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■悪人

■原作:吉田修一,演出:合津直枝,出演:中村蒼,美波 ■シアタートラム,2018.3.29-4.8 ■途中ウトウトしてしまったので感想が書き難い。 多分、誰かからの手紙(メールかも)を読む場面とその前後なの。 ここはクライマックスかしら? カーテンコールの時に肝心なところが無い(=覚えていない)舞台だと分かったからよ。 悪人が誰だか分からない。 それとも何も無い作品かしら? 原作は読んでいないし。 居眠りは二人の出会いや殺人がちょっとぬるかったせいもある。 でも地方生活の一端が上手に描かれていたと思う。 北九州?の方言もね。 と言うことで、ゴメン。 *主催サイト、 http://www.tvu.co.jp/product/stage2018/

■vox soil

■演出・構成・振付・出演:北村明子,ドラマトゥルク・音楽・出演:マヤンランバム・マンガンサナ,振付・出演:清家悠圭,西山友貴,川合ロン,多賀田フェレナ,チー・ラタナ,ルルク・アリ,鼓童:阿部好江,音楽ディレクタ-:横山裕章 ■せんがわ劇場,2018.3.28-30 ■ドラマトゥルクが写真家キム・ハクから音楽家マヤンランバム・マンガンサナに替わるとまた違った舞台になるわね。 歌唱や演奏がダンス・マイム・科白と融合し総合芸術としての舞台に一層磨きがかかったようにみえる。 それはアジア全域に広がり朝鮮芸能や日本の歌謡曲まで感じることができるの。 ダンスもユニークで地面との関係を思い出させてくれる。 そしてマイムと科白の音素発声が他者としてのダンサー同士をより密に結び付ける。 鍊肉工房やパパ・タラフマラと同じ方向を目指しているようにも思える。 それ以上に計算されているけど全てが有機的に振る舞っているようにみえる。 「Cross Transit」は舞台というジャンルを越えた何かを招き寄せている。 とても充実した時間に浸れたわよ。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/90358

■ハムレットマシーン

■作:ハイナー・ミュラー,構成・演出:真壁茂夫,出演:OM-2 ■日暮里サニーホール,2018.3.22-24 ■客席が囲む円形舞台の中央に幕を下ろしハムレットとオフィーリアが携帯で話し合うところから始まるの。 席の都合上オフィーリアしか見えない。 彼女はカメラで身体や口の中を撮りそれが幕に映る。 交互に古い「ハムレット」の映画断片も流す。 場面が移りドカベン風の役者が登場し赤い衣装に着替えオフィーリアを語りだす・・。 コーラを飲み菓子を食べ、そしてバットでテレビや冷蔵庫を壊していくの。 掃除機の空気で膨らませた大きな風船に入りオフィーリアらしき台詞を喋る・・。 プラカードを掲げたデモがあり天井からは沢山の役者の写真が降って来る来る。 そして終幕、オフィーリアらしき人物が登場し自身の体を傷つけながら倒れる・・。 ウーン、「ハムレットマシーン」はどの劇団が演じても寄せ付けてくれない作品ね。 「・・戯曲に忠実ではない、・・解釈ではない、・・読み方を提示しているのではない、・・のではない、 感情の集中度にフォーカスを当てた実践なのだ」(新野守広パンフレットより)。 日常を延長した過激な舞台だから醒めた暴力を感じる。 OM-2の舞台は過激の質と量は毎回違うけどいつ観ても同じような感想を持ってしまうわね。 過剰なシラケが襲ってくるの。 日常の裂け目を静かにこじ開けていく。 感動の喜びが得られないから近づきたくないのが本心よ。 *「 ハムレットマシーン」フェスティバル 連携作品 *劇団サイト、 http://om-2.com/works2013-/hamletmachine/ *「このブログを検索」語句は、 OM-2

■愛の妙薬

■作曲:G・ドニゼッティ,指揮:F・シャスラン,演出:C・リエヴィ,出演:ルクレツィア・ドレイ,サイミール・ピルグ,大沼徹,レナード・ジローラミ,吉原圭子,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.3.14-21 ■劇場に入ると緞帳の英文字柄がよく目立つ。 でも美術や衣装に原色を使った舞台はそれ以上だわ。 妙薬を飲むと世界がこのように見えるのかしら? 「トリスタンとイゾルデ」の本も悪くはない。 タイトル文字が目に付いてちょっと諄い感じだった。 文字は多くの意味を呼び寄せてしまうからよ。 そして歌手の鬘がカラフルだと本人の真の姿が見え難くなって歌唱に想いが乗らない。 歌手の顔や髪はなるべく素がみえるほうが良い。 出だしは細かいところが目についたけど段々と上り坂になっていった。 ベルコーレ軍曹もね。 二幕はたっぷりと歌唱を堪能できたわ。 特にアディーナとドゥルカマーラの掛け合いは楽しい。 直後の感情落差が「人知れぬ涙」を一層際立たせるの。 それに指揮者も結構な役者ね。 元気を貰えた舞台だった。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009643.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 ドニゼッティ

■椿姫

■演出:小野寺修二,出演:カンパニーデラシネラ ■世田谷パブリックシアター,2018.3.16-21 ■二本立てだったが「分身」は都合で観ることができなかった。 ダンス比重が小さくみえたのは台詞や演技が目立ったのでそう感じられたのかもしれない。 粗筋を知っていないと面白さは半減する。 演出家はよく小説を舞台に載せるが観客にそれを要求している。 挨拶文に「理性と本能が拮抗して動けず静止して・・、理性が負ける瞬間いきいきして・・」と書いてあったがマルグリットとアルマンの間にその動きを出したかったのかもしれない。 ダンサー人数が多いので相互の距離を開けて局所と全体の均衡を保った為か二人の間に拮抗の瞬間が見え難くなってしまった。 新人ダンサ-たちの新鮮な雰囲気はあった。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/20171207-46601derasinera.html

■罪と罰

■振鋳:麿赤兒,鋳態:大駱駝艦 ■新国立劇場・中劇場,2018.3.17-18 ■中劇場のだだっ広い空間を巧く使っていたわね。 後方の回転するコロスが前方のダンスと均衡を保ち続けていたからよ。 回転が静寂なリズムを醸し出していた。 幾何学的な赤壁の緊張感がとても良い。 運動会や学芸会の様相に陥りそうになるとこのリズムが軌道修正してくれるの。 その場で手足をバタバタさせるより、ストロークの深い日常の動きやスローな動きの方が存在感が出ていた。 広い空間に対抗するためにはこの方が有効なのかもしれないわね。 例えば・・、ゆっくりと歩き静止する(罪と罰を背負う?)ダンサー、豚や魚の仮面と風船を持って歩き止まるダンサー、遠方で何かを探して走り回るダンサー等々。 音楽はいつもの通りブッキラボウであまり良くない。 でもドイツ歌唱はいつもの通り舞踏に合っていた。 大駱駝艦の持っているユーモラスが「罪と罰」のようなタイトルとどう折り合いを付けるかは楽しみだったの。 タイトルを見た時は少し不安になったけど。 「怯えつつも果敢に彼岸にジャンプ」したことは認める。 楽しかったわよ。 *NNTTダンス2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/dance/performance/33_009656.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 大駱駝艦

■夏への扉

■原作:R・A・ハインライン,翻訳:福島正美,脚本:成井豊,真紫あずき,演出:成井豊,出演:キャラメルボックス ■サンシャイン劇場,2018.3.14-25 ■戯曲の読み合わせをしているような舞台である。 ト書きもちゃんと登場人物が喋る。 猫も喋る。 大道具小道具の移動はテキパキしている。 役者たちが事務処理作業をしているような演技にみえる。 しかも契約の話が頻発に上る。 会社の設立、公証人や弁護士の登場、保険会社との契約上の権利・義務の遂行など次から次へと出てくる。 台詞も動きも物語も全てが理論整然と進んでいく。 しかしどうも面白くない。 会社で仕事をしているようだからである。 もちろん芝居という仕事である。 同時に珍しい舞台表現だと感心しながら観ていた。 演出家が「あまりの感動を!・・」したのでこの作品は劇団員の必読書になっているらしい。 タイムマシーンや人工冬眠、ロボットなど登場するが60年前の作品なので今となっては欠点だらけだが20世紀戦後のアメリカらしい躍動感がある。 この作品に感動する人は「時をかける少女」と同じような興奮を持つのだろうか? それなら分かるが・・。 ともかく仕事を観て来たような観後感だった。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/90001

■ミヤギ能オセロー、夢幻の愛

■原作:W・シェイクスピア,謡曲台本:平川祐弘,演出:宮城聰,出演:SPAC ■静岡芸術劇場,2018.2.11-3.11 ■「オセロ」を夢幻能にした驚きの内容だった。 前場では女3人を引き連れた老婆らしき人物が僧と昔話を始める。 女の言葉は地謡が多くを担当するの。 ワキの僧と地謡が語り合う風景描写が素晴らしい。 能が得意な言動分離だからこの手法が自然にみえる。 女たちはそのまま囃子方にもなる。 役者の動き、地謡や演奏を含め場面展開に無駄がないわね。 囃子もグッと抑えて叙情豊かに響く。  中入りで男優たちが揃い現代語訳で物語を進めていく。 オセロやキャシオー、イアーゴは地謡がそのまま変身よ。 役者が役割を変えていく流れが面白い。 顔と着附が日本語で袴は英語の文字衣装がまた楽しい。 背景の瘤付ロープが照明に当たるとお経の文字列に見えてくる。 そして後場でデズデモーナの霊が登場しオセローとの愛を語る・・。 囃子も笛が入って高揚し、地謡はオノマトペのようにも聞こえてくる。 複雑だけどとても練れている構造だわ。 「オセロ」になぜ感動するのか? 「首を絞められるデズデモーナがその瞬間にこそ最もオセローに近づいていた。 この一瞬こそが人生で最も大切な時間となり・・」。 凝縮した愛と嫉妬の融合を演出家はこのように言っている。 そして恋愛の掟として「相手を<信じる>以外にない」と。 この言葉通りにオセロとデズデモーナが愛を超えたことを直観するから「オセロ」に感動するの。 それでもデズデモーナが霊としてこの世にやってくるのは何故なのか? 「デズデモーナよ成仏して」と言ってやりたい。 イアーゴのことはもう終わった。 「オセロ」は「オセロ」を超えられるか?がこの作品の課題かも。 でも凝り過ぎて「オセロ」のその先へ辿り着けたのかは疑問ね。 *劇場、 https://spac.or.jp/au2017-sp2018/othello_2017

■赤道の下のマクベス

■作・演出:鄭義信,池内博之,浅野雅博,尾上寛之ほか ■新国立劇場・小劇場,2018.3.6-25 ■1947年シンガポール・チャンギ刑務所に収容されたBC級戦犯死刑囚の話です。 先ずは死刑台が奥にデーンと聳え立つ異様な舞台が目に入る・・。  BC戦犯の中に朝鮮人がいるが日本統治時代や戦争責任は強く語られない。 それは朴南星パク・ナムソンがマクベスを演じることで議論に緩衝帯が作られるからです。 これは「 平昌冬季オリンピック開会式 」の梁正雄ヤン・ジョンウンにも言える。 劇場WEBのトークイベントで演出家鄭義信チョン・ウィシンは「この作品の韓国版は1947年と現在の同時進行にしていた」と言っている。 しかし現在を切り捨てた理由は語らない。 朴南星は台詞で「何故マクベスは王を殺したのか? 自分で破滅の道を選んだのだ!」と。 「マクベスではなくてオセロでもよかった」は演出家の苦渋?の冗談とも言えます。 そして両民族の親子・兄弟の家族観が似ていることもあり自ずと死と向き合う姿が同期し強調されていく。 死刑囚が登場する作品はいつ見ても考えさせられます。 黒田直次郎の「頭がスッキリしてウンコは快調だ! それでも死ななければならないのか!?」は生理的にスッキリした台詞です。  明るく振る舞うほどに今この時代の舞台の位置付けが見えて来ます。 *2018.3.9追記。 食事のビスケットを食べる場面で思い出してしまった。 シンガポールで英軍の捕虜になった伯父がイギリス兵から弁当を入手した時の話をです。 英軍の弁当は1個で2食分あり食後のデザート用に紙に包まれた煙草が2本づつ入っていたそうです。 それをみて伯父は日本の負けたのが分かると言っていた。 戦場で吸う食後の煙草の旨さは計り知れない。 そして前線兵士の食料を現地調達するくらい悲惨なものはありません。 戦況次第で現地人からの食料強奪へとエスカレートし遂には戦友の肉まで食うことになるからです。 日本軍の食料調達システムは前線を飢餓地獄に変えます。 舞台に戻って・・、ビスケットを食べる時は楽しそうでしたね。 これで絞首刑の衝撃が増しました。 *NNTTドラマ2017シーズン作品 *劇場、 http://www.nntt.jac.go.jp/play/performance/16_009660.html

■坂本龍一PERFORMANCE IN NEWYORK:async

■監督:スティーブン・ノムラ・シブル,出演:坂本龍一 ■恵比寿ガーデンシネマ,2018.1.27-(アーモリー,2017.4収録) ■パークアベニュー・アーモリーでのライブ記録である。 編集や音質が気になり作品を楽しむというより演奏を観るという感じだった。 昨年の「 設置音楽展 」の環境が良すぎたので今回が期待外れになってしまったのだろう。 はたして天井に映像が映し出されていた。 前作「 CODA 」はともかく監督S・N・シブルはライブに弱いらしい。 演奏+音楽+映像が一体化されていない。 やはり多次元作品は会場に出かけないと全体がみえない。 それでも坂本龍一が登場してからの最初のいっときは涙が止まらなかった。 過去に出会った映画作品それに纏わり付く多くの事を思い出してしまったからである。 断片音でも非同期でも映像を招き寄せる。 彼の作品は正に映像音楽と言える。 *作品サイト、 http://liveviewing.jp/contents/sakamotoasync/ *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 坂本龍一

■ホフマン物語

■作曲:ジャック・オッフェンバック,指揮:セバスティアン・ルラン,演出:フィリップ・アルロー,衣装:アンドレア・ウーマン,出演:ディミトリー・コルチャック,レナ・ベルキナ,安井陽子,砂川涼子,横山恵子,トマス・コニエチュニー他,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.2.28-3.10 ■新国でこの作品を観るのは初めてだから行く前から楽しみが膨らむわね。 そして幕が開き、いつもの無機質でカラフルな舞台美術は物語に合っていると直観できた。 一番に登場した議員リンドルのコニエチュニーが素晴らしい。 心臓まで届く声だわ。 悪魔メフィストの化身ね。 ホフマンとニクラウス役のコルチャックとベルキナも悪くないけど味が薄い。 二人は兄妹のように似すぎているから差異を出せたらもっと面白くなるはず。 サプライズはオランピアの安井陽子とアントニアの砂川涼子かしら。 特にアントニアの第3幕は最高。 アントニアの心の在りようが歌唱としてしっかり伝わってきた。 ダンスも素敵。 でも2幕オランピアと4幕ジュリエッタは合唱団員が動き過ぎて舞台に集中できない。 ホフマンと恋人の微妙な関係に入って行けない。 合唱団は立っているだけでも存在感は出るの。 寒色系から暖色系への舞台色の移行はとてもよかったど。 この作品は劇中劇のため夢のような人生の寂しさや喜びが感じられるかが大事。 今回は量の積み重ねでそれを獲得していた。 流石というかNNTTらしさがでていたわ。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *新国立劇場開場20周年記念公演 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009640.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 ホフマン物語

■シャンハイ・ムーン

■作:井上ひさし,演出:栗山民也,出演:野村萬斎,広末涼子,鷲尾真知子,土屋佑壱,山崎一,辻萬長 ■世田谷パブリックシアター,2018.2.18-3.11 ■1934年の上海、内山書店の2階が舞台です。 主人公は野村萬斎が演ずる魯迅。 実は魯迅を読んだことがない。 それも忘れかけていた魯迅が<急に出現!>した感じです。 ということで休み時間に急遽プログラムを購入して読み始める。 観ていて魯迅の好みや健康状態は分かりました。 彼の嫌いなものは医者、歯医者、3、4がなくて5が国民党。 好きなものは甘納豆、ジャム、クッキー、・・とにかく甘いものばかりです。 煙草は日に50本。 持病は虫歯を筆頭に不整脈、胃腸カタル・・。  治療のため主治医と歯医者が魯迅に麻酔をかけますが過去に出会った人々が彼の記憶に甦ってしまう。 記憶の人物と周囲の家族・友人を混同してしまう。 そのうち呂律も回らなくなり語句も誤ってしまう。 井上ひさしらしさが出ています。 しかし起こりそうで何も起こらない。 科白も間延びしている。 登場人物が説明ばかりしている。 <説明演劇>と言ってもいいくらいです。 その中で魯迅役野村萬斎は存在感がありますね。 彼の声は低くてもハッキリと耳に届く。 彼の動きや佇まいが一つの魯迅像を形成している。 周囲を見回すと魯迅をよく知っている観客が多いらしい。 比較ができて面白いはずです。 魯迅を知らない人はこの魯迅像で舞台をみていくことになる。 終幕、妻許広平の意見もあり魯迅は鎌倉へは行かず上海に留まる。 周囲がこの決定に従ったのは内山書店に出入りしている人々が中庸の精神を持っているからでしょう。 井上ひさしが言う「人間と人間の信頼」の基本と言っているものかもしれない。 魯迅を慕う国民党や日本人会の人々もいるようです。 しかし煮え切らない芝居です。 井上ひさしはこの作品で息抜きをしたのではないでしょうか? そして魯迅が<急に出現した>理由がわかりました。 いま立ち止まり魯迅を振り返る時期に入ったということでしょう。 *こまつ座&世田谷パブリックシアター共同制作 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201802shanghaimoon.html