕が下りる。 趙博の政治世界を金守珍の演劇世界にソフトランディングさせたような舞台である。 二人の拮抗が随所にみられる。  梁山泊のいつもの面白さは見えない。 作者趙博の厳しさが出ているからだろう。 *劇団サイト、 http://www5a.biglobe.ne.jp/~s-ryo/works_tange.html

■トリプル・ビル

■出演:新国立劇場バレエ団 ■新国立劇場・中劇場,2015.3.14-22 ■3作品を上演。 気に入ったのは2作目の「ドゥエンデ」(振付:N・ドゥアト)。 激しい動きだが内面は柔らかさを感じる。 精神的豊かさを持っている。 心が満たされていくようだ。 ドゥアトの作品はハズレが少ない。 彼の特集を又やって欲しいな。 1作目は「テーマとヴァリエーション」(振付G・バランシン)。 26名のダンサーが登場する個所もある。 中劇場ではちょっと窮屈な感じがした。 前半は映画でいう「シーン」が短く連続した流れにはみえない。 この二つがバランシン的恍惚感がやってこなかった理由かもしれない。 音楽優先過ぎだろう。 後半はよかった。 3作目は「トロイ・ゲーム」(振付:R・ノース)。 ノースは初めてである。 古代レスリングを表現しているようだ。 マッチョな感じも出ている。 しかしスポーツを題材にしたダンスは面白くない。 両者は似た者同士だからかな? スポーツをなぞるだけで両者の核心に到達できない。 前回の「 ファスター 」も方法論が違っていたが同じである。 *NNTTバレエ2014シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/performance/150314_003721.html

■三人姉妹

■作:A・チェーホフ,演出:三浦基,劇団:地点 ■神奈川芸術劇場・中スタジオ,2015.3.9-22 ■体育館のような空間です。 天井から白樺が10本近くぶら下がっています。 そこに汚れた硝を嵌めた可動式の長い壁が一つ置いてある。  役者たちは絡みつきながら床を這いまわります。 セリフは高低を強調した喋り方ですが、思い立ったように顔を手で伏せ溜息のような声を発したりもします。 噂話や退屈なこと、死の恐怖そして父やモスクワの思い出が独白のように続きます。 断片的ですが心に食い込んできます。 楽隊の音楽が忘れた頃になると聞こえ哀愁を漂わせます。 曲名は知りませんがロシアも運んできます。 リズミカルな流れでは無い。 動きと科白が非同期になり沈黙も訪れます。 このとき現実に戻され役者の素顔が現れます。 存在感を保てるか否か? 上手い下手がよく見える舞台ですね。 台詞を喋る役者はその身体に宿る自分と対話しているようです。 じゃれ合い這いまわるのは「人は世界とすれ違う」ことから逃れられない身体表現だからでしょう。 他者を求める意味が蒸発してしまった姿です。 演出家の言っているリアリズム演劇なのでしょうか!? 観た後は脳味噌がリアルになったせいか「今日こそ、ざまぁ見ろ」と呟いてしまいました。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/SANNIN

■黒塚

■演出・美術:杉原邦生,監修:木ノ下裕一,劇団:木ノ下歌舞伎 ■こまばアゴラ劇場,2015.3.11-22 ■木材で組み合わせた舞台(約3mx8m)を挟み両側に客席がある。 巡礼山伏はハイキング衣装の現代人である。 現代口語で話す。 しかし老婆は違う。 見窄らしい着物姿で言葉遣いも古さと新しさが混ざっていて掴みどころが無い。 時間差のある山伏たちと老婆の遣り取りが面白い。 老婆は山伏たちに約束を破られ死体を見られてしまう。 ここで老婆が鬼婆になった由来が劇中劇として語られる。 老婆はむかし公家に乳母奉公していたが病気の姫に胎児の生き胆を与えるため妊婦を殺してしまう。 ・・妊婦は老婆の子であった! ズズッと深みにはまる場面である。 そして老婆は鬼婆になり踊り狂う。  由来話で幕が下りるかとみていたら鬼婆を仕留める続きがあった。 思い切って省いてしまったほうがスッキリするだろう。 終わりそうで終わらないダラダラした流れに感じた。 あと山伏たちと老婆の時代差をはっきりさせたほうが面白味が出るのではないか? 老婆の話し方に現代口語があり不思議世界が遠のいてしまった。 共時的表現の試みのようだが実験段階の舞台にみえた。 *劇場サイト、 http://www.komaba-agora.com/play/1109

■マノン・レスコー

■作:G・プッチーニ,指揮:P・G・モランディ,演出:G・デフロ,出演:S・ヴァッシレヴァ,G・ポルタ,D・イェニス,妻屋秀和,望月哲也 ■新国立劇場・オペラハウス,2015.3.9-21 ■ル・アーブルの港はNASA宇宙センターのロケット発射場のようね。 そして行き着いた先はニューオーリンズではなく火星! 火星での赤い岩と赤い夕日、そして青い闇の中でマノンとデ・グリュは息絶えてしまう・・。 ここまで行くと天晴と言うしかない。 でも白を基調とした無機質美術で音楽と歌詞に集中できたわよ。 衣装がとても映えていた。 独特な詩的舞台が出現したと言っていいかもね。 しかも悪者が一人も登場しないの。 ジェロントは丸みのある道化師だし、マノンもファム・ファタールのようには見えない。 兄も優しい。 歌唱もこれに沿っている。 東日本大震災との関係かな? 風景と共に抽象的情念が舞台を覆っているの。 21世紀のマノン・レスコーの姿かもしれない。 *NNTTオペラ2014シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/150309_003712.html

■砂の骨

■作・演出:中津留章仁,劇団:トラッシュマスターズ ■シアタートラム,2015.3.6-15 ■浮浪者が住み着いている公園が舞台です。  そ こに机や卓袱台を置いて外食企業の職場や社員アパートの一室に早変わりもします。 この職場で過労死や非正規社員強制解雇やパワハラなどが発生しますが、社員は浮浪者の支援を得て組合結成へと進めていきます。  また社員家族の東日本大震災への係わりや政治家誘拐事件も有ります。 なんとT・ピケティの本も登場します。 働く目的は? この問答が何度も台詞にのぼります。 労働条件の悪化の解決策として組合組織の強化を進める。 役員からパワハラを受けている旧店長もこれに期待します。 ここで幕になってしまった。 中途半端にみえるのは詰め込み過ぎなのでは?  「ピケティは過去・・、舞台は現在・・」と演出家は書いています。 この舞台は現在を詰め込み過ぎて身動きができなくなってしまったのです。  ユニオンも描けていない。 砂の落ちる場面が未来への扉でしょうか? ところで元俳優の浮浪者がカネのため自分の足を切断してしまう。 あの鋸の音が··、芝居ファンとして直視できない! 俳優業の厳しさが迫って来ました。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/theater_info/2015/03/post_390.html

■ホフマン物語

■作:J・オフェンバック,指揮:Y・アベル,演出:B・シャー,出演:V・グリゴーロ,H・ゲルツマーヴァ,T・パンプソン,K・リンジ ■東劇,2015.3.7-13(MET,2015.1.31収録) ■F・フェリーニにヒントを得たとチラシにあったけど、シャーのインタヴュではF・カフカに言及していたわね。 20世紀初頭を背景にフェリーニが戻って来たような素晴らしい舞台だった。 それとドイツ表現主義というかF・ラングの暗さも取り入れている感じかしら。  パリ・オペラ座と比較 するとMETに軍配かな。 演出家の差もあるけど最後は総合力かも。 今回は照明で周囲全体を少し暗くして舞台を引き締めていたのも特長ね。 それと歌詞がすんなり心に入り込む翻訳だった。 当初ゲルツマーヴァが4役を歌う予定だったみたい。 是非聞きたかったわ。 ステラとアントニアだけになってしまったの。 流石にアントニアは素敵だった。 オランピアの代役E・モーリーは歌唱も演技も楽しかったわよ。 ホフマン役のグリゴーロはどうかしら? 舞台をもう少し見ないとわからない。 色眼鏡をかけるとマーチェクみたい。 「メリー・ウィドウ」もそうだったけど、これもニューヨークの贅沢なリソースをふんだんに使っているようにみえた。 この流れも悪くはないけど観客が麻痺してしまいそう。 *MET ライブビューイング2014作品 *主催者サイト、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/s/2014-15/#program_07

■欲望という名の電車

■作:T・ウィリアムズ,演出:B・アンドリュース,出演:G・アンダーソン,B・フォスタ,V・カービ ■日本橋TOHOシネマズ,2015.3.6-11(イギリス,2014年作品) ■妹の安アパートの部屋は四方壁がありません。 観客がぐるっと取り囲んだその部屋は回り舞台で上演中は少しずつ動いています。 隠れるところがない。 全てを曝け出そうとしています。 面白さの原点を持っている作品です。 正気と狂気の境界線を描いているからです。 ブランチはこの線上を綱渡りしていけるか? 時代の要請はブランチを狂気にさせ医者に引き取らせるという終幕です。 綱から落ちてしまった。 はたして彼女は狂気的正気で線上を歩き切ったとみましたが、女として生きたい真摯な心はミッチに伝わったでしょうか。 映像ではよくわからない。 劇場で観たかったですね。 ニュオーリンズの蒸し暑さには浸かれなかったが記憶に残る一本となるに違いありません。 ところでブランチの着物はモネの「ラ・ジャポネーズ」を参考にしたのでしょうか? 紅葉と鶴の違いはありましたが赤色は彼女に似合っていました。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ2015年作品 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/81580/

■ダンス・アーカイヴinJAPAN2015

■出演:石井登,石井かほる,小林洋壱,片岡通人,木原浩太,西川箕乃助,佐藤一哉,堀登,酒井はな,佐々木大ほか ■新国立劇場・中劇場,2015.3.7-8 ■昨年6月第一弾の続きである。 今年はソロ4作品と群舞2作品を復元している。 幕間に片岡康子と森山開次のトークが入った。 群舞「機械は生きている」(石井獏1948年)は器械体操、ソロの「マスク」(石井獏1923年)は舞踏、「恐怖の踊り」(執行正俊1932年)は唐十郎の作品に登場するような衣装と動きと美術を想起する。 「釣り人」(檜健次1939年)はパントマイム、「スカラ座のまり使い」(江口隆哉1935年)は日本舞踊とパントマイムのようだ。 最後の群舞「体」(石井みどり1961年)はなんと「春の祭典」だった。 ダンスのようでダンスでない。 ダンスにみえるのは「恐怖の踊り」と「体」だけである。 20世紀前半の振付家やダンサーの思考錯誤が滲み出ている感じだ。 会場で販売していた「日本の現代舞踊のパイオニア」(監修片岡康子、税抜700円)を買ってきて、今このブログを書きながらパラパラ眺めている。 まだ読んでいないがタイトル副題は「創造の自由がもたらした革新性・・」とある。 なるほど「創造の自由」は今回の舞台を観て感じるところがあった。 体操・舞踏(ノイエタンツ)・日本舞踊・演劇・パントマイム等々何でも利用して前進しようとする自由の豊かさがあったことは確かだ。 *NNTTダンス2014シーズン作品 *劇場、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/150307_003726.html

■結びの庭

■作・演出:岩松了,出演:宮藤官九郎,麻生久美子,太賀,安藤玉恵,岩松了 ■本多劇場,2015.3.5-25 ■脚本家や演出家が二人も登場する。 肩書の境界が低くなっているのかな? 岩松了は少しニヤケ過ぎだが役者としてもなかなか味がある。  舞台は茶系統の部屋と緑の庭が交互に入れ替わる。 この風景色の違いが物語にも影響しているようだ。 あらすじを読まないで観たのでとても楽しめた。 後半の丸尾の結婚話で一挙に緊張してしまった。 5人が表面的だが結晶構造のように結び付いたからである。 ここから終幕まで一気通貫であった。 末次を殺す迄はオモシロイようでツマラナイ。 言葉の綾は楽しめたが結局瞳子が丸尾に「私の心は解かりっこない!」と現実に戻される台詞を言わせてしまう。 日常のカタルシスは得られるが非日常へ飛翔することは無い。 昼ドラ的?な作品だからこれで良いのかもしれない。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/60372

■幕が上がる

■原作平田オリザ,監督:本広克行,出演:ももいろクローバーZ ■TOHOシネマ,2015.2.28- ■「 解体されゆくアントニン・レーモンド・・ 」の続きですね。 同じく高校の部活を思い出しながら観てしまいました。 美術教師というのはどの時代でもストレンジャーですね。 その印象は今でも強く残っています。 ももクロは少し大人びた演技にみえました。 ストーリーが出来過ぎていたからでしょう。 でも青春映画のさっぱり感も持っている為でしょうか、観た後は元気が湧いてきました。 *作品サイト、 http://www.makuga-agaru.jp/

■ハムレット

■作:W・シェイクスピア,演出:宮城聰,劇団:SPAC ■静岡芸術劇場,2015.2.16-3.12 ■上演時間が110分。 でも主要場面間の繋がりが滑らかだったのでダイジェスト版のような感じはしなかった。 ハムレットの独白と狂気が明示的に分離され解説を聞いているようだったわ。 ハムレットの目的が言葉化され過ぎたのも一因ね。 周囲との笑いのある対話はグリコのオマケみたい。 そしてハムレットの存在感が抜きん出ていて他が霞んでしまっていた。 なんとか保ったのは敵対するクロディアスくらいかしら? 独白と狂気のハムレットと交通整理する叔父だけで成り立っている舞台ね。 終幕には沢山のチョコレートが天井から落ちてきてビックリ! 日本の敗戦を象徴しているみたい。 実は皆死んでしまった後に何故フォティンブラスが登場するのかということが今でも理解できないでいたの。 帰りに演出家の文章を読んだけどこのような解釈もあるんだ! でも疑問は解けない。 音楽は東南アジアを想像できて素敵だった。 衣装もね。 立てていた棺桶を横にするのは死の残像効果がある。 人形劇も御負ね。 仮面劇だけで十分。 *劇場サイト、 https://spac.or.jp/au2014-sp2015/hamlet_2014

■曾根崎心中

■原作:近松門左衛門,演出:レオニード・アニシモフ,劇団:東京ノーヴイ・レパートリ-シアタ- ■東京ノーヴィ・レパートリ-シアタ-,2015.2.25-3.1 ■ひょっとしたら役者はスーツ姿で登場するのでは? ・・時代や衣装は原作どおりだったのでちょっと残念。 この劇場は席が二列しかなくて横長である。 客席が舞台に張り付いているかのようだ。 この構造を役者も観客もとても意識する。 声の高低で距離の遠近を出したり舞台幅や照明で奥行や深みを表したりする。 くだけた近松門左衛門が登場して進行係を務める。 徳兵衛とお初が心中に向かって一直線に進んでいく。 脇の話は端折ったり人形劇で演じてしまう。 浄瑠璃を意識しているわけでもない。 心中ものはスピード感が大事なのだ。 これと違って大阪弁?の対話は風情があっていい。 時間がゆっくり進む。 この違った二つの時間が計算されていて心地よいリズムが舞台に現れる。 終幕の露天神も照明だけで感動に迫っている。 九平治とのやりとりに論理的矛盾があり感情を抜きにした抽象的表現の為か、二人に死ぬ理由が見えて来ないのは致し方ないのか? 舞台と客席だけではなく役者とも張り付いた空間は物語現場に一寸行ってきた感覚が残る。 *第25回下北沢演劇祭参加作品 *劇団、 http://tokyo-novyi.muse.weblife.me/japanese/pg554.html