2018年9月30日日曜日

■タウンホール事件

■演出:エリザベス.ルコンプト,劇団:ウースターグループ
■神奈川芸術劇場.大スタジオ,2018.9.29-10.1
■1971年NYタウンホールで開催された討論会「女性解放に関する対話」のドキュメンタリー映画「タウン・ブラッディ・ホール」(1979年作品)を基にした舞台である。 初演は2016年(?)。 この討論会は作家ノーマン・メイラー、ラディカルレズビアンのジル・ジョンストン、メイラーの友人である文芸評論家ダイアナ・トリリング、そしてメイラーが文学界へ迎い入れようとした作家ジャーメイン・グリアが出席した。
舞台は討論会壇上を模していて当時のタウンホール会場にいるようだ。 そして討論が再現されていく。 映画も映されるので同時に実人物の演技も見るようになる。 仕草も同じ場面がある。 映画からは会場の喧騒が伝わってくるが今この劇場は静かで奇妙な感じだ。 討論から離れて寸劇やノーマン・メイラーの「メイドストーン」(1970年作品)も映し出される。 彼の「女性解放」に対する保守性が感じられる。 変わった舞台だが構造の古臭さもみえる。
アフタートークがあったので席に残る。 出演は批評家内野儀、演出のエリザベス・ルコンプト、ジル・ジョンストンを演じたケイト・ヴァルク。 「完コピでトピカルでカオス的にできている」(内野)。 「いつもドキュメンタリーを考えている」(ルコンプト)。 観客からの質問「MeTooの広がりと関連があるのか?」で「この討論をどう捉えるかは観客である」(ルコンプト)。 ウースター・グループらしい。 ノーマン・メイラーに対しても立ち位置上の評価をしている。 二年前に「初期シェーカー聖歌」を観ているが、この劇団は過去に実在した素材に味付けをして再構成していく手法をとる。 NYの伝説的劇団と言われているがその片鱗を窺うことができた。
*劇場サイト、http://www.kaat.jp/d/TWG_TTHA

2018年9月29日土曜日

■イェルマ

■原作:フェデリコ.ガルシーア.ロルカ,演出:サイモン.ストーン,出演:ビリー.パイパー,ブレンダン.カウエル他
■東宝シネマズ日本橋,2018.9.28-10.4(ヤングヴィック劇場,2017.8.31収録)
■上演前のインタビュー映像で演出家と評論家の対談があったが珍紛漢紛でした。 そのはずでこの作品は現代の出産の葛藤を描いていたからです。 保守的な共同体で子宝に恵まれず主人公が悩む話だと思っていたら大違い(?)。
ヤングヴィック劇場内は客席を両端に分け中央舞台にガラス箱を組み立て役者はその中で演技をしているようです。 映画ではガラスを意識しないが、役者が寄り掛かったり継ぎ目の所に来るとガラス壁があったのだと思い出します。
イェルマ(彼女)と夫ジョンの対話は具体的で際どいセックスの話が多い。 この舞台の見所ではないでしょうか。 でも出産に繋げているので多くは嫌らしさがない。 生物的行為のため社会との繋がりが物理的にみえてしまうからでしょう。 排卵期や精液検査、体外受精など幾つもの言葉が物語に食い込んでいきます。 この激しい対話で作品がヒットしたと言ってもよい。 現に迫力がある。 現代社会の夫婦が置かれている厳しさが出ています。 作品が最優秀リバイバル賞をそしてビリー・パイパーが最優秀女優賞を取ったのも頷けます。 
でもイェルマは何故これほどまでに子供が欲しいのかが分からない。 出産へつながる具体的行為がとても強いだけです。 彼女の母性本能も見えない。 現代社会での彼女を動かす大きな力とは何か? でもこのような舞台はやはり日本では観ることができない。 家族結婚夫婦出産仕事など基本観が違う為とも言えます。 考えさせられました。
この作品は「受胎」「幻滅」「休戦」「現実」「欺き」「堕落」「帰宅」の7章から成り立っている。 章やシーケンスの間に日時の経過や状況を補足する語彙が入るがどれも厳しい言葉です。 でも画面一杯にデカデカと表示された文章を読むと脳内が停止して物語の流れが途切れてしまう。 章名はともかくデカデカ文章は不要でしょう。
*NTLナショナル・シアター・ライヴ作品
*作品サイト、https://www.ntlive.jp/yerma

2018年9月25日火曜日

■野がも

■作:H.イプセン,翻訳:毛利三彌,演出:広田淳一,劇団:アマヤドリ
■花まる学習会王子小劇場,2018.9.20-10.1
■原作は読んでいないし、初めにヴェルレ家一同揃って登場するから人物相関図が配られると素早く馴染めて助かるわね。
前半はヴェルレ家とエクダル家の父子関係の際立つ差異が面白い。 前者はキリキリ感一杯で後者はユルユル感が漂っている。 途中休息をとり、後半初めで一気に盛り上がるの。 ヴェルレ家の息子グレーゲルスの言う「理想の要求(追求?)」「真実の結婚」が実践されたからよ。 これでエクダル家の息子ヤルマールと妻ギーナそして娘ヘドヴィクの幸せな家庭が粉々に破壊されてしまった。
でも盛り上がりは直ぐに下降線を辿る。 ヤルマールの「理想の追求」を目指す頑な態度と錯乱状態が続いたから。 妻ギーナの手の内を返すような態度を含め夫婦二人の演技は難易度を熟す必要がある。 グレーゲルスとヤルマールの怒鳴るような発声はもう少し抑えてもいい。 でも終幕の娘ヘドヴィクの自殺で再び盛り上がる。 面白い舞台だけど作品として気にかかる箇所が一杯。 ということでアフタートークを聞くことにしたの。
トークは翻訳の毛利三彌と演出の広田淳一の対談で盛り上がったわよ。 「原作に忠実な舞台は珍しい」(毛利)と褒める?と「時代が一周したのかもしれない」(広田)と返答。 台詞に行きつくまでの口語表現などで広田は苦労したみたい。 上演3時間以内を心掛けたので削除箇所もあるとのこと。 「グレーゲルスがヘドヴィクを妹だと気が付いたのはいつ?」の話題に移る。 これは数か所あったので見ていても(感覚的に)分かった。 でも「最初に知った場面はこの舞台では省かれている。 それは・・」(毛利)。 「!なーるほど」(広田)。 そう、これは喜劇作品という話もでる。 野鴨が今回は頻繁に飛び回っていたけど、「この野鴨は何の象徴か?」。 ヘドヴィクだけは聖なる対象として見ていたのは分かるけど・・、他の人物はどう思っていたのか掴めなかった。  そして「作品の主人公は誰か?」。 「グレーゲルスと言う人が多い」(毛利)。 ヤルマールはグレーゲルスの思想を追随しているだけだから? グレーゲルスの言っている全てを否定することはできない。 医者レリングを登場させて作者は中庸に持っていこうとしたのかしら? 「かもめ」(チェーホフ)とこの作品の関連を広田は話したけれど聞き洩らしてしまった。 台詞に「さまよえるオランダ人」があったのも謎だわ。 ・・などなど、色々思い出しながら二人の話を楽しく聞くことができた。 イプセン時代の男女関係が現代でも当てはまるのが芝居の面白いところね。 でも理想や真実を見つけるのが難しい今からみると時代差も感じる。
*劇団サイト、http://amayadori.co.jp/archives/10805
*「このブログを検索」語句は、 イプセン

2018年9月21日金曜日

■ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス

■監督:ルーシー.ウォーカー,出演:オマーラ.ポルトゥオンド,マヌエル.ミラバール,バルバリート.トーレス,イブライム.フェレール,ルベーン.ゴンザレス他
■アップリンク,2018.8.25-(イギリス,2017年作品)
■「あれから18年経った」今回の作品がどのような内容になるのか想像できなかった。 18年前、出演者は既に爺婆ジジババだったはず・・。
W・ヴェンダース監督の前回作品(1999年)は編集が良かった。 出演者の公演の様子・日常生活・生い立ち・音楽との関わりをインタビュー形式で進め、一人ひとり積み重ねてBVSCを素晴らしい姿にまとめていました。
なんと今回も前回フィルムを新編集して上手に作られている。 前半は一人ひとりにフォーカスを当てながら1999年を起点にして19世紀末葉まで遡っていく。 それは奴隷制度に始まり、スペインからの独立戦争、苦しいバティスタ政権時代、そしてカストロが登場するキューバ革命が実写と共に語られる。 これにアフリカから引き継いだキューバ音楽を重ねていきます。 メンバー達の若いころの活動映像は興味が尽きません。
後半は1999年以降に話が移っていく。 でも老化は待ってくれない。 多くのメンバーの葬儀が映し出される。 残ったメンバーで2015年米国ホワイトハウス公演、若いメンバーを加えて2016年アディオス・ツアーのハバマ公演で幕が下りる。
カストロも革命にはキューバ音楽が欠かせないという認識を持っていた。 この幾つもの時代を受け継いだBVSCの演奏がキューバ音楽史としても迫ってきました。 キューバ国民と歴史を強く意識させる作品です。 でも一番はメンバーたちの最後まで前向きな行動力に元気づけられたことですね。
*作品サイト、http://gaga.ne.jp/buenavista-adios/
*「このブログを検索」語句は、 ヴェンダース

2018年9月18日火曜日

■バレエ・ロレーヌ

■以下の3作品を上演
□「DEVOTED」(2015年作),振付:セシリア.ベンゴレア,フランソワ.シェニョー,出演:ロレーヌ.バレエ団
□「STEPTEXT」(1985年作),振付:W.フォーサイス,出演:ロレーヌ.バレエ団
□「SOUNDDANCE」(1973年作),振付:M.カニングハム,出演:ロレーヌ.バレエ団
■神奈川芸術劇場.ホール,2018.9.16-17
■久しぶりに至福の時を過ごせた。 作品ごとに独特な陶酔感が得られる為だろう。
「DEVOTED」はポワントとミニマル音楽が絡まり合いながら流れていく。 マネキンが踊りだしたようだ。 舞台はエスプリを感じさせる。 十人前後のダンサーたちは技能がまちまちにみえる。 フィリップ・グラスを選んだことによりカニングハムに向かう円環の物語になっている公演だ。
「STEPTEXT」はフォーサイス初期の作品らしいがバイオリンの粘りでダンサーの感情が抑えられている。 今度は彫刻が踊りだしたと言える。 男3人女一人の構成はとても安定している。 男二人だと緊張感が出すぎてしまうからだ。 三作品の中で一番気に入る。
「SOUNDDANCE」は音楽を含め古さがみえる。 ダンサーの動きや振付はカニングハムの特徴を持っていて懐かしい。 どこか人間的優しさが漂っているのは逆説的だが面白い。 それは20世紀が持っていた優しさだとおもう。
DanceDanceDance@YOKOHAMA2018参加作品
*劇場サイト、http://www.kaat.jp/d/lorraine

2018年9月17日月曜日

■ROMEO&JULIETS ロメオとジュリエットたち

■原作:W.シェイクスピア,音楽:S.プロコフィエフ,演出振付:金森穣,衣装:YUIMA.NAKAZATO,美術:須長檀,田根剛,出演:武石守正,井関佐和子ほか,劇団:Noism1,SPAC
■彩の国さいたま芸術劇場.大ホール,2018.9.14-16
■舞台美術が素晴らしい。 金色の紐カーテンが背景三面を取り囲んで床には幾つもの半透明ガラスの移動衝立が動き回り、そして舞台状況を後方スクリーンで映し出しているの。 金属的な華麗さが漂うけれど無彩色に近い為かサッパリしている。 衣装はギリシャ風ね。
先ずはプロコフィエフの音楽でロメジュリの世界へ一っ飛びよ。 でもロメオが車椅子で登場した途端これはハムレットだと思った。 ロメオの声が重たかったから。 科白も硬さがある。 ジュリエットは5人のダンサーが演じるけど科白が無い。 うーん、ジュリエットもオフィーリアに見えてきた。 最初は戸惑ったけど外は「ロメジュリ」内は「ハムレット」を演じていると考えれば面白いかも。
SPACの俳優が何人も登ったけどダンスとの融合は苦にならない。 台詞の一部が文字として写し出されてもね。 食事の二場面も日常を意識させない。 後半、金森穣が医師ロレンス役でサングラスをかけて踊る場面は「博士の異常な愛情」のストレインジラブ博士を思い出してしまったわ。 振付も博士に近づけている。 そしてロザライン役の井関佐和子は既にアンドロイドね。
しっかりした構造と様式で感動が昇華結晶していくような舞台だった。 「舞踊家と俳優が渾然一体となった舞踊とも演劇とも名状し難い舞台・・」とあるように劇的舞踊としては一つの到達点に来たように思える。 鈴木忠志のアイデアが多分に見られ俳優はSPACと言うよりSCOTに近い。 演出ノート「恋という病」「自己分裂」「医療信仰」「監視社会」「死生観」の五つは深読みをしないと見落としてしまう。 いつもと違った感覚が残る舞台だった。 当分のあいだ思い出しては場面を反復することになるわね。
*劇場サイト、http://www.saf.or.jp/arthall/stages/detail/5158

2018年9月11日火曜日

■ショコラ -君がいて,僕がいる-

■監督:ロシュディ・ゼム,出演:ジェームス・ティエレ,オマール・シー他
■(フランス,2015年作品)
■手元にあるチラシには「20世紀初頭、フランス初の黒人芸人ショコラと彼を支えた相方フテット。 ・・激動の半生を描く実話」とある。 二人はオーギュスト(愚かな道化)とホワイトクラウン(白い道化)、日本ではボケとツッコミと訳すのかしら?
二人は、出会った「デルヴォー座」を離れパリ名門サーカス「ヌーヴォー・シルク」に行き人気芸人となるがショコラは人種差別に目覚めていくの。 でも当時の壁は厚く彼はギャンブルに溺れていく。 それでもフテットを含め周囲の人々が彼を温かく見守っていく「愛と涙に満ちた」物語に仕立ててある。 植民地政策や人種問題を背景に留めておくのはテーマの混乱を防ぐ為ね。
ところでフテットの顔や演技を見ていてC・チャップリンを思い出したけど当たり。 彼はチャップリンの実孫らしい。 終幕ショコラが年老いて亡くなろうとしているサーカス小屋を訪ねてきたフテットの表情はチャップリンそのものだった。
二人の演技場面は沢山あるけど単純なドタバタ喜劇にみえる。 クレジット途中にリュミエール兄弟撮影の二人の実演が数秒映し出されたけれど、当時の笑いや悲しみを内に込めているのが分かる。 それを振り払う子供に通ずる動きと表現がいいわね。 「アントワーヌ劇場」でのショコラ主演「オセロ」を劇中劇のように挿入したのは事実かどうかは別にして舞台ファンとして嬉しい限りだわ。
*映画comサイト、https://eiga.com/movie/84870/
*追記。 ブログのデザインを9月初旬に変更したの分かった? 「Blogger」を利用しているけど更新があり古い機能が使えなくなってしまったからよ。 新しいスケルトンを使って再構築したけど微妙なデザインが作れない。 クリック(タップ)操作が増えてしまった。 コードは修正したくないし・・。 これでいくしかないわね。

2018年9月10日月曜日

■シラノ・ド・ベルジュラック

■作:エドモン・ロスタン,台本:マキノノゾミ,鈴木哲也,演出:鈴木裕美,出演:吉田鋼太郎,黒木瞳,大野拓朗ほか
■NHK・Eテレ,2018.9.8(日生劇場,2018.5収録)
■吉田鋼太郎の挨拶が最初に入る。 テレビ用編集だが彼の意気込みを感じる。 蜷川幸雄の舞台は近年ご無沙汰だったので常連俳優である彼のことはよく知らない。
・・物語の風景描写が続いていくが1幕終わりから舞台に集中できるようになる。 シラノがロクサーヌに宛てた韻文形式の恋文を科白として声に出す構造が面白い。 それが操り人形の糸のごとくロクサーヌとクリスチャンを動かしていく。 韻文とクリスチャンの無垢な性格の対比が舞台を楽しくしている。 恋愛における理論と実践の落差からだろう。 しかしロクサーヌはこの理論を受け止めるだけである。 彼女の立場は理解できるが影が薄くなるのはやむを得ない。 戦場に食料を届けるなど作者も苦労している。
そして終幕、修道院の庭にシラノが登場するのも頂けない。 彼はこの前にサッパリ退場するのが筋だとおもう。 ロクサーヌだけの修道院なら彼女が語る総括がとても生きてくるはずだ。
この作品は過去に鈴木忠志演出を観て甚く感動した記憶がある。 今回の鈴木裕美演出もまったく違う面白さがあった。 吉田鋼太郎の熱演もとてもいい。 彼は即興ができる役者である。 微細な振動を内包しているので瞬間的な判断を迷わない。
*NHKサイト、http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2018-09-08&ch=31&eid=18437
*「このブログを検索」語句は、 鈴木裕美

2018年9月3日月曜日

■FIELD フィールド

■振付:北尾亘,出演:Baobab
■吉祥寺シアター,2018.9.1-4
■スポーツを意識した舞台で始まります。 走る場面もありウォーミングアップをするアスリートを思い出させてくれる。 振付は静止を含め小刻で形も動きも平凡にみえます。
前半途中、ダンサーたちが靴を脱ぎ素足になった場面で雰囲気がガラリと変わりましたね。 <ダンサー>に変身したのを感じました。 しかも、農民ダンサーに見える! 機械化以前の農民を思い出してしまった。 17名のダンサーは20代前半ですが多くが稲作文化のDNAを持っているらしい。 「FIELD」には田畑の意味もある。 主宰者北尾亘が「あいさつ」で書いている。 「ダンサーとアスリートは何が違う?」と。 ダンサーたちを見た率直な答えとしてスニーカーを脱ぐか履くかでしょう。 
途中マイムが数場面入りますが面白くない。 でも天井の竹棒?や棒を繋いだ台でドラムを叩くのは流れに溶け込んでいました。 後半も靴を履いたり脱いだりしながら進むが、疲れが出始めてから見応えがでてきた。 慣れや疲労によりスニーカーの持つ鋭さが取れたのでしょう。 アスリートからストリートに戻った。
流れに統一感は有りますが印象が薄い。 意味が入る場面ではそれが伝わってこない、振付の展開が弱く奥行きが出ていない、などが考えられます。 元気なアスリートダンサーから農民ダンサーそしてストリートダンサーへの変遷は面白かった。
*Baobab第11回公演
*劇場サイト、http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2018/06/baobab.html

2018年9月2日日曜日

■出口なし

■作:J・P・サルトル,演出:小川絵梨子,出演:大竹しのぶ,多部未華子,段田安則,本多遼
■新国立劇場・小劇場,2018.8.25-9.24
■大竹しのぶの生舞台は初めてである。 ジャンヌ・モローに似た立ち振る舞いで興味を持ち一度は観たいと思いながら今日に至ってしまった。 彼女が出演した作品や演出に関心が向かわなかったこともある。 今回はサルトルだから期待とともに不安もある。
照明が灯ると背景の赤いビロード風カーテンが先ずは目に染まる。 三つのソファーを包む空間も異様だが圧迫感が天井へ逃げている。 「出口がある」と言っているようにみえる。 作品をポジティブに取ろうとする演出だろう。
ガルサンにもそれが乗り移っている。 エステルも「地獄なんて知らない」雰囲気だ。 二人の声が科白を楽観的にしているのかもしれない。 反してイネスが中途半端だ。 迷っているようにみえる。 二人と比して存在感も薄い。 不安が当たってしまった。
ガルサンの科白「他人は地獄だ」が日本的な関係の意味合いに聞こえてしまった。 3人の台詞が声になると日本化されてしまい世界へ出られない。 この意味で「出口なし」といえる。 サルトルではなく「さるとる」のような舞台だった。 それは現代日本を暗示している。
ところで舞台下手の胸像付近では役者の声が響いて聞こえた。 たぶんマイクのせいだろう(?)。 この作品に合わないし小劇場では生身の声を聞きたい。 ジャンヌ・モローとの再会は又にしよう。
*「出口なし」(寂光根隅的父演出,2017年)
*「出口なし」(白井晃演出,2014年)
*シスカンパニーサイト、http://www.siscompany.com/deguchi/gai.htm
*「このブログを検索」語句は、 サルトル