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■この世の名残り夜も名残り-杉本博司が挑む「曾根崎心中」オリジナル-

■出演:杉本博司 ■(日本,2012年作品) ■2011年8月公演「杉本文楽木偶坊入情曾根崎心中付り観音廻り」の記録映画。 オリジナルに近い台本を使うことや演出や舞台構造が現代文楽と違うことから関係者の苦労話を聞ける面白さがあった。 幾つか問題点を掲げると・・ 1.近松は七五調が少ないので原本通りだと場が持たない。 2.舞台で縦の動きをどのように出せばよいのか? 3.下駄を履かないし手摺を使わないので人形が立っているのか座っているのか分からない。 「観音廻り」を取り入れ鳥居や菩薩像も設置したので、観音信仰とそれに続く浄土信仰を強調するストーリーになりそう。 人形の一人遣いも復活させる。 演出家杉本博司は写真家だけあって照明や映像にも凝っているようね。 この舞台を観ていないのが残念。 *公演情報、 http://sugimoto-bunraku.com/

■ノ・ソリチュード(私たちの孤独)

■振付:J・ニオシュ、出演:S・プリュヌネック、A・メイヤ ■KAAT・大スタジオ、2015.9.26-27 ■ http://www.kaat.jp/d/jn ■ダンサーとギター奏者の二人舞台。 ダンサーの手のひら、足の甲、腰の左右の計6個所を鉄線で繋ぎ滑車の反対に重りを付けて空中を舞う。 分割された重りは50個くらいぶら下がっている。 「浮遊し、飛翔し、舞う」と書いてあったので何が起こるのか緊張する。 しかし何時まで経ってもぶら下がっているだけである。 身動きが殆んど出来ない。 これが孤独の表現なのか? 医学や医療との関連でもあるのか? この装置は一度自分で操作をしないとどういうものか理解できない。 難しいようにも易しいようにもみえる。 見ていても装置と身体の関係がまとめられない。 このような古い装置を使うヨーロッパに戸惑う。

■ボリショイ・バビロン-華麗なるバレエの裏舞台-

■監督:N・リード ■Bunkamura・ルシネマ,2015.9.19- ■2013年、ボリショイ・バレエ団芸術監督S・フィーリンが顔に硫酸をかけられたテレビニュースから始まるの。 このような事件が何故起きるのか? バレーダンサーの寿命は短い。 だから舞台に立てなくなることをダンサーは人一倍恐れているの。  監督はダンサーが納得する配役を提示できるのか? トラブル発生の下地はここにありそうね。 起きてしまったからには組織の改革が必要ということになる。 でも赴任した新総裁V・ウーリンはダンサーたちの前で芸術監督フィーリンをこき下ろし、配役を申請制にする案を提出するの。 新総裁も強引ね。 ソビエトの悪しき習慣が残っているのも問題かもね。 先ずは改革の方向性、次に評価制度をきちっと公開する必要がある。 でもこの映画のリード監督はボリショイ当局といっしょに改革が必要と叫んでいるだけなの。 そのように見えてしまう編集をしている。 結局ニューヨーク公演成功のニュースを流して終わってしまった。 メドヴェージェフ首相がボリショイは秘密兵器だと言っていたから核心部分は出せないのかな? ゴシップ記事として見れば面白い作品だとおもう。 ダンサーへのインタビューは良かったわ。 *劇場サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/cinema/past/?y=2015

■舞踊奇想曲モナカ

■振付:山田うん ■KAAT・大スタジオ,2015.9.17-20 ■15名前後のダンサーが登場する。 振付ごとに数グループに分かれてマスゲームのような構成を取る。 しかも舞台狭しと走り回る。 全員が膝あてをしてスポーツをするような衣装だから尚更である。 振付は粗く手足をバタバタさせているだけだ。 ある時は盆踊りを、またある時は千年前の宗教の祈りの場を、そして数千年前の原始人の踊りをも連想する。 始原の姿への振付なのか? 音楽も美術もどこか古臭い。 20世紀前半に戻ったような舞台印象である。 チラシの振付家についてを読むと、「器械体操を学び・・、学校や福祉と連携した・・」とあるので少し納得した。 マスゲームダンスと言ってよい。 *劇場サイト、 https://www.kaat.jp/d/yamadaun

■夜への長い旅路

■作:E・オニール,演出:熊林弘高,出演:麻実れい,田中圭,満島真之介,益岡徹 ■シアタートラム,2015.9.7-23 ■麻実れいの喋り方は特徴がありますね。 声が小さくても届くからです。 湿り気が無く乾いているからでしょう。 最初は家族関係がよく分からず椅子の痛さを感じました。 この劇場の椅子は背もたれが垂直のため圧迫感がある。 メアリの口から夫ジェイムズが俳優だったことを知ります。 彼女が麻薬患者ではないか?とうすうす感じながら前半が終ってしまう。 後半はエドモンドの難産で母がモルヒネ中毒になったことがわかります。 そして兄ジュニアのエドモンドを見る目、ジェイムズの役者の話、そしてメアリが心の奥から、それぞれの言葉を絞り出して幕が下ります。 境界をさまよう家族をリアルに描くには難しい時代ですね。 特にこの作品は酒・麻薬に浸かり過ぎている。 現代からみるとジェイムズの人々はプラスチック家族です。 帰ってから早速作者オニールの経歴を調べてみました。 今でも舞台が成立するのは作者の血肉がプラスチックから滲み出て来るからだと分かりました。 * CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/62552

■無頼茫々

■作・演出:詩森ろば,劇団:風琴工房 ■ザスズナリ,2015.9.12-20 ■主人公堂海栄吾が日之出新聞記者の職を得て上京する新橋駅から舞台は始まります。 早々米騒動に遭遇する堂海は社会問題を批判的に捉えながら新聞とは何かを論じていく。 そして1918年白虹事件が起こる。 この事件で大阪朝日新聞は「不偏不党」を掲げました。 「これは権力への追随である」とチラシに載っていたが主人公の言葉でもある。 はたして日之出新聞も紛糾してしまい記者たちはそれぞれの道を歩んでいくというストーリーです。 結婚式場面を終幕に持ってきたのは主題を逸らしてしまったようにみえます。 新郎新婦の付き合いは物語の付け足しだったこと、式場に主人公が不在なことでもわかります。 「不偏不党」を否定した事が有耶無耶になってしまった。 オピニオンを強調するジャーナリズムとどのように向き合っていけばいいのか? 現代は堂海栄吾の描いた時代に見えますが権力批判への過程は複雑化しているようです。 主人公を現代に甦らせたいですね。 新聞社付小説家が重要な言葉の説明をしたり、踊りながら事務室机の一部を切り取って卓袱台に変え和室に早変わりするなど場面切り替えは面白かった。 *作品サイト、 http://www.windyharp.org/burai/

■國語元年

■作:井上ひさし,演出:栗山民也,劇団:こまつ座 ■紀伊國屋サザンシアター,2015.9.1-23 ■「小学校唱歌集」が時々歌われるので長閑な気分になります。 「全国の話ことばを統一」を仕事とする明治時代の文部省役人南郷清之輔が主人公です。 方言がこれほど問題にされていたとは知りませんでした。 南郷家の清之輔は長州、妻が薩摩、そして女中、車夫、書生、居候がそれぞれ地方のお国訛りで喋る。 話している意味は掴めないが雰囲気でわかるから楽しい。 言葉がテーマですからメタ井上作品と言ってもいいでしょう。 この為ストーリーも凝りに凝っているのではないのか?と思いきや直球しか投げて来ない。 曲球は創造言語「文明開化語」だけでしたね。 言葉と苦闘する清之輔がそのまま作者の姿に繋がっています。 でも国語と国家の関係は問題提起だけで終わってしまった。 「軍隊言葉の統一」がこの目的だったので筋の調整がやり難かったのでしょう。 井上作品の持っている毒が効いていないように見えました。 *劇場サイト、 https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/20150618130000.html

■GERMINALジェルミナル

■演出:H・ゴエルジェ,A・ドゥホォール,出演:J=B・ドラノワ,H・ゴエルジェ,D・ロベール,B・セティヤネ ■KAAT・大スタジオ,2015.9.11-13 ■とても変わった舞台だった。 上手くまとめられないけど・・ 1.初めにコミュニケーションを文字、声、歌唱の流れとして提示するの。 2.並行して文字表示や声表現と自己・他者の関係を繋げてから、科白言葉を分類し舞台世界の分節化をおこなう。 3.最後に科白を時間軸にダイアグラム化し過去と未来を確認した後、このグラフでストーリーを反復して幕が閉じる・・。 という流れかしら。 舞台から言語へ広がり全体像が掴み切れなかったけど終幕の科白の反復で作品としてまとまったとおもう。 歌唱や楽器を程よく使ったパフォーマンスで硬さを感じさせない。 日本語字幕の扱い方も完璧ではないけど練られていたわ。 床をハンマで叩き壊す場面はリアルというより現実とは何かを突きつけられてしまった。 劇場そのものを壊す感じで舞台美術としてはちょっと衝撃的ね。 言語系パフォーマンスで身体的解放感はないけど久しぶりに考えさせられる舞台だったわ。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/germinal

■宝島

■演出:P・フィンドレ、出演:P・フェラン、A・ダヴィル ■TOHO六本木、2015.9.11-16 ■ http://www.ntlive.jp/index.html ■舞台が進んで・・、実は「宝島」がまったく記憶に残っていないことを知った。 ジョン・シルバーの名前を聞いた途端、唐十郎を筆頭に日本の演出家がゾロゾロ浮かんでしまったのだからどうしようもない。 ジム・ホーキンズ少年が主人公であり語り手である。 宿屋に怪しげな訪問者がやって来るドキドキ感ある幕開きは面白かったが、前半は語りが主導権を握り物語を表面だけで進めてしまった。 後半は冒険劇とはおもえないダラダラした流れである。 美術はもはや過剰といってよい。 どうもスカッとしない。 インタビューで演出家?がジョンとジムの父子関係や物語の青年期について喋っていたが芝居が面白くなければ効果も半減する。 字幕に誤りが多いのも気になった。

■ミズトイノリ-water angel-

■振付・出演:勅使川原三郎,出演:佐東利穂子,鰐川枝里,カンタン・ロジェ ■神奈川芸術劇場・中スタジオ,2015.9.5-10 ■こんなにも空間をすいすい泳げるのかしら、勅使川原三郎は?  地球の重心とぴったり一直線に繋がっているのが感じられる。 この安定感が運動と静止を分離させない。 動いていて動いていない、止まっていて止まっていないようにみえてくる。 これで微妙な形=振付がよくみえる。 空間に溶け込んでいくようだわ。  3人のダンサー達は落ち着きの無い動きだったけど、ストーリーとしての水の波紋を表現していたのかしら? 全身で集中して観たので上演時間70分は長い。 50分でもいいかもよ。 照明があたっていない暗い場所での動きはよくわからなかった。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/karas2015

■虹とマーブル

■作・演出:倉持裕,出演:小出恵介,黒島結菜,木村了 ■世田谷パブリックシアタ,2015.8.22-9.6 ■戦後すこし経ってからの時代設定らしい。 貿易商売をするチンピラモドキ達の登場で幕が開く。 後半に入りある事件を素材にしていたことが分かる。 ロッキード事件である。 主人公鯨井が実業家小佐野賢治にみえる。 殺人で血をみるのは二度ほどあったが裏側社会はさっぱりした表現に描いている。 人間関係もドロドロしたところが少ない。 すべてが淡泊に仕上がっている。 鯨井の突然の死は衝撃だがこの淡泊さで感情を揺り動かすところまでいかない。 ロッキード事件を思い出しながら観てしまったので集中力が弱まったのかもしれない。 題名は面白い。 芝居の象徴である階段にかけているのだろう。 役者達は舞台慣れしているせいか違和感が無い。 高校生蘭も生真面目な新鮮さがある。 物語が滑らかに感じる。 こういう舞台をエンタメと言うらしいが、広い観客層を取り込む独特な表現方式を持っているようにみえた。 *作品サイト、 http://mo-plays.com/nijimarble/

■紙の花たち

■作・演出:中村匡克,劇団:スポンジ ■「劇」小劇場,2015.9.2-6 ■小豆島の古びた旅館が舞台。 真面に暮らしている女主の元にAV女優の姉が戻ってきて一悶着おこします。 人生のどこかでボタンを掛け違えてしまうことはあるが、社会はこの掛け違えを御破算にさせてくれない。 息苦しい日常を異様な雰囲気で表現していきます。 時々劇的に盛り上がる。 急に役者を紹介したり激しく歌い踊りだしたりします。 日常世界の割れ目を意識する舞台です。 しかし姉が途中からまじめになり舞台は活気がなくなります。 人間の弱さが出たのでしょう。 そして妹が姉の乱れた生活を羨ましいと言いだし姉は妹のまともな人生を羨み幕が下りる。 これで尖がっていた芝居がまるくなってしまった。 どっちへ転ぶか難しい芝居ですね。 異様世界から戻らず吹っ飛んでしまうのも捨てがたいのですが。 *CoRichサイト、 https://stage.corich.jp/stage/67280