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■2017年舞台ベスト10

□ 銀髪   演出:広田淳一,劇団:アマヤドリ □ よさこい節   演出:岩田達宗,指揮:田中祐子 □ 炎、アンサンディ   演出:上村聡史,出演:麻実れい,栗田桃子ほか □ ルチア   演出:ジャン=ルイ.グリンダ,指揮:ジャンパオロ.ビザンティ □ ジークフリート   演出:ゲッツ.フリードリヒ,指揮:飯守泰次郎 □ タイタスアンドロニカス   演出:木村龍之介,劇団:カクシンハン □ ミカド   演出:中村敬一,指揮:園田隆一郎 □ わたしが悲しくないのはあなたが遠いから   演出:柴幸男,劇団:ままごと □ 女中たち   演出:こしばきこう,劇団:風蝕異人街 □ サド侯爵夫人(第二幕)   演出:鈴木忠志,劇団:SCOT *並びは上演日順。 選出範囲は当ブログに書かれた作品。 映画と美術は除く。 * 「2016年舞台ベスト10」

■Ryuichi Sakamoto:CODA

■監督:スティーブン・ノムラ・シブル,出演:坂本龍一 ■角川シネマ新宿,2017.12.23-(アメリカ・日本,2017年作品) ■今年最後の映画だがこのような素晴らしい作品で終わらせることができて嬉しい。 2012年から5年間をかけて坂本龍一を取材したドキュメンタリーである。 より過去のフィルムも入っていて厚みが出ている。 東日本大震災で調律が狂ったピアノを前にして彼は不自然な音だと語り始め、原発のこと・映画音楽のこと・演奏公演のことを振り返り考えながら、壊れたピアノを再び弾いてこれは自然に戻った音だったのだと感慨を新たにして幕が下りる。 ところで先日「100分de名著」(NHK総合)の「ソラリス」を見たのだが、以前から違和感を持っていたアンドレイ・タルコフスキー版の疑問が解決した。 それは終幕に主人公クリスが故郷で父親と再開する場面である。 作品が持つ大事なものをここで壊してしまった。 読んでいなかったので知らなかったがこの部分は原作に無いことを知る。 スタニスワフ・レムのタルコフスキー批判も理解できた。 話を戻すが坂本龍一はタルコフスキー版「ソラリス」は音楽映画だと言っている。 これは新鮮に感じた。 バッハのコラール前奏曲のことしか頭に無かったからである。 水や空気、草木からの音は映像の振動数と共鳴しコラールと溶け合い不思議な感動を呼び起こしているのを思い出させてくれた。 この流れは今春に美術館で出会った「async」に繋がっている*1。 「ソラリス」の次はベルナルド・ベルトルッチだろう。 「シェルタリング・スカイ」の砂漠の音や話題が出なかった「暗殺のオペラ」の飛んでくる夏虫の音を思い出しながらみていたが、ここは音ではなく音楽としてまとめている。 それも苦労した裏話ばかりで楽しい。 坂本龍一は闘病生活を続けている。 自身の肉体が崩れていくのをみて、自然と一体である生物として「調律」の不自然さを噛み締めているようにも思えた。 *1、 「坂本龍一,設置音楽展」(ワタリウム美術館,2017年) *作品サイト、 http://ryuichisakamoto-coda.com/

■ダンシング・ベートーヴェン

■監督:アランチャ・アギーレ,振付:モーリス・ベジャール,音楽:ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン,指揮:ズービン・メータ,出演:ジル・ロマン,モーリス・ベジャール舞踊団,東京バレエ団,演奏:イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団 ■新宿武蔵野館,2017.12.23-(スイス・スペイン,2016年作品) ■年末に第九を聴けるので一石二鳥ですね。 でも舞台作成過程のドキュメンタリーの為そうはいかない。 生舞台は観ていません。 動きの構造は円形のようです。 ダンサーは円を描くがローザンヌ地方の宗教的な形らしい。 また合唱付きのため声と踊るのはとても楽しいとダンサー達は言っている。 楽器ではなく歌唱と舞踊の出会いはどこかで宗教性を帯びるはずです。 円形もそれを助勢している。 同時に「人類は皆兄弟」の思想が貫かれているのを感じます。 スタッフやキャストにもこれが浸透している。 気持ちがいいですね。 でも、映画は冬のローザンヌ・春の東京・夏のローザンヌ・秋の東京と進んでいくがどれも同じ内容に見えてしまう。 風景は変わるが練習の進捗が明確でないし時間が前後して作品が均一化されてしまっている。 編集が悪いのかもしれない。 監督(映画)の責任でしょう。 モーリス・ベジャール自身が踊る1950年代の映像を観た時は震えが来たことを覚えています。 それは脳味噌を飛び出し脊髄にまで広がる強烈な感動でした。 「彼は瞬間を生きるダンサーだった」と(誰かが)語っていましたがその通りだと思う。 ところでジル・ロマンが登場したときはジョージ・ハリスンに、特に顎鬚が伸びているところは、似ていますね、話し方もです。 彼の娘マリア・ロマンがインタヴュアーで登場しますが上手いとは言えない。 三浦雅士にインタヴューする時でも円環はともかく面白い話を引き出せていない。 まっ、しょうがないでしょう。 一瞬映ったパンフレットのベートーヴェンの似顔絵が三浦雅士にそっくりで笑ってしまいました。 *作品サイト、 http://synca.jp/db/

■新世紀、パリ・オペラ座

■監督:ジャン=ステファヌ・ブロン,出演:ステファン・リスナー,パンジャマン・ミルピエ,オレリー・デュポン,フィリップ・ジョルダン他 ■Bunkamura・ルシネマ,2017.12.9-(フランス,2017年作品) ■オペラ座ドキュメンタリーの中でフランス観客動員数NO.1の作品と聞いたので早速行ってきたわよ。 ・・なるほど、動員数の多い理由が分った! 過去のドキュメンタリーはバレエ中心、しかも主要ダンサーに焦点を当てていたので観客が偏っていたのかもしれない。 今回はオペラにも多くを割いているし経営者や従業員の姿も煩雑に登場させている。 人員削減やストライキ光景、チケット料金議論、子供プロジェクトなどオペラ座の運営を含めた全体像を描き出しているのが当たりの理由ね。 そして三面記事も集めているから普段オペラ座に行かない人も楽しむことができた。 本物の雄牛の登場やミルピエの電撃退任、公演直前のキャスト降板などをね。 今までのドキュメンタリーとは一味違うからフランス人以外でも満足できたわよ。 特に舞台本番の袖中でのキャストと職員のやり取りは面白い。 だけど公演や事件をあやふやな終わり方にしていて締まりの無いのが欠点かもね。 垂れ流しのようなストーリーだった。 21世紀オペラ座の不安を表しているのかしら? *作品サイト、 http://gaga.ne.jp/parisopera/

■北国の春  ■サド侯爵夫人(第二幕)

■吉祥寺シアター,2017.12.15-24 ■北国の春 ■原作:鹿沢信夫,演出:鈴木忠志,出演:SCOT ■ひきこもりの話のようだ。 ネットワーク時代のなか情報過多で疲労してしまうとどこにも逃げらない。 主人公大介もこれに飲み込まれ頭の中では妄想の宴会が続いている。 大介の身体に他者が侵入してくるのだ。 そして大介の両親がチンドン屋で登場し「北国の春」を演奏し歌う。 しかし息子を助けることは最早できない。 両親と4人の脳内他者が登場し大介と緊張感溢れる遣り取りをするが、母子と家族関係・仕事に結婚問題など切実なテーマが次々と浮かび漂って集中できない。 「北国の春」も大介に届いていない。 役者たちの力強い様式を持つ動きと声が印象に残った。 *2018.10.20追記. この作品は「家庭の医学」を基にしているとある雑誌に書いてあった。 雑誌名は忘れたが管孝行の記事だったはず(?)。 調べたら1979年12月に新宿ディスコ・フルハウスでこれを観ている。 とても感動したことが甦ってきた。 主人公十川念(?)が頭を抱えてのたうち回る場面も眼に浮かぶ。 1980年に入ると池袋アトリエの作品は駄作が多い。 利賀山房に力を入れた為かもしれない。 山房公演「宴の夜」の連続4作品は観ていないが「家庭の医学」は東京公演での1970年代最後の傑作だとおもう。 ■サド侯爵夫人(第二幕) ■作:三島由紀夫,演出:鈴木忠志,出演:SCOT ■「北国の春」終演後90分の休息を挟んでの上演である。 科白がビシビシと脳味噌を叩く。 声は役者の口からではなく全身から発せられ観客の耳だけではなく全身に伝わってくる。 それにしても変わった構造を持つ台詞だ。 姉ルネと妹アンヌの対話で始まり、その母モントルイユ夫人を入れての鼎話、次にサン・フォン伯爵夫人の登場と激白、妹と伯爵夫人の退場、そして母と姉ルネとの厳しい遣り取りで幕が閉じる。 母とルネが後半ハイテンションになってしまった。 ここはもう少し抑えてもよい。 久しぶりに劇的感動を味わった。 観後は舞台の疑問など色々なことを考えながら帰る。 配られた資料を今読んで少し解決した。 「舞台上の対話は日常の再現でも模倣でもない・・」「それは思考に集中した人間持続によってしか生み出されない内面の言葉であり・・、論理的対話であり・・、論理的討論であ

■ペール・ギュント

■原作:ヘンリック・イプセン,演出:ヤン・ジョンウン,演奏:国広和毅,関根真理,出演:浦井健治,趣里,浅野雅博,キム・デジン他 ■世田谷パブリックシアター,2017.12.6-24 ■主人公ペール・ギュントは自分探しの旅に出る。 そこで多くのことを経験するが心が満たされぬまま年老いてしまい故郷に戻ることになる。 そして昔の恋人の腕の中で安らかに眠りにつく物語です。 美術は地味ですが衣装や小道具はカラフルで群衆群舞の多い賑やかな舞台です。 七場のトロール王国では「マッドマックス怒りのデスロード」、十三場は「猿の惑星聖戦記」をチラッと思い出してしまった。 演出家ヤン・ジョンウンは平昌冬季オリンピックも担当しているらしい。 この作品は幾つものショートストーリーで出来ているのでオリンピック開会式と構造が似ている。 演出家は同じノリで作ったのかもしれない。 来年のオリンピックが楽しみですね。 でも前半の舞台は戸惑いました。 場面ごとの話が積みあがっていかない。 ペールの経験が彼の成長に繋がっていくのがみえない。 彼の喜怒哀楽がぶっきらぼうで表面的な為です。 しかし後半に入り俄然調子が出て来た。 場面ごとの物語に深みが出てきたからです。 歳を取り経験だけを増やす虚しさがペールの科白や動作に加わったこともある。 終幕、恋人ソールヴェイが昔の母と暮らした家のミニチュアを持って登場します。 ペールが旅に出る前から自分探しの答えはそこにあったということでしょうか。 日本語とハングルの混在は違和感がありません。 そして演奏は歌唱も混ぜて物語を面白く持ち上げていた。 全体にキリスト教の影響が大きいですね。 科白に聖書の言葉が多い。 舞台美術や衣装にもそれがみえます。 韓国の宗教事情が現れているのでしょう。 席を見回すと9割は女性でしたが役者贔屓客のようです。 *日韓文化交流企画世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201712peergynt.html

■あしたはどっちだ、寺山修司

■監督:相原英雄,出演:寺山修司,九條今日子ほか ■シアター・イメージフォーラム,2017.12.2-(2017年作品) ■寺山修司の市街劇「ノック」に彼の生い立ちを重ねたドキュメンタリーなの。 親戚や同級生の話は驚くことばかりね。 子供時代の日常生活を彼は世間から隠したかった。 舞台のように語りは騙りに近づいてく。 彼は「市街劇を上演したい」と最後まで拘るの。 市街劇「犬」は市民生活の中へ過激に食い込んでいく内容にみえる。 家族関係を解放する為にね。 経験からこの解放が全てを解放すると確信していたはずよ。 しかし愛憎渦巻く母との関係はどうしようもない。 家族写真を破っては再び繋ぎ合わせるしかない。 「ノック」担当者は当時を振り返る。 「ノック終了間際に彼は不可解な中止を宣言してしまった」。 そして親族の一人も語る。 「作品の終わり方はいつも同じだ。 役者の一人ひとりに議論をさせるように台詞を喋らせて幕が下りる」。 寺山修司は家族の破壊と再構築を目指した。 でもどのように再構築すればよいのか結論が出なかったの。 その迷いが作品の終わり方にいつも現れている。 あしたはどっちだ!?、と。 * 「寺山修司展「ノック」」(ワタリウム美術館,2013年) *作品サイト、 http://www.planet-e.co.jp/ashitahadocchida/

■「三月の5日間」リクリエーション

■作・演出:岡田利規,出演:チェルフィッチュ ■神奈川芸術劇場・大スタジオ,2017.12.1-20 ■この作品を観た2011年の時は不思議な感動が迫って来たことを覚えています*1。 そして今日、渋谷のラブホテルの話を聞いた途端に内容も思い出しました。 戯曲変更の有無は分かりませんが役者の話し方や動きが前回と似ています。 でも不思議な感動がやって来ない。 ホテルでのセックスとイラク戦争とデモがそれぞれ切り離されてしまったのが理由のようです。 有機的に繋がらない。 観客側にも問題があるようですね。 イラク戦争が時間的に遠くへ行ってしまったからでしょう。 同時に役者の発音や動き、照明や美術を含めた舞台の調和がとても大事な作品にみえます。 一瞬シラケル場面が何度かあったが演出家も言っているように役者のパワーを十分に楽しめました。 大きな箱のようなものが天井からぶら下がっていて圧迫感がありました。 作者の意図は理解できますが、役者のリズムにブレーキをかけているようで良し悪しですね。 *1、 「三月の5日間」(KAAT,2011年) *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/sangatsu_cre

■ソフィア・コッポラの椿姫

■原作:アレクサンドル・デュマ・フェス,作曲:ジョゼッペ・ヴェルディ,指揮:ヤデル・ビニャミーニ,演出:ソフィア・コッポラ,舞台美術:ネイサン・グローリー,衣装:ヴァレンティノ・ガラヴァーニ,出演:フランチェスカ・ドット,アントニオ・ポーリ,ロベルト・フロンターリ ■Bunkamura・ルシネマ,2017.11.25-12.8(ローマ歌劇場,2016.5.24収録) ■ヴィオレッタ役フランチェスカの健康的な椿姫が舞台を湿らせない。 再生を信じて聖母マリアの立ち姿で死んでいく終幕までブレなかった。 アルフレッド役アントニオは緊張していたけど二幕からは平常心に戻ったようね。 そして父親ジョルジョの存在が人体骨格のように物語を支えていた。 一幕パーティ場面はコッポラ「ゴッドファーザー」風の色彩と影のある照明から華麗な重みがずっしりと感じられる。 娘ソフィアと「バットマン」ネイサンのサクセスコラボね。 それにヴァレンティノの衣装が凄みを利かせている。 言うことなし!  二幕は開放的な窓ガラスが印象的ね。 オペラは空を見せることが大事なの。 雲が移ろい陽の光りがゆっくりと傾いていくのはオペラに合う。 歌唱や演奏をより噛み締めることができるからよ。 後半、パーティの夜空で花火が咲くとは嬉しい。 そして空が白み始める夜明けの三幕は昇天しようとするヴィオレッタが天を見上げ立ち竦む形しか考えられない。 素晴らしい風景のうつり変わりだった。 字幕が柔らかく練られていて舞台を邪魔しなかったのは感動した理由の一つに掲げてもいいわね。 字幕を凝視するようなら失敗よ。 それとダンサーの衣装を周囲より明るくすれば踊りが一層映えたのに、少し残念ね。 *劇場サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/cinema/past/?y=2017 *「このブログを検索」コピペ語句、 ヴェルディ

■ヘッダ・ガーブレル

■作:ヘンリック・イプセン,演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ,出演:ルース・ウィルソン,レイフ・スポール ■TOHOシネマズ六本木ヒルズ,2017.12.1-7(NT,2017年収録) ■舞台美術がとてもいい。 白壁でほとんど何もない立方空間、壊れたようなピアノ、遮光カーテンから漏れる光、壁に埋め込まれたピストル、ヘッダが投げ捨てた花の散る床、焚火のような暖炉で燃えるアイレルトの原稿、・・。 ヘッダの心模様一つ一つが写像表現されている。 この作品もそうだが背景を現代にすることが多い。 インタビューで演出家は「言葉の裏の意味を探らない」、ヘッダ役ルース・ウィルソンは「エネルギーを内側に溜めない」と言っていたが、それを見越して現代社会はヘッダやテスマンの性格や生き方を分散させてしまったようだ。 でも乾いた孤独感が出ていてメロドラマ一歩手前で留まっている面白さがある。 イプセンを乾燥機にかけたような観後感だ。 そして暖炉の火と共に照明の色合い、ヘッダの衣装や化粧・髪型からバルテュスの室内画の女性たちを連想してしまう。 ところでテスマンが焼蕎麦?を食べる場面がある。 箸の使い方が鈍いので口に持っていく量加減ができていない。 食事はいつも気になる。 下手な食べ方は現実に引き戻される。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/86635/

■ばらの騎士

■台本:H・V・ホフマンスタール,作曲:R・シュトラウス,指揮:U・シルマー,演出:ジョナサン・ミラー,出演:リカルダ・メルベート,ユルゲン・リン,ステファニー・アタナソフ ■新国立劇場・オペラパレス,2017.11.30-12.9 ■よく観る作品だけど飽きない。 複雑な花びらを持つ薔薇のような楽曲は他オペラと違って何とも言えない感情に浸ることができるの。 特に一幕、元帥夫人の人生観にシックリ溶け込んでいく。 指揮者シルマーの演奏も良かったしメルベードは十分に応えている。 そして20世紀前半のドイツ映画の華やかな場面も思い出させてくれる。 二幕、三幕は喜劇が前面に出てしまうけど気にならない。 元帥夫人とオックス男爵は当時のドイツ語圏上流社会での表裏の関係で根っこは同じよ。 イタリア圏貴族のオクタヴィアンとファーニナルと対になっているのも舞台雰囲気で分かる。 ゾフィーは未だどこにも属さない。 ハプスブルク帝国の複雑さかもね。 演出も美術も前回2015年と同じだけど今回のほうが練れていた。 でもオックス男爵がちょっと慣れ過ぎよ。 もう少し抑えてもいい。 舞台美術はとても気に入っているの。 今年のオペラの取を飾るのに相応しい舞台だった。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009637.html

■管理人

■作:ハロルド・ピンター,翻訳:徐賀世子,演出:森新太郎,出演:溝端淳平,忍成修吾,温水洋一 ■シアタートラム,2017.11.26-12.17 ■粗筋も読まないで行くとドキドキする。 7月に観た「怒りをこめてふり返れ」(新国立劇場)と同じ遠近ある舞台だから奥窓に立つ兄アストンが大男にみえる。 少し勾配があるから役者は大変かもね。 次々にやってくる謎は深まっていかない。 アストンは統合失調症だから、多分・・。 作品がつくられた20世紀途中は精神疾患と文学は蜜月の関係だった。 でも21世紀のいま疾病世界は科学の下に晒され謎は遠のいてしまったの。 ガラクタを処分できないのもゴミ屋敷や強迫性障害のことが脳裏に浮かんでしまう。 老人デーヴィスだけが本物の人間にみえる。 弟ミックは既にアンドロイドかもしれない。 室内装飾を語る派手だけど表面的な知識、手足の仕草、目の据わり具合からね。 兄アストンもアンドロイド化しようとしている。 小走りに動き回る姿をみると手遅れだと分かる。 アンドロイドは人間が作り人間に近づいていくものだと思っていたけどそれは違う。 人間がアンドロイドに近づいていくのよ。 未来、ヒトはアンドロイドになる! ハロルド・ピンターはそれを無意識に知っていた。 精神疾患が先ずはその入口だと気付いたの。 先日観た「 誰もいない国 」のハーストとスプーナーの認知症的行動も同じはずよ。 三人の役者はなかなかネ。 老人デーヴィスのホームレスはホンモノだわ。 粘り強く意見を言うところは英国仕込み。 そして演出家はピンターの核心にまた一歩近づいた。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/201711kanrinin.html