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■ROMEO and TOILET

■演出:村井雄,出演:開幕ペナントレース ■シアタートラム,2016.2.25-28 ■ひさしぶりに笑ってしまいました。 体育会系のノリが伴奏として鳴り響いている舞台です。 この系は「これでもか!これでもか!」というリズムで言葉や身体に迫ってくるのですが最後に耐え切れなくなり吹きだしてしまう。 「ロミオとジュリエット」は二人にとって孤独な闘いに設定されているようです。 この闘いはトイレに行くのと同じらしい。 後半に展開する一本糞はとても面白い。 オールスタンディングの観客席を飛び回るのもノリリズムのため嫌味にならない。 そして衣装は精子を表しそれが二人のかなたの天の川まで広がっていることも生物的に深淵な背景を作りだしている。 ロメジュリ、トイレ、生殖がナンセンスな笑いに結び付いているパワーのある舞台でした。 *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/20160225romeoandtoilet.html

■原色衝動

■振付・出演:白井剛,キム・ソンヨン,映像写真:荒木経惟 ■世田谷パブリックシアタ,2016.2.26-27 ■広い舞台に椅子が二つ置いてある。 背景に映される写真は荒木経惟らしい。 知っている荒木の作品とは趣が少し違う。 レトロで深みある色の人形や花である。 二人が登場しキスをするような仕草、少し膨らんでいたチンポコから玩具の怪獣を取りだす。 エロティックな方向へ行くかと思いきや二人は深く悩み苦しんでいるようだ。 顔を紐で縛ったり、床を剥がしたり、それを椅子に縛り付けたりする。 踊るのは数場面で数分しかない。 白井剛の細かな心理表現と比較してキム・ソンヨンは大味である。 キムは身体も硬い。 子供の怪獣が成長し悩み始め出した頃の話に見えた。 ダンスよりパフォーマンスと言ってよい。 写真は終始同じ作品を使い面白味がない。 それよりも椅子を擦る音、コオロギや狼?の声、水の響きなどの音響が良かった。 しかし二人がどんなに苦しんでも写真と音楽の関係がバラバラで集中していけない。 白井剛を調べたら3年前に観ていた*1。 映像・音響・身体の関係を探求しているのはわかるが焦点が定まっていない感じである。 *1、 「NODE/砂漠の老人」(KAAT,2013年) *劇場サイト、 https://setagaya-pt.jp/performances/20160226genshoku.html

■Maikoマイコ、ふたたびの白鳥

■監督:オセ・スベンハイム・ドリブネス,出演:西野麻衣子 ■恵比寿ガーデンシネマ,2016.2.20- ■ノルウェー国立バレエ団プリンシパル西野麻衣子のドキュメンタリー映画なの。 このような作品では二種類がある。 それは<舞台の裏の表>を映すか<舞台の裏の裏>を映すか? これは後者の面白さがある。 つまり彼女の生まれ育った家族や環境のこと、夫や妊娠のこと、内面の葛藤や不安など関係者の感情があからさまに描かれているからよ。 彼女の押しの強さは母親譲りかな? 難波ハングリー精神の塊みたい。 バレエ団監督やスタッフが彼女と話す時は良い意味でドン引きしているのがわかる。 ノルウェーを大阪に引き寄せて踊っている感じだわ。 着物姿で白鳥を観に行く母親にもド迫力が漂っている。 親子の行動力、それと夫の協力が素晴らしい。 世界を股にかけて踊るということはこういうことなのね。 2015年作品。 *作品サイト、 http://www.maiko-movie.com/

■劇的舞踊「カルメン」再演

■演出・振付:金森穣,出演:NOISM,奥野晃士 ■神奈川芸術劇場,2016.2.19-21 ■「劇的舞踊」の劇的とは演劇的な意味かしら? 言葉の細部まで身体で表現しようとする振付なの。 パフォーマンスに近い無言劇にも受け取れる。 語り手の学者は物語へと誘う案内人ね。 そしてカルメンと周囲の人々が少しずつ見えてくる。 振付が寄り集まり物語を形成し時間軸に堆積していく。 その時間軸と舞踊の空間軸が交差するところに劇的舞踊が現れるのかもしれない。 カルメンの周りに死んでしまった人々が登場する終幕はその交差路の一つだわ。  衣装や小道具はスペインだけどダンスはそのようには見えない。 日本の土着文化の荒々しさを感じさせる振付だから、特にカルメンは。 黒マントの老婆の登場数が多くて混乱してしまった。 もう一人の案内人ね。 でも占カードの細かい仕草は頭で考えてしまい身体的に冷めてしまう。 カルメンのホセのスペインの哀愁を物語に閉じ込めたような舞台だった。 劇的舞踊とは何かを考えさせられた作品だわ。 *劇場サイト、 http://www.kaat.jp/d/CARMEN2016

■夜中に犬に起こった奇妙な事件

■原作:マーク・ハットン,演出:マリアンヌ・エリオット,出演:ルーク・トレッダウェイ ■東宝シネマズ六本木,2016.2.18-27(NT2012年収録) ■主人公クリストファは15歳の精神障害を持った少年らしい。 多分アスベルガーやサヴァン症候群でしょう。 インターネットで調べたレベルですが。 精神障害やアル中を扱っている芝居は苦手です。 芝居に入る前から壁の存在を意識してしまうからです。 クリストファの演技や役者間の動き、舞台装置は素晴らしい。 しかし隠してあった手紙を読んだあと父の釈明を聞いているクリストファは何を思っているのでしょうか? 母との似たような場面もありましたが彼からの答えはありません。 この壁を黙って見詰めるしかない。 周囲の愛情の遣り取りは豊かですが彼とは非同期な結びつきを描くだけです。 彼の頭の中は情報を処理するだけでオーバーフロー状態になってしまうのでしょうか? こういう作品をみるとデカルトやニュートンなどの近代科学、これを生み出したキリスト教西洋思想の伏流を強く感じます。 クリストファが身近に感じられると同時に、ヒトの意識と感情の探求を隠し描いているようにも見えてしまいます。 *NTLナショナル・シアター・ライヴ作品 *NTLサイト、 http://www.ntlive.jp/curiousincident.html

■アンティゴネー

■作:ソポクレス,演出:レオニード・アニシモフ,出演:東京ノーヴイ・レパートリーシアター ■東京ノーヴィ・レパートリーシアタ-,2016.2.18-27 ■「 曾根崎心中 」ではスーツ姿の役者を予想していたことを思い出した。 今回も予想が外れた。 なんと着物姿である。 箏や桶同太鼓も舞台に置いてある。 演奏者やコロスの歌唱も日本のようだ。 歌詞を覚えていないので題名が探せない。 喋り方も面白い。 抑えた裏声に聞こえる。 顔の中心だけの白塗りは仮面のようにも見えるし化粧にもみえる。 この劇団からはいつも驚きを貰える。 新王クレオンがアンティゴネ幽閉の決断を下す場面、盲目の預言者がハイモーンの将来を語る場面は抑えた声に緊張が走った。 しかし物語は淡々としている。 「私は憎しみより愛を選ぶ」とチラシにあったが、アンティゴネのこの言葉と共に息子の死を知ったクレオンの叫びも山彦のように聞こえ、そのまま時が何事も無く過ぎていく舞台であった。 近づくほどギリシャ悲劇は山彦になるのかもしれない。 *第26回下北沢演劇祭参加作品. *劇団、 http://tokyo-novyi.muse.weblife.me/japanese/pg555.html

■ロパートキナ-孤高の白鳥-

■監督:マレーネ・イヨネスコ,出演:U・ロパートキナ,A・ルテステュ,P・ラコット ■Bunkamura・ルシネマ,2016.1.30-(フランス,2015年作品) ■ウリヤーナ・ロパートキナは火星人にみえる。 身長があり手足が細長いからよ。 舞台ではこれを遺憾なく発揮する。 その姿は人間ではなく精霊のように。   アニエス・ルテステュ*1もインタビューに応じていたけど二人は長身なの。 このため男性ダンサーの身長にも気を使う。 ルテステュは相手を選ぶけどロパートキナは選ばない。 それは彼女のオーラが男性を黒子にしてしまうかよ。 「女性ダンサーが宝石で男性は宝石箱」の通りね。 ピエール・ラコット*2もロパートキナの舞台をみて「奇跡の体験」と語っている。 「チャイコフスキとバランシンを同時に理解している」ことにもよる。 彼女の「成功は忘れる。 そして次に進む・・」の厳しい言葉が思慮深くて絶妙な感情表現も創りだすのね。 話は逸れるけど昨晩のボリショイ・バレエ「じゃじゃ馬ならし」を見逃してしまったのは残念。 *1、 「至高のエトワール」(2013年) *2、 「バレエに生きる」(2011年) *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/82617/

■オペラ・クラブ・マクベス

■原作:W・シェイクスピア,台本:高瀬久男,作曲:林光,演出:眞鍋卓嗣,出演:こんにゃく座 ■吉祥寺シアタ,2016.2.5-14 ■舞台は劇中劇になっている。 しがないサラリーマンがある酒場に入るとそこでは「マクベス」を上演している。 そして男はいつのまにかマクベスを演じているではないか! 男が王冠を手にするまでの流れは素晴らしい。  酒場舞台上のマクベス夫人を見て(男の)妻ではないかと狼狽える場面、マクベスと(男が)少しずつ同期・一体化していく過程は面白い。 しかしなぜ王を殺すのか? 次々と事が起こる場面ではマクベスと夫人の葛藤や意思が見え難い。 解説のような科白と明るく歯切れの良い歌唱が続く為もある。 人物関係も予習をしておかないと判りづらい。 しかも後半は登場人物が入り乱れるためマクベスの不在が目に付く。 夫婦にもっと焦点を当てないと作品がぼやけてしまう。 歌劇というのは終わってからも演奏と歌唱の余韻で心地よい気分が続くのは嬉しい。 オペラを身近に感じさせる舞台であった。 ところで2幕(後半)は他オペラ劇団でも苦労しているらしい*1。 *1、 「マクベス」(MET,2008年) *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/72342

■純粋言語を巡る物語、バベルの塔2

■作・演出:あごうさとし ■こまばアゴラ劇場,2016.2.11-14 ■観客は全員立ち観だと知ったの。 これは必然的に観客参加型になるはず。 場内に入ると映像6画面が所狭しに並んでいて中央空間にはステレオスピーカもある。 でも玄人の機器配置には見えない。 そして岸田國士の作品を不在の役者が演ずると言うより朗読していくの。 「紙風船」では夫婦の会話の距離感や風景を映像とスピーカから消極的に流していく。 大きな画面は英語訳用かな? 「動員挿話」はさわりのほんの数分、「大政翼賛会と文化問題」はアジテータのように喋りながら場内はディスコ風に変身する・・。 「純粋言語とは思いをダイレクトに伝えられる言語、神と通信できる言葉」ということね? 夫婦の会話はそれに近づける位置にある。 役者が不在で音や映像だけだと一層意識してしまう。 劇場での純粋言語とは全ての事象を結び付け舞台にアウラを現前させる演算子なのかもしれない。  *チラシ、 http://stage.corich.jp/img_stage/l/stage55427_1.jpg?1455317403

■Men Y Men  ■ラ・シルフィード

■新国立劇場・オペラパレス,2016.2.6-11 ■Men Y Men ■音楽:S・ラフマニノフ,振付:W・イーグリング,指揮:G・サザーランド,出演:新国立劇場バレエ団 ■黒タイツで上は裸の男性ダンサーが9人で踊るのですが体育大学の学生にみえてしまいました。 組体操のような振付もあるからです。 荒々しさは良いのですが少し雑に感じられます。 金管楽器との微妙な関係が面白い。 しかし「ラ・シルフィード」との繋がりがみえないですね。 ■ラ・シルフィード ■音楽:H・ルーヴェンシュキョル,振付:A・ブルノンヴィル,指揮G・サザーランド,出演:小野絢子,福岡雄大,木下嘉人,堀口純,本島美和ほか ■舞台展開が早過ぎてあっという間に一幕が終わってしまった。 上演時間をみたら全70分らしい。 短いのは歓迎ですが、シルフィードは何を考えているのか占師マッジは何をしたいのか肝心のところが見えてこない。 ロマンティック・バレエですからこれでよいのかもしれないけど物足りません。 1幕のキルトでの、2幕のロマンテック・チュチュでの群舞は楽しくみることができた。 シルフィードとジェームスの技と表現の上手さには満足しました。 *NNTTバレエ2015シーズン作品 *劇場サイト、 http://www.nntt.jac.go.jp/ballet/performance/150109_006130.html

■同じ夢

■作・演出:赤堀雅秋,出演:光石研,麻生久美子,大森南朋,木下あかり,赤堀雅秋,田中哲司 ■シアタートラム,2016.2.5-21 ■日常の裏側をみるような舞台美術は気が滅入る。 トイレの掃除・親の介護・汚物の処理・老人の性欲・スーパーやコンビニでの粗雑な買物と食事が追い打ちをかける。 これだけの他人が一つの家に集まって来るのも現実味は無いが救える。 しばらくして目が釘付けになっていくのがわかる。 それは台詞と台詞の隙間がリズムミカルに観る者へ届くからである。 これが心地よいのだ。 この隙間には何も無いように見えるのだが人間関係のエキスが詰まっている。 これは役者身体と観客の相互で作り出すものである。 この演出家の作品は何回か観ている。 今までこの隙間は状況や風景に挟まれていた。 小津安二郎の方法に似ている。 今回は科白と科白に挟まれているところが違う。 映画的リズムを保ちながら関係性の遣り取りを舞台に巧く作れたように思う。 そして「いつでも夢を」がこれに共鳴し他者との繋がりに豊かさを作った。 昭雄と美奈代、元気と靖子の煮え切らない恋愛関係が何となしに終わってしまったのもストーリーを壊さなかった。 この題名にしたのも分かる気がする。 *劇場サイト、 http://setagaya-pt.jp/performances/20160205onajiyume.html

■真珠採り

■作曲:G・ビゼー,指揮:G・ノセダ,演出:P・ウールコック,出演:D・ダムラウ,M・ポレンザーニ,M・クヴィエチェン ■新宿ピカデリ,2016.2.6-12(MET2016.1.16収録) ■25歳ビゼーのオペラ出世作らしい。 ヒンズー教神々の名が歌われるから場所はインドかな。 祭儀場面もあるけど正確にはみえない。 キリスト教思想も取り入れている感じね。 形だけの真似事の為か宗教的感動はやって来ない。 ストーリーには津波もあるし大火もある。 でも三角関係を雑に省略しているから物語的感動も少ない。 終幕に頭領ズルカが尼僧レイラと漁夫ナディールを許すのが唯一の見せ場ね。 それよりこの三人の歌唱をジックリ聞かせるのがこの作品の目玉のようだわ。 なかなかの独唱と二重唱がちりばめられている。 でも歌詞は日常口語的な言葉で一杯なの。 翻訳なので分からないけど、この歌詞の生活感覚が作品を生き返らせている。 当時は批評家からは酷評されたようね。 でも一般聴衆から歓迎された理由がここにあるんじゃないかしら? *METライブビューイング2015作品 *作品サイト、 http://www.shochiku.co.jp/met/program/1516/