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■Mirroring Memories それは導き光のごとく

■演出:金森穣,出演:金森穣,Noism1 ■東京文化会館・小ホール,2018.4.28-30 ■全12章から成り、新作は2本(章)で他の10章は2008年以降に発表した作品から黒衣のシーンを選びオムニバスにしてある。 1時間の上演だから1章が5分前後よ。 最初の0章は新作でベジャールの写真が背景に写し出される。 金森穣のソロで衣装は白。 次章からは歌舞伎や人形浄瑠璃に出てくる無の象徴ともいえる黒子も登場する。 でも黒子はダンスだと<無>ではなく<死>を意識してしまう。 この意識の違いはダンスに宗教性を感じさせるからだと思う。 最後の11章も新作で0章の対になっていて金森を含め3人のダンサーが宗教的雰囲気で締めくくるの。 重厚な音楽が章を結び付けて一つの作品として巧く仕上がっている。 ベジャール物語舞踊のオマージュとも言えるわね。   小ホールは舞台が狭い。 しかも金森穣は思ったより身長がある。 小柄な女性ダンサーは伸び伸び踊ったけど男性は少し窮屈かしら? このため動きが喜劇的に感じるの。 しかも場面切替が速くて黒衣の深淵へ降りていくことができない。 ホールや会館周辺はゴールデンウィークとバレエホリデイで大変な混み様! 黒衣的雰囲気が保てなかったのは仕方がないわね。 *チラシ、 http://noism.jp/wp2015/wp-content/uploads/Noism1_Mirroring_Memories_A4.pdf

■ポリーナ、私を踊る

■監督:ヴァレリー・ミュラー,アンジュラン・プレルジョカージュ,出演:アナスタシア・シェフツォワ,ジェレミー・ベランガール ■(フランス,2016年作成) ■主人公ポリーナはボリショイ・バレエ団に入団が決まった。 にもかかわらず恋人を追ってフランスに渡ってしまうの。 結局彼女は舞踊団を転々としていくことになる。 日々の生活にも困り出す。 最後は気の合うパートナーと踊りながら幕が下りてしまうストーリーよ。 バレエでは生身を「見せるな」、ダンスの「見せろ」は表裏の関係だからどちらも大切ね。 でも彼女が舞踊団をやめる肝心な理由がいつも語られない。 自分探しの物語は方向性が見えないから作り込みが難しいことはある。 「あなたの踊りは何も感じない」。 リリアが言っていたのはこの映画のことかもね。 プレルジョカージュやベランガールが名を連ねていたので手に取ったけど、残念な1本だわ。 *作品サイト、 http://polina-movie.jp/

■空観

■演出:扇田拓也,出演:ヒンドゥー五千回 ■座高円寺,2018.4.25-26 ■名前は聞いていましたが初めて観る劇団です。 長いあいだ活動を休止していたらしい。 しかも今回が最終公演とのこと。 最初で最後です。 先ずは演出家の挨拶がありました。 <空>は仏教用語から採っている。 「ヒンドゥー五千回」もどこか宗教的な響きがしますね。 道具の少ない舞台ですが代わりに役者が家具やドアや門に変身する。 鏡に映る姿を別の役者が演ずるのは面白い。 言葉も意味の無い羅列を喋る。 身体動作の比重が大きい劇団です。 そして役者たちの衣装からある階級を表しているのが分かる。 古びた背広・ジャケット・ロングスカートなど西欧風な正統性ある下層市民の姿の為です。 しかし仮想言語から最初は東南アジア、対人動作から徐々に中南米世界に近づいていった。 途中日本語の朗読や般若心経も唄われる。 <空>のごとく我が広がっていくのを舞台化した作品にみえました。 宗教性は身体に溶け込んで見えなくなっている。 このような劇団だったとは予想しませんでした。 「・・新たな劇団を立ち上げる」と演出家挨拶文にある。 「この世の存在・現象・自我に境界はなく実体がない」という意味の「空観」が新劇団名となるらしい。 活動の休止や出直す理由は知りません。 少し古めかしい社会性を誠実さのみえる身体で描く、変わった感じのする舞台でした。 *劇団サイト、 https://hd5000k.wixsite.com/hd5000k

■Responding to Ko Murobushi、室伏鴻

■室伏鴻アーカイブカフェshy,2018.4.25 ■「北龍峡時代」「Le Dernier Eden」を中心に70年代室伏鴻の活動映像上映会である。 彼の舞台は21世紀に入ってから何度か観ている。 枯節のような鋼鉄の肉体に圧倒された覚えがある。 70年代は違う。 時代の肉体とでも言おうか、ギラギラ感が漲っている。 以前モーリス・ベジャールの50年代初期映像をみてあまりの凄さにノケゾッタことがあったが、そんな感じと同じだ。 映像の質はあまり良くないが公演前後の裏舞台や稽古風景をたっぷり撮っているので時代の雰囲気など当時の全てを見ることができる。 次回上演の80年代「木乃伊」「Zarathoustra」「EN」の映像もみたいが都合がつかない。 貴重な映像で貴重な時間を過ごすことができた。 *公演サイト、 https://ko-murobushi.com/response/

■じゃじゃ馬馴らし

■作:W・シェイクスピア,演出:蜷川幸雄,出演:市川猿之助,筧利夫,山本裕典,月川悠貴ほか ■新宿バルト9,2018.4.21-29(彩の国さいたま芸術劇場,2010年収録) ■蜷川幸雄オールメール・シリーズの一つです。 市川猿之助が出演しているので興味が湧きました。 しかし舞台は粗雑感があります。 バラエティ番組のようなアクションの強い寸劇場面が重なる。 相手をスリッパ板で叩きまくるのも笑いを取るのはいいのですがやり過ぎにみえます。 舞台の面白さはキャタリーナの市川猿之助、ペトルーチオ役筧利夫そしてルーセンシオやビアンカの若手俳優たち演技差のある三者のぶつかり合いでしょう。 これが観ていても三者が混じり合わない。 キャタリーナの身体的惚れ惚れ演技とペトルーチオの台詞喋りっぱなし演技、ルーセンシオやビアンカのヤンチャ風大人びた演技。 バラバラの楽しさですね。 蜷川幸雄の遊び心が一杯でした。 *蜷川幸雄三回忌追悼企画作品 *作品サイト、 http://hpot.jp/stage/nt2 *「このブログを検索」語句は、 蜷川幸雄

■その人ではありません

■作:別役実,出演:富永由美,土井通肇 ■旧眞空鑑アトリエ,2018.4.6-22 ■結婚するのはとても易しい、そしてとても難しい。 この芝居では結婚までの過程を男は易しく女は難しく考える。 易しいとは「日常」で、難しいとは「非日常」のような感じだろう。 だから女は考えられないような物理学を日常に適用する。 余計に日常から遠ざかる。 これに別役的不条理とも言える非現実が被さってくる。 日常と非日常はともに現実だが、女はその向こうにある非現実に一歩踏み入れているようだ。 男が訝っているのは女が持っている非日常ではなく非現実である。 これで男は結婚を躊躇う。 女は非現実=狂気との境界を彷徨いながら現実である日常を演技するが非日常まで戻るのが精一杯である。 日常も非日常も受け入れて現実を生きる男の世界に届かない。 そして一緒になりたくてもなれない女の哀しみが舞台に滲み出てくる。 *旧眞空鑑第33回公演

■和栗由紀夫、魂の旅

■主催:「和栗由紀夫魂の旅」実行委員会,中嶋夏,谷川渥 ■東京ドイツ文化センター,2018.4.21 ■「2017年10月に急逝した舞踏家和栗由紀夫を偲ぶ」会が開催された。 赤坂のドイツ文化センターは来場客で一杯だ。 ロビーには写真や衣装・資料そして来客から和栗由紀夫へのメッセージが「花びら」として貼られている。 配られた20頁のプログラムも充実している。 第一部「楼閣」第二部「翼」の公演構成で全3時間の内容(□)は以下の通り・・。 □挨拶・トーク:谷川渥、森下隆、後藤光弥 □舞踏:小林嵯峨、山本萌、正朔、工藤丈輝、川本裕子ほか □ダンス:関典子「マグダラのマリヤ」 □和太鼓:富田和明ほか □映像:「疱瘡譚」(1972年)、「眠りと転生」(1989年)、「野の婚礼」(1994年)、「百花繚乱」(2007年)、「病める舞姫」(2017年)より。 ダンスでは関典子と正朔が印象に残る。 映像では「野の婚礼」だろう。 和栗の舞踏の形が出来上がりつつある。 40歳前半で脂が乗り切っている感じだ。 この作品は通しで観てみたい。 しかし「病める舞姫」は彼の死の1週間前の為か苦しみの動きで満ちている・・。 和栗は状況劇場唐十郎の門を叩いたが無視されアスベスト館土方巽に入門したらしい。 今だから楽しい話題だ。 彼の舞台は当に百花繚乱のごとくみえる。 あるときはキートンでありチャップリンである。 ニジンスキーでもある。 そして彼のどこか一味違う理由がプログラムを読んで分かった。 彼は土方巽のもとで衣装係を担当していたのだ。 「・・和栗はイメージの色に近づけるのに何度も衣装を染め直した」(和栗佳織)。 土方巽から伝承された舞踏譜の一部がプログラムに載っている。 「・・土方巽は即興を演じながら即興を否定した」。 ダンサーと衣装・美術・照明・音響・・全てが一つに溶け合うその一瞬に舞台芸術の真髄が現れる。 納得の技術としての総合力が舞踏花伝だと和栗は言っているのだと思う。 *公演サイト、 https://otsukimi.net/koz/#top *「このブログを検索」語句は、 和栗由紀夫

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル4日目)

■d-倉庫,2018.4.17-18 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:こしばきこう,劇団:風蝕異人街 ■満席ですね。 本日は観客の年齢性別がバラけている。 ダンサーたちの床を踏み歩くリズムが強く響いてきます。 彼女らは緑色ノースリーブの同一衣装を着て科白を交互に喋りながら舞台を前後する。 ハムレットは途中衣服を脱ぎパンツ一丁で激しく喋り踊ります。 残りの数名が舞台壁際でうごめく。 舞台奥には映像です。 作者ハイナー・ミュラーの心象風景はこうだと言っているようです。 しかし科白と身体動作の関係がぎこちない。 両者が結びつかない。 舞台壁際でうごめく役者は衣装も動きもよいが孤立していた。 原作者と直にぶつかったが無視されてしまった感じです。 演出家が急いでしまい役者まで浸透しなかったのではないでしょうか? ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:伊藤全記,劇団:7度 ■出演者は二人。 スポーツ衣装で舞台を走るのはハムレットなのか? 白い衣装で立ち科白を延々と喋るのはオフィーリアのようです。 そしてハムレットはビーチチェアに横たわる。 科白の発声が透き通っていて耳によく聞こえてきます。 ハムレットは略椅子に横たわっていましたが存在感がありました。 「ハムレットマシーン」を続けて8本観ました。 戯曲の非物語性から滲み出る作者の生きた時代と、身体重視の劇団の、戸惑いの出会いが面白かった。 戸惑いの拘り具合で舞台に巾が出ていたようにみえる。 拘りを強く意識していたのは「サイマル演劇団」「身体の景色」「ダンスの犬」「楽園王」「風蝕異人街」。 この縛りから逃げていたのは「隣屋」「初期型」「7度」です。 もちろん直観で分けたのですが。 前者は社会や政治情勢が強く現れる。 社会主義総崩れ直前の戯曲は重みがあるからです。 後者は台詞が同じでもそれに比較して弱い。 言葉の意味を作者のいる過去に探し求めなかった為でしょう。 面白さが出ていたのは後者でした。 社会主義崩壊が新しい何ものも作り出せなかったこともある。 フェスティバルは特にですが初めての劇団に出会えるのが嬉しいですね。 「IDIOT SAVANT」と「劇団シアターゼロ」の公演が残っていますが都合で観ることができない。 「ハムレットマシーン」4月の連続観劇はこれで終わりにします。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル

■セミラーミデ

■作曲:ジョアキーノ・ロッシーニ,指揮:マウリツィオ・ベニーニ,演出:ジョン・コプリー,出演:アンジェラ・ミード,イルダール・アブドラザコフ,ハヴィエル・カマレナ,エリザベス・ドゥショング他 ■新宿ピカデリー,2018.4.14-20(MET,2018.3.10収録) ■ロッシーニのオペラ・セリアでは一番の荘厳さを持っているかもしれない。 タイトルロールがアンジェラ・ミードだから余計にそうなるの。 2時間もある一幕序曲からグングン集中できる。 歌唱が始まりキャスト5人の聴き応えは満足度120%ね。 歌手は舞台で殆んど動かない。 存在感は身体ではなくて流れる声で形成されていく。 物語はギリシャ悲劇から借りてきたみたい。 バビロニア女王セミラーミデが愛した若き軍人アルサーチェは彼女と前王との息子なの。 しかもアルサーチェはズボン役。 でもエリザベス・ドゥショングだからあまり意識しない。 「オイディプス」と違い先王を殺したのは母であり最期に母は息子に殺される・・。 二幕は80分だけどさすが聴き疲れがでてくる。 いつものロッシーニ得意の明朗快活さが無いこともあるわね。 MET25年ぶりの再演らしいけど歌唱技術の難しさから上演されなかったと聞いている。 ロッシーニはこの作品に根(こん)を詰め過ぎたとおもう。 この詰めが疲れを呼び寄せるのね。 *METライブビューイング2017作品 *作品サイト、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/85/

■NINAGAWA・マクベス

■作:W・シェイクスピア,演出:蜷川幸雄,出演:市村正親,田中裕子ほか ■新宿バルト9,2018.4.7-13(シアターコクーン,2015年収録) ■記録をひっくり返したが観ていなかったので早速映画館へ出向いた。 いやー、とても面白かった。 それは・・ 1.ストーリーの取捨選択と科白に無駄が無い。 演出家好みの場面が強調されている。 リズムがあり物語に淀みが生じないので一気通貫の気持ち良さが残る。  2.舞台美術と衣装が見事。 緞帳に格子戸を使いその前後舞台の利用が上手い。 門にも見えるので二人の老婆の開け閉めで「羅生門」を思い出してしまった。 そしてバーナムの森の桜が満開で感激。 マクベス夫婦の髪型も決まっていた。 3.日本の戦国時代劇としてみても違和感が無い。 名前や地名は原作のままだが日本名ならマクベスを忘れてしまうくらいだ。 魔女が歌舞伎調の巫女のようで楽しい。 などなど数え上げればきりが無い。 蜷川幸雄流エンターテインメントが遺憾なく発揮されていた。 *蜷川幸雄三回忌追悼企画作品 *劇場サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/15_macbeth.html

■エンジェルス・イン・アメリカ、国家的テーマに関するゲイ・ファンタジア

■作:トニー・クシュナー,演出:マリアン・エリオット,出演:アンドリュー・ガーフィールド,ジェイムス・マカードル,ラッセル・トーヴィ他 ■東宝シネマズ日本橋,2018.3.16-22他(リトルトン劇場,2017.7.20,27収録) ■3月に第二部「ペレストロイカ」を、今月に入って第一部「至福千年紀が近づく」を観たが、やはり順番通りに間を開けずにみたかった。 一か月も経つと第二部の記憶が薄れてしまう。 しかし8時間の上映は長さを感じさせない。 場面をフェードイン・アウトの映画的手法でまとめ、且つ舞台を分割し共時的に進みながら物語を熟成していく。 1985年頃のゲイ、今はLGBTと一纏めにしているが男性同性愛者たちを主人公にした舞台である。 彼らが治療の困難なAIDSエイズを発症したことで人間関係に底知れぬ不安を招き寄せる。 それは愛や憎しみ信頼や差別も生み出す。 舞台では人種差別や宗教差別が幾度も議論される。 この<多様>なマイノリティが作品の特長を作っている。 例えばモルモン教と他宗教、現代ユダヤ人の位置付けや黒人との関係などなど。 それが政治にも繋がっていくのが面白い。 ロイとピットの共和党やワシントンの話から、トランプ大統領や森友・加計学園問題を思い浮かべてしまった。 ところでLGBTは30年先の時代を歩いているような描き方だ。 他のマイノリティが薄くなってしまうからだろう。 しかし突然のAIDSの発症と死への過程がやはり主役である。 そして物語を飛び越えるのが天使の登場になる。 天使はいつも混乱させてくれる。 日常的身体的に理解できないからである。 祖先や死んだ人の霊の出現なら分かる(気がする)が。 しかも第一部では幕が下りる数秒前で天使が出現したから劇的であった。 第二部を先に観たからそう思う。 当時のAIDSは歴史に登場するペストと同じで決定的威力を持っていた。 キリスト教なら神の使いである天使を登場させないと収まらない。 ゲイ・AIDS・天使は1980年代の裏アメリカを代表する語句かもしれない。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2018年作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/88302/ *映画com、 https://eiga.com/movie/88303/

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル3日目)

■d-倉庫,2018.4.10-11 ■演出:深谷正子,出演:ダンスの犬ALL IS FULL ■2メートルもあるヴァギナの模型がデーンと舞台に置いてある。 そしてアベ・マリアの歌に乗って5人の女性ダンサーたちが登場する。 が、なんと!ダンサーの胸にはオッパイが30cmも垂れさがっている。 しかも足に紐をつけコーラ瓶を引きずりながら踊り出すのです。 振付は原始的な激しさを含んでいます。 舞台を見つめていると人類というものを感じますね。 それは女、人間、雌、ヒトと順番に壊れていき人類へと行き着く。 この広がりはヴァギナと乳房を模型ですが包み隠さず出したからでしょう。 見ていると生殖を意識し出すからです。 とちゅう乳房を交換します。 やはり垂れ下がっているが先がふっくら饅頭のようです。 音楽はダンスに寄り添い順調でしたが、それを破って歌謡曲「おふくろさん」が流れて来る。 これには参りました。 地球規模まで広がった人類が日本の母と子の狭い世界に縮んでしまった。 終幕、ダンサーたちはヴァギナを通過する・・。 現代日本の女性からみた<ハムレット>があからさまに表現されていました。 ■演出:長堀博士,劇団:楽園王 ■劇場を訪れた男が役者を演ずる場面から入ります。 その前に役者に変身しようとしている女の口上があったことも思い出した。 遣り取りをみていると劇中劇の様子です。 途中観客席にいた役者を舞台ひ引きずり出し劇中の劇に参加させる。 この劇団はト書きと科白を分けて演ずるなど劇構造がとても豊かです。 今回も重層的ですがしかし、劇的に繋がらない。 作品の言葉と真面目に格闘し出すと冴えてしまい劇的から遠ざかるような気がします。 「ハムレットマシーン」は演出家や劇団の特徴を露わにしますね。 ところで化粧をしたハムレットの死が濃く表れている顔色はとてもよかった。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html *「このブログを検索」語句は、 長堀博士

■アイーダ

■作曲:ジュゼッペ・ヴェルディ,指揮:パオロ・カリニャーニ,演出:フランコ・ゼッフィレッリ,出演:イム・セギョン,ナジミディン・マヴリャーノフ,エカテリーナ・セメンチュク,上江隼人,妻屋秀和,久保田真澄ほか,管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2018.4.5-22 ■日差しが鈍く輝いて空気の重みを感じる。 よくみたら舞台前面に透過網幕が張ってある。 残念なことに幕は最後まで取れなかったの。 大道具転倒対策の為かしら? そしてこの劇場でこれほどの物量を見るのは初めてよ。 ウゥッ、量の感動が押し寄せて来る。 ゼッフィレッリが自慢したいのはよく分かる。 ラダメス凱旋の馬は本物にみえたわ!? それに比してアイーダ、ラダメス、アムネリスの三角関係が形式的にみえる。 三人の心の内が押し寄せてこない。 アイーダの素晴らしい声に若さが出過ぎているせいかしら? 伴っている感情も直截過ぎる。 何回か観ている作品だけどいつもそのように感じるの。 原作に一因が有るのかも。 でも劇場得意の電子的機械的美術と違ってマッス有る具体美術と出演者の多さの素晴らしさを味わえたのは大満足。 そして若さから脱皮する前のイム・セギョンに出会えたこともね。 *NNTTオペラ2017シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/opera/performance/9_009642.html

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル2日目)

■d-倉庫,2018.4.7-8 ■演出:カワムラアツノリ,劇団:初期型 ■コンピュータ分野での「初期」はリセットの意味合いが強い。 今回この劇団を初めて観て正に初期化を感じました。 しかも型にしている!?。 役者の一人が裸のもう一人のオチンチンを後ろから手を伸ばして隠している姿は人形遣いと人形そのものです。 この二人の姿こそリセットをし続けるハムレットマシーンにみえました。 そしてハムレットが父に対してこんなにも多くを費やすのか?という疑問が甦ってきた。 「ハムレット」を好きになれないのは実は父を想うハムレットがよく分からなかったからです。 正義の家系や正義の戦争が無くなった現代では男が父を語ることもまず無い。 二人の役者が語る父の姿は惨めですがほっとします。 「・・対人間は演劇で、対宇宙はダンスだ」と書いてあったが、役者たちが輪に座って声を出す姿は人間と宇宙を融合する姿にみえました。 この二つの混ざり合いが面白かった。 ■演出:身体の景色,ドラマターグ:田中圭介,音楽:松田幹,劇団:身体の景色 ■フェスティバルは毎回二本立てのようです。 今日の二本目は「身体の景色」。 変わった名前ですね。 作品タイトルだと勘違いしていた。 舞台は暗くて着物姿そして玉音放送や銀座ブギウギが流れてくる。 ハムレットの周りに6人ほどのオフィ-リアが倒れていて次々と演技をしていく。 腹の奥から出す声に特徴があります。 重みのある舞台にみえました。 「ハイナー・ミュラーの言う減速に共感する」と演出家?は言っている。 演出家はこれを「簡素・静寂・余白」で表現しようとしているようだがよく分からなかった。 減速が加速と表裏の関係であることも分かり難い理由かもしれません。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html

■高丘親王航海記

■原作:澁澤龍彦,脚本・演出:天野天街,出演:ITOプロジェクト ■ザスズナリ,2018.4.5-10 ■ITOプロジェクトは聞いていたがやっと観ることができた。 糸あやつり人形劇である。 パペットではなくマリオネットのほうだ。 キャスト紹介文に「糸は上に引くだけ・・、下に押すことはできない」。 つまり人形は浮遊感を持つ。 これが時空を一瞬に飛び越える天野天街の演出にマッチしたのだとおもう。 挨拶文に「ジカンとクウカンの意図を、そのはみ出したヘソノオの系で切り裂き分断せよ・・」。 その下に地図が載っている。 近江から南へ下り・・、琉球、広州、扶南、海南島、真臘、羅越、南詔、阿羅漢、獅子国・・。 東南アジアの懐かしさが未来へ過去へ行き来する時間に豊かに積み重なっていく。  天竺を目指す親王(みこ)の死への意識は作者に通ずるらしい。 「天竺を往復する虎に食われたい! そうすれば天竺に行くことができる」。 演出家得意のミニマム映像も空海曼荼羅のように効いていた。 ところで従者の一人秋丸の物語が中途半端だったのは残念。 真珠を飲んでしまっている作者はそこまで余裕がなかったのだろう。 人形はジュゴンやアリクイなどの動物、作者が紹介したハンス・ベルメールの球体関節人形まで登場して華やかである。 顔の表情が固定しているにもかかわらずここまで物語に入り込め時空を飛ぶことができたのは嬉しい。 *CoRich 、 https://stage.corich.jp/stage/88461

■ハムレットマシーン (HMフェスティバル1日目)

■d-倉庫,2018.4.4-5 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:赤井康弘,出演:サイマル演劇団 ■二本立てです。 先ずはサイマル演劇団。 車椅子に座っている男、傘をさしながらゆっくり歩く女、絡み合いながら床を転がる男女の、登場人物は4人ですが終幕まで状景は殆んど変わりません。 車椅子の男は科白の紙片をみながらしゃべり続ける。 同時に歩く女と絡まる男女は場面ごと交代で喋っていく。 車椅子の声が通奏低音のごとく奏でられ、その上にもう一つの声が重なっていくような構造です。 変化と言えば場面の境で照明と音響にノイズが入るくらいです。 事前に戯曲を読んできたのですが意味は断片になり押し寄せて来るだけです。 詩の朗読のようですが何故か面白みがありません。 詩的からほど遠い。 重声が聴きづらく通俗的です。 歩くこと床を転がることそして喋ることが機械的なことも一因です。 当にマシーンのようですね。 終幕、車椅子の男が立ち上がり倒れる。 演説のような録音も聞こえたようです。 観ているほうも身体が硬くなる舞台でした。 ■原作:ハイナー・ミュラー,演出:三浦雨林,劇団:隣屋 ■休息をはさんで次は劇団隣屋が登場。 同じ作品でもこんなに違うとは驚きです。 掛け合いのような演技をする男女とその影のようなダンサーの3人が登場します。 豆電球で作られた土俵で子供の遊びを真似てハムレットごっこをしていく。 二人はハムレットになりオフィーリアになりラスコリニコフになる。 原作を生身の役者に合わせて写像変換している。 それはハイナー・ミュラーを飛び越して作品内の作家たちと向き合っているようにみえる。 役者たちは独特な動きをしてダンサーと巧く同期を取っていきます。 途中、ドラえもんとのび太の場面があったが<演技をしない演技をしている>ようで劇的でした。 多くの場面で声を含めて身体への繊細感が伝わってきます。 演奏もシンプルな楽器を使い効果を高めていた。 久しぶりに感覚器官が全開しました。 *「ハムレットマシーン」フェスティバル参加作品 *劇場サイト、 http://www.d-1986.com/HM/index.html