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■この島でうまれたひと

■演出・振付:黒沢美香 ■シアタートラム,2015.8.28-30 ■「WAVE」「6:30AM」「この島でうまれたひと」の三作品を上演。 前2作は1985年が初演、「この島・・」は新作である。  独舞「この島・・」は彼女の日記を観ているようだ。 しかも音楽が殆んど無い。 音楽の無いダンスはダンサーの生の姿を曝け出す。 舞台は彼女の私的時間と空間が流れ形作られていく。 チラシを読むとミニマルの話が多い。 しかしそれを感じさせない。 彼女はミニマルを自分なりに消化してしまったのだろう。 むしろ舞踏や日舞を連想してしまう。 そしてシアタートラムの欠点である凸型舞台が気になってしまった。 「6:30AM」の6人のダンサーはこの凸型を意識しているのが感じられたからである。 これで集中できない。 「この島・・」では満州族の辮髪のような髪型で踊るのだが、彼女は何回も髪に手を当てるので鬘が落ちてしまうのではないかとハラハラしながら見ていた。 不安がらせる振付はカラダに良くない。 30年の距離をほとんど感じさせない3作であった。 彼女の身体に浸み込んだミニマルが時間を意識させなかったのかもしれない。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/20150714-2625.html

■バートルビーズ

■作・演出:坂手洋二,劇団:燐光群 ■ザスズナリ,2015.8.24-9.9 ■ロックバンドの話だと思ったら大間違いよ。 主人公は「・・そうしないほうがよいのです」が口癖なの。 福島県の病院、ウォール街の法律事務所、学校、・・主人公は至る所に出現する。 やんわりと先の科白を発して仕事などを拒否するから周囲の人たちは大変ね。 ひっそりと暮らしていくのかと見ていたけど違うの。 「原子力明るい未来のエネルギー」の看板撤去を阻止するなどの行動に出る。 H・メルヴィルの小説を題材にした作品。 主人公のこの科白は破壊的な性格を持つもの、個人の意志を越えたもの、絶対的な拒否を含んでいると話題になっていたようね。 バイタル・フィーリング(生きる意志)が感じられない主人公の科白に強い世界志向が含まれているらしい。 弱い表現と強い意味、この矛盾が世界へ働きかける時どのような行動をして一致させればよいのか? 主人公は精神病患者や郵便局配達不能便が何であるかを知っているようね。 これを現代の政治や社会問題に応用させていく。 でも終幕へ繋がる過程がコンガラカッてよくわからなかった。 強弱あるリズムをベースに台詞を分散させたり複数物語を同時表現していて舞台完成度が高かったように思う。 舞台と客席の間の壁から病院事務長の顔がニョッキリ現れたり、原子力PR看板に見立てて主人公がよじ登るのもドキッとする面白さがあったわ。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/67074

■マリア・カラスの真実  ■マリア・カラス最後の恋  ■永遠のマリア・カラス

□マリア・カラスの真実 ■監督:F・コーリ(2007年制作) ■初めて見たカラスは、オナシスが彼女の手にキスするのをメネギーニが不安そうに見つめている写真なの。 でもこの写真が全てを物語っていたということね。 彼女は何回か変身しているが殆どが肉体改造なの。 子供時代からの劣等感から来る完璧主義の結果よ。 愛に苦しんだのは気性の激しさもあるけどこの完璧さも影響している。 「ノルマ」や「椿姫」を好んだのも愛の犠牲が濃いからかもしれない。 ベルカントの美学を語っていたが美的より劇的が似合う。 面白いドキュメンターだった。 *映画COMサイト、 http://eiga.com/movie/54425/ □マリア・カラス最後の恋 ■監督:G・カタピータ,出演:L・ラニエリ,G・ダルモン,A・ズッキ(2005年制作) *映画COMサイト、 http://eiga.com/movie/53266/ □永遠のマリア・カラス ■監督:F・ゼフィレッリ,出演:F・アルダン(2002年制作) *映画COMサイト、 http://eiga.com/movie/51940/ ■作品としてはどちらもイマイチだわ。 前者は「マリア・カラスの真実」を元に物語化したような内容よ。 でも作成日はこちらが古い。 後者は「カルメン」を彼女の口パクで上演する内容なの。 ゼフィレッリの遊び心が一杯ね。

■コーカサスの白墨の輪

■作:B・ブレヒト,演出:江原早哉香,出演:東京演劇集団風 ■レパートリーシアターKAZE,2015.8.22-30 ■生みの母と育ての母の子供を取り合う話は知っていましたが作品を観るのは初めてです。 進行役が登場し人物の紹介や状況を説明していきます。 しかも歌唱で表現することが多い。 舞台に厚みを出していました。 役者と観客の間には親密さも漂っています。 前半は育ての母の子供への献身が続きます。 しかし丁寧に描いている割には母子の愛情が積み重なっていかない。 喜怒哀楽よりその行為や関係そのものを優先している感じがします。 生みの母とその周辺の人々は等身大の人形です。 人形を通すと舞台を客観的に見つめられるからでしょう。 途中から浄瑠璃で使うような小さな人形も登場します。 背のない子供なら構いませんが二種類の人形を使い分ける理由がわかりません。 また進行役以外の歌唱もありますが取って付けた感が否めません。 どちらも中途半端です。 後半は裁判ですが前半とはリズムが違います。 こんなにも話が飛ぶとは知りませんでした。 二親の子供の引っ張り合いの舞台装置は凝っていますが淡々としています。 チラシに「・・育ての母グルシェと俄裁判官アツダクの二人の話が最後の白墨の輪で出会う・・」とありますが必然性は感じられません。 偶然を束ねたようなストーリーですね。 これで事務的な感じも強くしたのでしょう。 進行役がいなければ舞台は分解してしまったのではないでしょうか? *劇団サイト、 http://www.kaze-net.org/repertory/rep_kaukasische

■彼らの敵

■作・演出:瀬戸山美咲,劇団:ミナモザ ■こまばアゴラ劇場,2015.7.25-8.34 ■パキスタンで誘惑された大学生が帰国後パパラッチに追われる。 ・・彼もいつしかパパラッチのカメラマンになるが女性ライターに窘められパパラッチを辞めようとする話である。 誘惑事件の週刊誌記事を巡って関係者が集まる場面で「事実は見方により人それぞれ違ってくる」ような台詞で終わってしまうのは勿体ない。 「警鐘を鳴らす」背後にある正義感の胡散臭さだけが残ってしまった。 スポーツ選手の写真を前に女性ライターがカメラマンの心の移り変わりを非難するのも同じである。 仕事で正義の仮面を被ってしまい方向を誤ることはよくある。 言葉を展開しないで幕が下りてしまった作品にみえる。 ジャーナリズムが対象だし対話場面ではあと数セリフの言葉を積み上げてもよいとおもうが? 挑発的な題名である。 「同じ正義」を持たないと敵になるのだろう。 敵や味方は流動性を持ち変化していくのが健康的だが近頃はガチガチに固め過ぎている。 カメラマンがこれをどう捉えようとしているのかよくわからなかった。 *劇場、 http://www.komaba-agora.com/play/1671