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■半神

■原作:萩尾望都,演出:野田秀樹,出演:明洞芸術劇場 ■東京芸術劇場・ブレイハウス,2014.10.24-31 ■入場時に通訳用イヤホンが配られました。 この作品は舞台を観るのが初めてなので、「 小指の想い出 」の二の舞いになるのでは? 不安が過りました。 やはり最初は同時通訳で入っていけません。 しかしスピードを少し落としたリズムのため途中で舞台を捕まえることができました。  主人公の結合双生児は肉体や自我そして他者などから来る根本問題を抱えていることがみえてきます。 祖父から孫までの家系で繋がる人間世界は儒教的にみても韓国の役者に受け入れられたのではないでしょうか? エジプト、ギリシャなどの神話や旧約聖書をごちゃ混ぜにしたもう一つのベンゼン世界も漫画的ですが巧く人間世界と繋がっています。 そして役者たちはとても鍛えられている感じですね。 同時通訳のため言葉遊びが不発でしたが、作品の面白さを十分に出し切っていました。 終幕の霧笛場面はジーンときてしまいました。 カーテンコールでは客席がスタンディングオベーションでしたよ。 野田秀樹も舞台にあがりましたね。 ほぼ総立ちは「 オセロ 」以来です。 *劇場サイト、 http://www.geigeki.jp/performance/theater063/

■ジキル&ハイド  ■出口なし

■神奈川芸術劇場・ホール,2014.10.24-26 □ジギル&ハイド ■原作:R·L·スティーブンソン,演出:小野寺修二,出演:首藤康之 ■化学実験机の裏が鏡になっているの。 その脚を外し鏡としてぶら下げてその周りで踊る首藤。 でも鏡はただの板にみえる。 照明の工夫が足りないのね。 鏡で二重人格を表現したかったようだけど不鮮明な舞台だった。 でも彼のセクシーさが表現されていたのは満足よ。 そして選曲も気に入ったわ。 そういえばソロは初めてかもしれない。 彼の髪型や衣装を真似た男性客をホールで何人も見たけどモテるのね。 でも「空白に落ちた男」以降は良い作品が少ないようにみえる。 小野寺と首藤の身体性の違いが原因かしら? □出口なし ■原作:J・P・サルトル,演出:白井晃,出演:首藤康之,中村恩恵,りょう ■面白い舞台だわ。 軸は演劇に傾いているけどダンスと演劇のどちらも生きている。 りょうの登場が二つを結び付けたのね。 首藤・中村コンビが対照的な内向きだから一層関係が膨らむ。 舞台上の部屋や椅子そして天井の蛍光灯も想像を掻き立ててくれる。 衣装も素敵! 男一人に女二人、しかも一人の女は同性愛者。 この組合せなら地獄から逃げられるはずよ。 ・・でも性を超えても出口はナシ。 サルトルって厳しすぎない? ダンスと演劇について色々と考えてしまう内容だった。 もちろんサルトルもね。 充実な時を過ごせた気分だわ。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/dedicated_others

■暗愚小傳

■作・演出:平田オリザ,出演:青年団 ■吉祥寺シアタ,2014.10.17-27 ■幕開きから舞台に入っていけない。 やたら茶を飲んだり煎餅や饅頭を食べるからである。 近頃こういう場面が多くなっているようだが? 飲食し過ぎると中身が良くても中途半端に見えてしまうから困る。 しかも役者たちがニコニコし過ぎている。 それと机が小さいためか溢れた椅子が舞台端においてある。 役者がズレた位置に座るため微妙な距離の違いを気に掛けてしまう。 この劇団では致命的とおもわれる。 お茶が少なくなりやっと調子がでてきたようだ。 荷風の作品は読んでいるが、高村光太郎と智恵子はよく知らない。 詩や戦争責任を論じているが二人の下調べをしておけばよかったと後悔した。 後半の光太郎は科白が少なく椅子を積み上げたり馬乗りをする。 悪くはないがオリザ風劇的さが現れていない。 荷風はイメージに合わないところがあったが若すぎたからだろう。 そして宮沢賢治はいつも風呂あがりのような表情をしているのが楽しかった。 しかし当時の社会状況や近所の話題が物語から浮いてしまっている。 智恵子の死は感動的だが、ほかの人の死が遠くにみえる。 理由はうまく言えないが、やはり役者たちの存在感が軽かったからである。 対話の間が生きていなかった。 細かいことだが役者たちの入退場も雑であった。 その中、後ろ姿で座る本間春子は重みがあった。 永井のセリフ「本間は夏木が好きだったのでは?」は席から見ても感じられたからである。  演出家の「再演にあたって」を読むと「・・思い入れの強い作品」とある。 観客からは見えないことが沢山ある作品なのだろう。 チラシの富士に鶴と鴨もいつもと違い意味深であった。 *劇場サイト、 http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/eventinfo/2014/06/post-25.html

■奴婢訓

■作:寺山修司,演出:多田淳之介 ■富士見市民文化会館キラリ,2014.10.22-26 ■なかなか面白かったわよ。 まず役者一人ひとりの挨拶で幕が開くの。 途中、番号を付けて観客全員を舞台に登らせ役者は観客席へ・・、そして主人探しのため席の観客にインタビューへ・・。 映像を使って劇場いたるところで主人を探しまわる・・。 多くの劇団は表面をなぞりながら寺山修司に近づいていくの。 この作品は骨組みだけを残してあとは再構築した劇場内市街劇のよう。 しかも寺山の匂いがしない。 でも彼の心は見え隠れしている舞台ね。 衣装が原発事故処理用に似ているから、終幕の懐中電灯で照らす場面は福島原発内にいるようだった。  主人の椅子は舞台上に置いて、ボクシングリングのような仮舞台を観客席にも造ったから緊密間は希薄になったわ。 しかも役者が観客席を歩き座りまわるから余計ね。 仮舞台と観客席だけで進められたら緊張感がもっと出たはずよ。 そして役者がマイクを使うのは場違い。 ついでに言うと映像の歌詞は役者が歌って欲しい。   万有引力、月蝕歌劇団、APB東京、青蛾館、流山児事務所、NYX,、少年王者館も面白い。 でも今日観終った時、寺山修司から解放された感じが持てた。 それは寺山との間に<離見の見>のある舞台だったからよ。 *劇場、 http://www.kirari-fujimi.com/program/view/427

■世界は嘘で出来ている

■作・演出:田村孝裕,劇団:ONEOR8 ■スズナリ,2014.10.21-29 ■舞台は古くて汚い貸家の室内ですが面は通りになっています。 上手から役者が登場し面の道を歩いて下手の玄関に出入りします。 退場もこの道を通る場合が多い。 よくみる構造ですが小さな劇場の割には巧く出来ていました。 貸家住人孝行が亡くなりますが、特殊清掃会社の兄滝口が部屋の後始末にあたります。 この兄弟と周囲の人々を描いた物語です。 話は場面が切り替わるごとに過去へ戻っていきます。 現「場面」の小道具や役者の一部を残して次「場面」に繋げる手法を採っています。 この為すべての場面が一つにまとまっている感じがします。 病気持ち?で職に就かない弟を兄や母は思いやるのですが弟の心情が読めません。 夜の仕事の母や零細企業社員の姿は貧困一歩手前の現実がうまく描かれていて舞台に引き込まれてしまいます。 終幕兄は弟の亡くなった状況を母に知らせるのですが、仰向けで頭を枕に乗せて安らかに息を引き取ったと<嘘>を言います。 「世界は嘘で出来ている」は嘘も本当も結局は同じことだと解釈していました。 ですから「嘘」と「本当」の差を意識し過ぎて苦しむ弟や母に「嘘」を付いて泣き崩れる兄は日常世界の良き住人です。 このような世界を基にした作品を観るのは久しぶりの為かいつもと違った感動を得られました。 *劇団サイト、 http://oneor8.net/pg104.html

■忘れな草

■作・演出:P・ジャンティ,振付:M・アンダーウッド,出演:カンパニ・フィリップ・ジャンティ ■パルコ劇場,2014.10.16-26 ■人形がこんなにも多く登場するとは知らなかった。 一人一体の人形を持って双子のように動きまわるの。 人に似せているため瞬間どれが人形だかわからなくなるわ。 この人形とヒトとの境界消失が目眩を呼び生命の記憶を蘇らせるのね。 影絵や布の手作りの感触がその記憶を柔らかく包み込む。 そして独特な舞台が現前するの。 文楽のように人と人形を区別してから物語に入り込むのではないから最初から夢のようなものね。  ストーリーはあるようだけどよくわからない。 なぜ北極なの? なぜ「猿の惑星」から来たの? 役者の動きや歌はまあまあというところかしら? 上手いとはいえない。 手作りの舞台をみていると、20世紀中頃のフランスに戻ったようだわ。 賞味期限が切れているような場面も多々ある。 古さを寄せ集めたところが特徴なのね。 そして題名「忘れな草」は舞台の流れに方向性を与える言葉。 このパルコ劇場はとても観やすい。 舞台と客席に隙間ができない。 親密さで満たされているわ。 11月に新国立劇場中劇場でも上演するけど、この作品はパルコで観るのが似合いそうね。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/57082

■霊感少女ヒドミ

■作・演出:岩井秀人,映像:ムーチョ村松,劇団:ハイバイ ■アトリエヘリコプタ,2014.10.18-27 ■ドアのある白い部屋壁が立てかけてある単純平坦な舞台です。 そこにカラフルな映像を映し出します。 ドアから生身の役者だけでなく映像の人も出入りしたり、実際の舞台模型を映写した後、舞台に大きな手の一部を翳したりしてします。 「劇中劇」と同じく「像中像」と言うようなものです。 面白い舞台ですね。 元彼を事故で失った彼女の宅で話が進みます。 新彼が訪ねてくるのですが亡霊の元カレが邪魔をします。 元カレの無念さが表れています。 彼女は新カレと一緒になるのですがやはり捨てられてしまいます。 ・・彼女は自殺してしまいます。  多彩な映像と同期を取るため役者の静止場面が多い。 存在感を強調できます。 でも身体から湧き出る演劇的存在ではなくプラスチックのような美術的存在にみえます。  自殺する電車内の映像ではト書きというか作者の語りが入ります。 小説を読むように聞こえてきます。 しかし演劇的感動が少ない。 ト書きが舞台を無化してしまったようにみえます。 小説のようなト書きを無くして生身の役者と映像美術で固めプラスチック的な存在を追求した方が劇的舞台は迫ってくるはずです。 上演時間が一時間で物足りなさが残りました。 この原因も時間の短さではなくて終幕に<文学>を出してしまったからでしょう。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/58820

■ドン・ジョヴァンニ

■作曲:W・A・モーツァルト,指揮:R・ヴァイケルト,演出:G・アサガロフ,出演:A・エレート,妻屋秀和,M・ヴィンゴ,C・レミージョ,P・ファナーレ,A・ミコライ,町秀和,鷲尾麻衣 ■新国立劇場・オペラハウス,2014.10.16-26 ■舞台はチェス盤を意識しているのかしら? ルークとナイトでできたカルーセルや墓地石像の周囲は同じナイトが見張っているの。 光沢の盤上をゴンドラが滑っていく光景は固くて冷たい。 これでドン・ジョヴァンニとレポレッロのコンビも理性的な雰囲気が強くでているのかしら? このため「女たらし」というよりは一つの世界観を演じているようにみえる。 歌詞「世界中の女を愛する・・」が引き立つ舞台ね。 それと歌手たちの歩数があと二歩ずつ少なければ流れに緊張感がでたとおもう。 一幕は舞台がだだっ広かったからよ。 ときどき静寂を感じる面白い舞台だったけど。 二幕になって固く冷たい舞台に溶け込むことができたわ。 「まずは私の大切な人を」「なんというひどいことを」等々のアリアをじっくり聞くことができた。 オッターヴィオとエルヴィーラは調子が良かったみたいね。 レポレッロはもう少し声に重みがあった方いい。 地獄に落ちる場面は何時観ても壮絶だわ。 そしてジョヴァンニを除いた勢揃いの大団円は物語の余韻を高めていた。 *NNTTオペラ2014シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/141016_003716.html

■カップで自分を量るがいい

■作:土田英生,演出:須藤黄英,出演:演劇集団ツチプロ ■下北沢OFFOFFシアタ,2014.10.15-21 ■人間関係の極めて良好な人が急に崩れてしまう。 主人公鳩村真人の顔を見ただけで周囲は吐き気を催す。 仕事関係ばかりか家族・友人もエボラ感染が急速に広がるように人間関係は悪化していく。 ・・展開と結末はどうなるのか楽しみに観ていた。 虐めや差別問題を描くのかとみていたら少し違うらしい。 世界との交わり方を問題にしているようだ。 自分が変わったのか?世界が変わったのか? しかし原因は生物学を越えた異常なものにみえる。 その流れは一層強まる。 彼は自殺?をするがその直前素晴らしい演説をしたとか、足が地面から浮いていたなどが語られる。 最後は聖人として祭り上げられる。 チラシに「・・世界はすごい勢いで流れている。 世界つまり量るものが変われば自分なんてすぐに見失ってしまう・・」と書かれている。 速い流れの中で、人間関係を高次元で結びつける<宗教のようなもの>とどう対峙していけばよいのか? この種の質問をしたかったようだ。 しかし対峙する鳩村の妹の彼氏山瀬はその場を黙って去るだけである。 前半は結婚や職場での人間関係の面白さが出ていた。 しかし後半は急ぎすぎて芝居を観ているというより説明を聞いている感じだ。 チラシに書いてあるように流されてしまった舞台にみえた。 *劇団サイト、 http://tsuchipro.com/contents10.html

■靴

■作・演出:倉持裕,劇団:ペンギンプルペイルパイルズ ■スズナリ,2014.10.9-19 ■ユニット家具のような下駄箱?が舞台周りを埋め尽くしています。 遠近法がズレているためか身長差のある役者が立つと目眩がしますね。 小道具も凝っていて場面切替が楽しい。 幕開きにブランコがぶら下がっていましたが、以降使わなかったのが惜しい。 そして役者が奈落に落ちるのが上手いし、煙草の吸い殻をアチコチ捨てるのも笑えます。 とても面白い舞台です。 二人の女子高校生が主役のようです。 ストーリーを思いだそうとしているのですがコンガラカッてしまいます。 農場殺人事件、夢か未来から来たのかよくわからない人物の登場、生死の境界場所、学校上履紛失事件・・。 これらが時間と空間を飛び越えて展開するからです。 若崎一家は天才バガボンの家族のようでホンワカしてますね。 家族とその友人たちは一人ひとりの性格が際立っていて新鮮です。 特に父と母は人が変わったような警部補と部下の二役を演じるので尚更です。 ネットリ感が短くて笑いのある台詞が多いので舞台が軋みません。  前回の「 COVER 」では「何もないところからドラマを探し、予感から離れたドラマを起こす」とありました。 今回は靴が溢れていました。 しかしこの靴の量が質に転化していません。 シンボルとして留まっているだけです。 ある意味靴を含め小道具が過剰になっている。 これが転化できれば「ドラマを探し・起こす」次の段階、「ドラマを成長」させることが出来るでしょう。 *作品サイト、 http://www.penguinppp.com/next/18/

■ブレス・オブ・ライフー女の肖像ー

■作デイヴィット.ヘア,演出:蓬莱竜太,出演:若村麻由美,久世星佳 ■新国立劇場.THE PIT,2014.10.8-26 ■作家フランシスが夫の不倫相手マデリンを訪れる話である。 登場人物は彼女二人だけである。 舞台はマデリンの部屋だが本で一杯だ。 どんな職業か終幕になってやっとわかる。 博物館の学芸員らしい。 彼女の感情をあまり出さない演技は二人芝居にしては薄く感じる。 またフランシスの存在感、特に椅子に座る姿は日本の主婦である。 話題作になったのも薄々わかる気もする。 しかし二人の対話が愚痴ばかり言っているように聞こえてしまった。 役者や雰囲気が日本語的で内容が英語圏的である為かもしれない。 マデリンが「夫」と別れた理由を「夫が怖かったから」と言っている。 なるほど納得しかけたが腑に落ちるところまで行かない。 二人と「夫」のセックスもあまり語られないのにフリーセックスの話がよく出るのも突飛である。 登場しない「夫」の性格などのイメージが固まらない。 弁護士という職業も日本の公私と位置付が違うためかもしれない。 そして「・・愛をみつけること」と二人は頷き合うが、白々しい。 結局フランシスの訪問した真意がわからない。 チラシに回想録を書くためとあるがそうは思えない。 ロンドンの観客席は笑いに満ちていたのでは? いや静かな陶酔で満ちていたのか? 女性なら結構面白いと思う人がいるのかもしれない。  確信の持てない雑感が次々と浮かんでしまった。 私のリズムある想像力が働かなかったようだ。 これで二人の愚痴、いや対話に入っていけなかった。 *NNTTドラマ2014シーズン作品 *劇場サイト、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/thebreathoflife/

■わが父、ジャコメッティ  ■変身  ■光のない

三連休の初日に横浜で三本ハシゴしたのよ。 ■わが父,ジャコメッティ ■演出:危口銃之,劇団:悪魔のしるし ■KAAT・中スタジオ,2014.10.11-13 ■演出家とその実父が出演している舞台なの。 父は実際の絵かきで、原案は矢内原伊作の「ジャコメッティ」。 つまり父はジャコメッティであり、矢内原伊作であり、舞台上での絵描きであり、演出家の父である一人四役。 この四役が混沌としているの。 演出家が演出家や子の役ばかりでなく矢内原伊作やジャコメッティとの境界にも侵入するし、お手伝いの女優も役者志望の動機を語るからよ。 音楽や映像は舞台に溶け込んで違和感が無い。 三ヶ国語の字幕も凝っている。 舞台外の子と父の関係がほんのり見えるのが芝居を複雑に面白くしているところね。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/w_g ■変身 ■作:F・カフカ,演出:平田オリザ,アンドロイド開発:石黒浩 ■KAAT・大スタジオ,2014.10.9-13 ■アンドロイドからロボットに鞍替えしたのかしら? 生物としてのヒトが生物としての昆虫に変身するのと、ヒトがロボットに変身するのは全然違うはずよ。 前者は異様な戦慄が走るけど後者はそれが無い。 ヒトの肉体が将来はロボットになると薄々予感しているからね。 もちろん金属ではなくIPS細胞のような素材を使ってだけど。 ザムザの顔はJ=L・バローのパントマイムの白に近く能面のようだわ。 結局は「不気味の谷現象」を越えられなかった。 舞台でのロボット議論は二元論に集約されてしまい面白くない。 脳だけは手がつけられない。 鉄腕アトムに戻ってしまったようね。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/henshin ■光のない ■作:E・イェリネク,演出:三浦基,音楽:三輪眞弘,美術:木津潤平,劇団:地点 ■KAAT・ホール,2014.10.11-13 ■これは驚きの舞台ね。 想像とまったく違ったからよ。 得意のオノマトペ等を取り入れて詩が延々と続くの。 舞台美術と照明は「2001年宇宙の旅」を思い出させるところもある。 でも役者の動きと発声は宇宙の旅の身体とは逆なの。 この差異が東日本大震災、特に原発事故の異様さを引き出している。 この作品を載せるのは3回目*1だけど全貌がま

■風の又三郎-Odyssey of Wind-

■演出:小池博史 ■吉祥寺シアタ,2014.10.8-13 ■風の精たちの遊び戯れる姿がとてもリアルで楽しかったですね。 誰しも子供時代を経験しています。 ですから子供を演技する場合はそのエッセンスを見逃さないでしょう。 リアルというのは現実と想像が融合し且つこの二つを越えるものです。 それは子供同士の間にも表れます。 馬で駆けまわる場面は舞台に上り一緒に走りたくなりました。 風精と子供は同じです。 尺八やガムラン?などの演奏はゆったりした時間を作っていて、役者の騒がしい動きや科白と上手く混ざり合っています。 謡?もあり日本を越えアジア的な複雑な面白い音楽でした。 美術はキリコが描くような煙突と階段の抽象性で舞台を引き締めていました。 衣装はちょっと冴えなかった。 たぶん風の精の豊かな動きと静的な美術に挟まれ方向を見失った為でしょう。 映像を含めた総動員のパフォーマンスでしたが、全てが有機的にまとまった充実の舞台でした。 *主催者、 宮沢賢治シリーズ(kikh.org)

■ハムレット

■演出:ニコラス.ハイトナー,出演:R・キニア,C・ヒギンズ,P・マラハイド ■日本橋東宝,2014.10.3-8 ■スピード感溢れる舞台だった。 この作品は走り続けるのが似合っている。 今回は役者も良かった。 老練なマラハイドとヒギンズが両親だと、聡明なローリ・キニアは水を得た魚のようなハムレットになれる。 もちろん観客もハムレットと共に走り続ける必要がある。 それが苦にならない舞台であった。 日本語訳も楽しい。 具体で筋の通った言葉がハムレットの存在を引き立たせていた。  プレトークで演出家が監視国家を強調していたが騒ぎ立てる程でもない。 当時も監視があったことは理解できるが。 ガードマンは舞台を引き締めるコロスと思えば目障りにはならなかったが、オフィリアが本に盗聴器を小細工するとなると舞台に雑音が入ってしまう。 ハムレットを舞台化するときは変わった解釈をしたくなるのが演出家というものである。 しかし今回は小細工をはね退ける面白さがあった。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2014年作品 *作品サイト、 https://www.ntlive.jp/

■パルジファル

■作曲:R・ワーグナー,指揮:飯守泰次郎,演出:H・クプファ,出演:C・フランツ,E・ヘルリツィウス,J・トムリンソン,E・シリンス,長谷川顕,R・ボーク ■新国立劇場・オペラハウス,2014.10.2-14 ■稲妻のような道にはLED照明が敷かれているの。 なんとモータで動く大きな槍もある。 そして背景には映像が映し出されている。 席が前なので道がよく見えない。 後席なら美術の良さがわかったかもしれない。 新国得意のスッキリサッパリ機械仕掛ね。 天井照明がほとんど無いから空間が寂しい。 上演は6時間弱。 飯守新監督の指揮は急がず休まずマラソンをしているような演奏。 これで安定感は抜群よ。  一幕を観ながら「インディ・ジョーンズ」だとか「猿の惑星」を思い出してしまったの。 中身が関連していると思わない? 二幕のクンドリとパルジファルの遣り取りは面白かった。 三幕はちょっと煮え切らない感じかな。 クリスティアン・フランツは存在感がアヤフヤだわ。 無駄な動きがあるのとクンドリのキスの前後で変わっていないからよ。 愚者の存在力は難しさがあるけど、演出家はもう少し考えてもいいわね。 昨年4月の MET は無垢のまま観たけど、今回は知識や情報を集めて臨んだの。 でも感動はイマイチだった。 舞台芸術は知識・情報と感動が比例しないのよ。 いまここに現前している舞台が全てなのね。 ところで黄色い衣装の人は仏教の僧侶なのかしら? 終幕にパルジファルが僧から貰った袈裟をグルネマンツやクンドリに分け与えるの。 日本公演のサービスなの? 混乱したけど、これも終幕解釈の一つかもしれない。 *NNTTオペラ2014シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/parsifal/index.html

■見つめて、シェイクスピア!展-美しき装丁本と絵で見る愛の世界-

■感想は、 http://ngswty.blogspot.jp/2014/10/blog-post_3.html

■小指の思い出

■作:野田秀樹,演出:藤田貴大,劇団:マームとジプシー ■東京芸術劇場・プレイハウス,2014.9.29-10.13 ■言葉を花火のように散らかしながら再び集めて物語を紡いでいく野田秀樹と、リズムある繰り返しで深みある世界を見せてくれる藤田貴大のコラボは見逃せません。 しかし負の方向に進んでしまったようですね。  野田秀樹の舞台は観ていませんし戯曲も読んでいません。 ということで物語の流れがよくわからなかった。 一番の原因は役者がマイクを使ったことです。 特に女性の高音早口は響いてしまい集中しなければならない。 微妙なところですが。 劇場設備の悪さもあります。 これでリズムが狂いました。 舞台は本物の自動車が動き回ります。 驚きはありますがいつもの軽やかさが出ていません。 流れが重く感じられます。 物語の面白さは断片的には伝わってきました。 しかし全体がみえないので一度戯曲を読んでみるしかありませんね。 作者の好きな言葉遊びもイマイチ乗れません。 演出家が得意としているところを捨てて臨んだのですが、作品にも捨てられてしまったように見えました。 *劇場サイト、 http://www.geigeki.jp/performance/theater058/

■無伴奏ソナタ

■作:O・S・カード,演出:成井豊,出演:劇団キャラメルボックス ■サンシャイン劇場,2014.9.26-10.1 ■グイグイと舞台に引きこまれていく。 このテンポは手塚治虫の漫画を1頁づつ捲っているのと同じだ。 天才が持っている光と影の二面性を主人公に与えたり、ブラックジャックに繋がるウォッチャーは手塚得意のキャラクタである。 少し冷酷すぎるが。 そして両手の指を全て無くし、声を失っていくクリスチャンは心の記憶を引き継いだロボットのロビタに近づいていくようにみえた。 ところが後半は漫画から離れていく。 バッハからアメリカ民謡へ移ることによって緊張感が薄まり舞台は日常世界に近づく。 やはり天才がSF世界で幸せになるのは万人向けではない。 チラシをみたらこれは演出家の経験から来ているようだ。 そしてクリスチャンが天才を捨て、その基になる肉体も捨て、人々に愛される民謡を作ったことに観客はカタルシスを得る。 世間は非情ともいえる。 *劇団サイト、 http://www.caramelbox.com/stage/mubansou-sonata2014/