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■みんな我が子

■作:アーサー・ミラー,演出:イヴォ・ヴァン・ホーヴェ,出演:ブライアン・クランストン,マリアンヌ・ジャン=パブティスト,パーパ・エッシードゥ他 ■TOHOシネマズ日比谷,2026.6.19-(イギリス,2026年収録) ■舞台に入り込めなかった。 その理由は、演出が物語の具体性を意図的に削ぎ落としていたからだと思う。 大木だけがそびえる舞台装置、その背後に浮かぶ月のような円形の窓は、どこか 「ゴドーを待ちながら」 を思わせる抽象性を帯びている。 だが、その抽象性が ジョー・ケラー家の物語 を立ち上がらせる方向には働いていない。 人物描写も分かり難い。 喜怒哀楽の演技は程ほどに有るがどこか抽象気味で謎を持つ。 隣人やディーバー家との関係も、イメージとして自然と湧き起ってこない。 そのため、舞台はほとんど 科白だけで駆動する世界 となる。 科白に集中し、自分の持つ知識を総動員して補おうとするが、ひとつ聴き逃すと途端に理解の糸が切れてしまう。 初見の観客ならなおさら 珍紛漢紛 だろう。 何度も観ている私でさえ、今回は戸惑いを覚えた。 戦中・戦後という時代背景は、すでに観客の共有する「現在のリアリティ」から遠ざかっている。 イヴォ・ヴァン・ホーヴェは、ミラーの戯曲を20世紀の神話=ギリシャ悲劇 として再構築しようとしたのだろう。 しかし、その抽象化は、物語の土台となる社会的・歴史的具体性を薄め、結果として作品の核心に触れにくくしてしまったように感じた。 *NTLナショナルシアターライブ2026作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/105883/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、イヴォ・ヴァン・ホーヴェ ・・ 検索結果は10舞台 .

■レディエント・バーミン

■作:フィリップ・リドリー,翻訳:小宮山智津子,演出:白井晃,出演:清原果耶,井之脇海,池津祥子 ■シアタートラム,2026.6.8-7.5 ■フィリップ・リドリーの作品は、つねに予測不能な方向へ転がっていく。 本作でも、何が飛び出すのか分からないまま、呆気にとられつつ舞台の表層を滑るように楽しむことができた。 歯切れのよいリズムが観客に思考の余白を与えず、物語は加速し続ける。 ホームレスの登場を含め、題材としては重さを帯びうる要素を、作品はコメディホラーとして巧みに反転させる。 白一色の舞台は、アメリカンドリームを思わせる室内や庭園、さらにはスポーツカーへと自在に変貌し、観客の視覚的想像力を刺激する。 白井晃の演出と三人の俳優の身体性は、ストーリーテラーであり視覚芸術家でもあるリドリーの特質を、舞台上で最大限に解き放っていたと言える。 作品の毒と軽やかさ、その両方が鮮やかに立ち上がる上演だった。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/31083/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、白井晃 ・・ 検索結果は20舞台 .

■りんごが落ちる

■作:ノゾエ征爾,演出:金澤菜乃英,出演:浜田学,山口森広,梅舟惟永,宮川安利,大西多摩恵 ■新国立劇場・小劇場,2026.6.13-28 ■「・・嘘がないところを探っていこうとすると、演劇の現場を書くことになる」。 作者ノゾエ征爾はそう語っている。 私は舞台の仕事をしたことが無い為か、演劇の裏側を題材にした作品には強い興味を覚える。 関係者は舞台裏で何を考え、どのように世界を支えているのか。 本作では、主人公と思しき俳優が初日の舞台で科白を忘れてしまったらしい。 舞台芸術において科白を飛ばすこと自体は珍しいことではない。 私がよく観る能楽では、シテが科白を忘れれば地謡や後見が小声で伝え、囃子方もそれに合わせて進行する。 観客も大きく動揺することはない。 オペラにはプロンプターがいる。 こうした事故は、能やオペラが持つ強固な構造を揺るがすほどのものではない。 しかし現代演劇は違う。 科白の欠落が作品全体の意味や構造を大きく変えてしまう可能性がある。 作者はさらに「・・現場の生々しさを描写するのではなく、普遍的に捉えたい」と述べている。 その言葉どおり、終幕に向かうほど舞台は分かり難さが増したように思う。 演劇自体を劇中劇として扱い、その<普遍>を探ろうとする試みは刺激的だったが、演技・戯曲・劇団・劇場といった要素に確固たる<構造>を持たない現代演劇が<普遍>を語ろうとすると、どうしても発散してしまう。 それを作品は<日常>で包み込み、なんとか収束させていたように思う。 普遍に対する具体=日常=現場が突破口と考えるのも、現代演劇における一つの方法かもしれない。 作者の意図とした普遍は現場の中にはたして見つけられたのだろうか? 何とも言えない観後感を持った。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/nozoeseiji-newplay/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ノゾエ征爾 ・・ 検索結果は6舞台 .

■能楽堂六月「貰聟」「雲雀山」

*国立能楽堂六月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・貰聟■出演:大藏弥右衛門,大藏教義,上田圭輔 □能・観世流・雲雀山■出演:寺井榮,則久英志,野口能弘ほか ■国立能楽堂,2026.6.13 ■プレトーク「中将姫受難の物語」(高橋悠介解説)を聴く。 「古今和歌集」や「和漢朗詠集」などからの引用箇所を具体的に示しつつ、能「当麻」や世阿弥「申楽談儀」との関連を解説した。 また、中将姫に弟がいたこと、姫が七歳のときに母は亡くなったこと、姫は二度にわたり捨てられたこと、姫と継母の関係など、姫の出生と家族環境を丁寧に遡っていく内容であった。 能「当麻」は今年二月に当劇場で鑑賞しており、中将姫についてもその際に調べていたため、今回のプレトークは理解しやすく、親しみをもって聴くことができた。 能「雲雀山(ひばりやま)」は、シテ・ワキの計算された入退場、子方である中将姫の存在感、鷹匠や犬遣による寸劇など、変化に富んだ舞台であった。 シテの侍従は後場になると性格の強さが際立ち、頼もしさを感じさせる<姉御>のような人物像が立ち上がる。 父娘の再会で幕を閉じる構成も温かく、後味の良い一曲であった。 シテ面は「曲見(しゃくみ)」。 狂言「貰聟(もらいむこ)」も以前に当劇場で観ている作品である。 「夫婦・親子の人情の機微を描いた佳作」と評されるだけあり、上演機会が多いのも頷ける。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85010/

■アサッテの人

■原作:諏訪哲史,構成:劇団7度,演出:伊藤全記,出演:山口真由,飴屋法水 ■調布市せんがわ劇場,2026.6.3-7 ■場内案内係の関西弁らしき特徴のある発音を聞いた瞬間、係が役者の山口真由であることを思い出した。 そして、久しぶりに見る飴屋法水のかすれた声や不自然な足取りは、果たして演技なのだろうか。 判断に迷うほど素直で、しかし二人は観客に寄り添うようにフレンドリーな空気をまとい、やがて、おもむろに幕が開く。 物語は、主人公である<私>が行方不明の<叔父>を語る流れらしい。 山口真由が<私>を中心に演じつつ、時に複数の役柄を軽やかに切り替える。 一方、飴屋法水は小道具や楽器を用いて擬音を生み出し、舞台の背景を描きながら、ときには<叔父>そのものにもなる。 叔父が「キツツキ」という声を発するのに苦労する場面がある。 それまで叔父が発していたオノマトペが何を意味していたのか不思議に思っていたが、この瞬間、叔父の謎がひとつ解けたように感じられた。 しかし舞台はそこで終わらない。 吃音を抱える叔父は、発声という武器を使って日常世界に裂け目をつくり、その境界へと観客を導いていく。 うまく言えないのだが、かつてロラン・バルトを読んでいたときに覚えた、言語が世界の割れ目を露わにするような不思議な感覚に近い。 ただし今回は、それが読書ではなく舞台からやってきたのだ。 このような感覚を与えてくれる舞台は滅多にない。 飴屋法水の崩れた身体から発される<叔父>のオノマトペと、山口真由の独特な発声の<私>の科白が、なぜか不思議と溶け合い、劇的な瞬間を立ち上げていた。 普段は気にも留めない声の不思議さ、言葉の不思議さ、そして日常世界そのものの不思議さを考えさせられた。 <アサッテ>とは、おそらく世界の割れ目の向こう側のことなのだろう。 アフタートークは諏訪哲史と演出家(名前を忘れた)だったが、都合で聴くことができなかったのは残念である。 そして原作を読むべきかどうか。 「観たら読まない、読んだら観ない」をモットーにしているのだが、今回はそれが揺らいでいる。 *第15回せんがわ劇場演劇コンクールグランプリ受賞作品 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/444704 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、伊藤全記 ・・ 検索結果は5舞台 .

(キャンセル)■能楽堂六月「呂蓮」「氷室」

*国立能楽堂六月定例公演の2舞台□をキャンセルする. □狂言・大蔵流・呂蓮■出演:松本薫,茂山千五郎,島田洋海 □能・金春流・氷室■出演:櫻間右陣,伊藤眞也,北山晴彦ほか ■国立能楽堂,2026.6.3 ■台風6号のため観劇は諦める。 まっ、仕方ない・・。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85009/

■エンドゲーム

■作:サミュエル・ベケット,翻訳:岡室美奈子,演出:小川絵梨子,出演:近江谷太朗,佐藤直子,田中英樹,中山求一郎 ■新国立劇場・小劇場,2026.5.20-31 ■タイトルを聞いたときは新作かと思ったが、作者名を見てベケットの「勝負の終わり」だと気づいた。 記録を確認すると、2006年9月にシアタートラムで佐藤信演出の上演を観ていたようだが、内容をほとんど覚えていない。 ベケット作品は、こちらの身体や精神の状態によってリズムに乗れるかどうかが決定的に左右され、評価が大きく揺れる。 今日も序盤は眠気に襲われたが、ハムが物語を語り始めるあたりから脳が一気に目覚め、終幕まで緊張感を保って観ることができた。 今回の出演者は、オーディションで選ばれた4人とのこと。 両親の死に対して無神経にも見えるハムの短い台詞、居留守を使うクロヴがふと見せる父へのさりげない愛情、それを微かに受け止めるハムの反応、そうした細部に、裏のない誠実な演技が宿っていた。 ベケットの核心に迫るための条件のひとつは、この誠実さなのかもしれない。 久しぶりにベケットと真正面から出会えたような気分になった。 今日の観客席は配列や高さがいつもとは違っていた。 座布団も2枚重ねになっている。 舞台も見え難い。 いかにも小劇場という雰囲気がでていた。 ところで、クロヴがハムを窓際へ連れて入った場面で、急に声のトーンが変わってしまった。 舞台端はマイクの感度が良いので声を多く拾ってしまったのだろう。 近頃は多くの小劇場でもマイクを使っているようだ。 しかし、ここまでして声を平均化する必要があるのだろうか? 場面状況で声が乱れることはよくある。 役者の生の声を聴けないとは、何のための芝居なのだろうか。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/endgame/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、小川絵梨子 ・・ 検索結果は23舞台 .

■能楽堂五月「止動方角」「千手」

*国立能楽堂五月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・止動方角■出演:野村萬斎,野村裕基,石田幸雄,飯田豪 □能・観世流・千手(小書:郢曲之舞)■出演:坂口貴信,上田公威,舘田義博ほか ■国立能楽堂,2026.5.13 ■能「千手(せんじゅ)」は今回が初見である。 捕虜として鎌倉に幽閉されている平重衡は、まもなく(処刑のため)京へ送られる運命にあった。 源頼朝のはからいにより、前夜、狩野介宗茂と千手の前が酒宴を設け、束の間の慰めの時を過ごす。 本作は「平家物語」を典拠とした金春禅竹の作と言われている。 死を目前にした重衡と、彼を慰めようとする千手の心の揺れを、千手の動 と重衡の静の対照によって描き出している点が興味深い。 後半は千手の舞が続き、途中一ノ松まで進んだところでシオリが入る。 やがて武士たちに囲まれ鎌倉を後にする重衡を見送りながら、千手の涙は止むことがない。 外へあふれ出る千手の情感 と、内に乱れを抱えつつも動じぬ重衡の姿 が、生と死の境界を観客に強く意識させる。 全体として緊張感に満ちた舞台であった。 シテの坂口貴信は、昨年八月の袴能「砧」でも観ているが、初めて聞く声はよく響き明晰に届く。 小書「郢曲之舞(えいぎょくのまい)」が入り、シテ面は「相生増(あいおいぞう)」であった。 狂言「止動方角(しどうほうがく)」も初見の曲である。 <止動方角>とは、暴れる馬を鎮めるための呪文のこと。 横暴な主人と我儘な太郎冠者の応酬が見どころで、馬も登場するため、複雑な所作と言葉が入り、演者にとって難度の高い曲であることがよく分かる。 これを野村萬斎と主人役の野村裕基の親子が演じることで、作品の複雑さが一層面白さへと転化していた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85006/

■能楽堂五月「鬼瓦」「浮舟」

*国立能楽堂五月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・鬼瓦■出演:三宅右近,三宅近成 □能・観世流・浮舟(彩色)■出演:馬野正基,村山弘,三宅右矩ほか ■国立能楽堂,2026.5.9 ■プレトーク「二人の男に愛された苦悶と狂乱」(梅内未華子解説)を聴く。 源氏物語最後のヒロインである浮舟と、彼女を取り巻く人間関係について語られ、「源氏物語」を中心とした内容であった。 プログラム解説には、室町時代の武士から見た源氏物語の位置づけ、能「浮舟」の作詞を行った横越元久、そして節付を担当した世阿弥についても触れられていたが、こうした能と直接結びつく裏話を、プレトークでもう少し聞きたかったところだ。 能「浮舟(うきふね)」のシテを務めた馬野正基は、私にとって初見の役者である。 声の質やリズム、謡の流れに特徴があり、プレトークの題名が示すような激しい「苦悶と狂乱」というより、全体としてさっぱりとした印象の舞台となった。 小書「彩色(さいしき)」である<イロエ>が<カケリ>の前に入り、浮舟の心の揺れを増幅していたものの、後シテの面「増」が色白で清楚な趣を湛えていたためか、舞台は落ち着いた流れを保っていた。 面は前シテの「小面」(古元休作)から後シテの「増」(是閑作)へと替わる。 狂言「鬼瓦(おにがわら)」は、当劇場で二年前にも観ている。 鬼瓦のような顔であっても、妻のもとへ早く帰りたいという夫の姿が微笑ましい。 最後を寛大な笑いで締めくくる「笑い留め」がよく効いており、今回も気持ちよく一曲を味わうことができた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85005/

■マライの虎、ハリマオ

■演出:モハマド・ファレド・シャイナル,出演:シティ・カリジャ・ザイナル,ガフィル・アクバル,北川麗,杉山賢,ダレン・クォ ■静岡芸術劇場,2026.4.25-26 ■プレトーク(大澤真幸解説)は作品の背景を簡素にまとめたもので観劇の助けになった。 今回の舞台は、1943年に古賀聖人監督が撮った映画「マライの虎」を再構築し、現代の視点から立ち上げ直す試みであるという。 この映画は当時の少国民に人気が高かったと聞く。 イギリスの植民地支配、日本軍の占領、戦後のマレー人と中国人の対立など、現代マレーシアを形づくった歴史が、日本軍の視線を通して凝縮されている点が、この題材を選んだ理由なのだろう。 劇中では日本はアジアを解放したのか?という問いが発せられる。 「日本は資源(石油)が欲しかっただけだ」「この映画の結末は行き止まりだ」と言った、当時のプロパガンダを相対化する台詞も挿入される。 また「中国人は抵抗、マレー人は協調」といったステレオタイプを扱いながらも、断定を避け、歴史の複雑さに触れる姿勢が貫かれていた。 終盤で語られる「歴史そのものを守りたい。 歴史は無限に改定されていくために開かれていなければならない」という言葉はこの舞台の核心だろう。 同時にそれは現代マレーシアの姿にも重なる。 一方で、客席からしばしば笑いが起きていた。 緊張と諧謔が交錯する独特な演出意図によるものだろう。 ハリマオと言えば、私にとってはテレビドラマ「怪傑ハリマオ」の記憶がまず蘇る。 小学生の頃、夢中で画面にかじりついていた。 主題歌はいまでも耳の奥に残っている。 そして舞台を観ながら、ふと父のことを思い出した。 父は陸軍兵士として南方の各戦線を転戦し、最後はシンガーポールでイギリス軍の捕虜になった。 「イギリス軍の弁当は一つで二食分あり、それぞれに紙で包んだ煙草が二本入っていた」。 煙草好きの父は、小学生の私にその話を何度もしてくれた。 それだけ、イギリス兵から受け取った<煙草付の弁当>が強烈な印象だったのだろう。 日本軍が敗北した理由の一つに、兵站の欠如にあると言われている。  父は弁当をみてそれを感じ取ったはずだ。 食料は現地調達に頼り、戦況が悪化すると略奪や暴力へと転じ、最後は餓死に至る。 この構造は資源や食料の確保が不安定な現代日本にも、どこか通じるものがある。 大災害...

■能楽堂四月「枕童子」「柑子」「松風」

*国立能楽堂四月特別公演の三舞台□を観る. □仕舞・宝生流・枕慈童■出演:大坪喜美雄,佐野弘宣,佐野由於,金井雄資,藤井秋雅 □狂言・和泉流・柑子■出演:野村萬,野村万蔵 □能・観世流・松風(見留)■出演:観世清和,観世三郎太,宝生常三,野村万禄ほか ■国立能楽堂,2026.4.24 ■「枕慈童(まくらじどう)」は、まるで日本酒の宣伝作品のように感じられた。 「・・酔ひに、引かれてよろよろよろよろと」という詞章が象徴的で、さらに薬としての効能まで説くのだから面白い。 観終わったその晩は、つい晩酌の量が増えてしまう。 なお、プログラムでは地謡四人と記されていたが、実際は三人であった。 「柑子(こうじ)」では、太郎冠者が三つ目のミカンを食べてしまった理由を、俊寛僧都が鬼界島に残された故事になぞらえて釈明する。 「三個とも六波羅(=腹)へ帰すべきだ」という言い訳の飛躍が愉快で、引き合いに出した物語との落差が笑いを誘う。 今日の「松風」は、舞台の隅々にまで緊張感が張りつめた、密度の高い上演だった。 地謡は情感の起伏を明確に描き、大鼓は囃子全体を牽引する。 シテの声はよく通り、これらが一体となって観客へと迫ってくる。 まさに統合力の賜物であり、この力こそプロフェッショナルの証と言えるだろう。 面はシテが「節木増」(越前出目作)、ツレが「小面」(大和作)。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85004/

■能楽堂四月「岡太夫」「鞍馬天狗」

*国立能楽堂四月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・岡太夫■出演:善竹隆司,善竹十郎,野島伸仁,善竹大二郎 □能・宝生流・鞍馬天狗■出演:辰巳満次郎,内藤瑞駿,飯冨雅介,善竹隆平ほか ■国立能楽堂,2026.4.11 ■プレトーク「鞍馬山という名所からみる牛若丸と鞍馬天狗の出会い」(中尾薫解説)を聴く。 鞍馬寺で過ごした義経を「平治物語」から、鞍馬山の歌枕を「古今和歌集」から引きながら話が進む。 鞍馬(くらぶ=暗部?)という土地が持つ幽暗なイメージと、敗者としての源氏の影が重なり、そこに山伏というダークヒーローが現れる構図が面白い。 一方で、この作品は桜の名所が紹介され、花見の場面では多くの子役が登場するため、明かるい趣向も多い。 舞台は暗→明→暗→と反転しながら展開し、終幕では源氏再興を予感させる語りで締めくくられる。 作者は室町時代の宮増と伝わるが確証はない、などの解説を受けた。 能「鞍馬天狗(くらまてんぐ)」は十五人もの役者が登場するが、そのうち七人が子方で、四歳ほどの幼い子もみえる。 その一人、牛若丸は溌剌として声も澄み清々しい。 対して山伏は太く落ち着いた声と風貌で、両者の対比があまりにも鮮やかで戸惑うほどだったが、舞台全体は変化に富み楽しく観ることができた。 すっかり忘れていた、子供時代に出会った嵐寛寿郎の鞍馬天狗を思い出したりもした。 後シテの面は「大癋見(おおべしみ)」(是閑作)。  天気が良かったので和服姿の観客も多く、劇場は和やかな雰囲気に包まれていた。 今日は脇正面席に座ったが、演奏や声の響きが良くて、正面席より音響が優れているように感じる。 視覚的に観るなら正面席、音を味わうなら脇正面席だろう。 狂言「岡太夫(おかだゆう)」は「和漢朗詠集」からの引用が多い作品である。 聟が舅宅へ挨拶に訪れた際の玄関でのやり取り、酒宴の席での振舞が整然としていたのが印象的だ。 嫁と聟との教養の差が、どこか皮肉として浮かび上がる舞台でもあった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85002/

■能楽堂三月「鷺」「名取ノ老女」

*国立能楽堂三月企画公演の二舞台□を観る. □復曲狂言・鷺■出演:野村萬斎,野村万作,笛:竹市学 □復曲能・名取ノ老女■出演:武田孝史,宝生和英,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2026.3.28 ■二舞台はいずれも復曲作品である。 狂言「鷺(さぎ)」は、太郎冠者が都で見聞した、醍醐天皇が神泉苑へ行幸した際の鷺の逸話を主人に語り、その姿を真似て舞を舞うという趣向の作品だ。 見どころは何といっても鷺舞である。 鷺の神経質な身のこなし、田圃を歩くときの慎重な足運び、そして飛び立つ軽やかさまで、要点を押さえた動きが実に楽しい。 この作品は2年前に山本凛太郎・山本東次郎の出演で観ているが、今回の舞台と比べると、粗筋や鷺舞の表現に違いがあり、似て非なる味わいが興味深い。 「名取ノ老女(なとりのろうじょ)」は<時間>が持っているメロディーとリズムが豊かに変化していく作品である。 前場では、老女の過去と現在が溶け合うように流れ、ゆったりと漂う時間が舞台を支配する。 ときどき、孫娘の甲高く澄んだ声が、未来の時間として差し挟む。 後場で早笛が入ると、護法善神が登場し、時間は一転して激しい雷雨のように押し寄せる。 まさに彼岸の時間を此岸へ持ってきたような感じだ。 護法善神は災難を除き悪魔を払い、老女に子孫までの加護を告げ去っていく。 そして舞台には、観客の心に至福の<時間>が残る。 面は名取ノ老女が「老女」、護法善神が「鷹」であった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7050/

■ROOM Rhapsody in White

■作・演出:佐藤信,出演:服部吉次,桐谷夏子,内沢雅彦,龍昇ほか,劇団黒テント ■スズナリ,2026.3.18-22 ■主人公の潜水夫が就職先へ赴くものの、就業書類の不備によって手続きが滞り、待ち続けることになる、そんな物語である。 舞台は白一色で統一され、そこに白い机と椅子が置いてあるだけだ。 チラシには「・・待ち続けている、あの部屋で」とあったが、当初は不条理劇「ゴドーを待ちながら」の系譜かと思われた。 暫くして、役所の業務が迷宮化していることが、主人公を待たせる原因であるとわかり、むしろ「カフカの城」に近い世界観が立ち上がってくる。 実際、役人と住民の滑稽で無意味にもみえる遣り取りが延々と続いていく。 科白は詩的で断片的なため、ストーリーは殆ど存在しない。 昭和を思わせる唱歌や踊り、さらには歌謡曲「帰り船」まで歌われる一方で、サイレンや砲弾の破裂音も響く。 役者たちの淡々とした演技が詩的な台詞と調和し、舞台全体に独特のリズムを生み出していた。 刺激的な場面もあっが、どこか落ち着く舞台だった。 場内で配られた演出家の「稽古場ノート」には、千田是也から「信は物語が書けないからな」というエピソードが記されていた。 今日の舞台を観て、この指摘が示すところの<一つの完成形>に佐藤信は辿り着いたのではないのか、そんな思いが胸に浮かんだ。 *劇団黒テント第80回公演 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/410582 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、佐藤信 ・・ 検索結果は8舞台 .

■フィフス・ステップ

■作:デヴィド・アイルランド,演出:フィン・デン・ヘルトック,出演:ジャック・ロウデン,マーティン・フリーマン ■TOHOシネマズ日比谷,2026.3.20-(ソーホー・プレイス,2025収録) ■6メートル四方の簡素な舞台、その周りに観客が取り囲み親密な雰囲気を映し出している。 物語は、アルコール依存症のルカが、カウンセラーであるジェームスを世話役として選ぶ場面から始まる。 二人だけで進む対話劇は、断酒更生プログラムである「告白の瞬間」に向けて緊張を高めていく。 それにしても、語られる多くが<酒>より<性>に関わるものだという点が印象的だ。 ルカの日常の「性行動」が次々と明かされ、その背景にはキリスト教的な価値観や慣習も織り込まれていく。 そして「告白の瞬間」では、ジェームスの妻までもが物語に巻き込まれてしまう。 この作品はアルコール依存症の話ではない。 むしろ<カウンセラー>=世話役とは何か? 性欲を例にとり、その役割を問いかけているように思われる。 世話役の構造は、キリスト教の<告白>とよく似ている。 しかし舞台が進むにつれ、患者(依頼人)と世話役の立場は徐々に溶け合い、対等な関係へと変化していく。 その過程は、キリスト教の慣習そのものが揺らぎ、溶解していく様子を暗示しているようでもある。 告白を真似たカウンセリング手法の衰弱を垣間見る舞台だった。 情報過多の現代では告白は難しい。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2026作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104637/

■能楽堂三月「横座」「祇王」

*国立能楽堂三月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・横座■出演:三宅右矩,高澤祐介,金田弘明 □能・金剛流・祇王■出演:今井清隆,金剛龍謹,舘田善博ほか ■国立能楽堂,2026.3.14 ■まず、プレトーク「祇王と<女どうしの絆(シスターフッド)>」(田中貴子解説)を聴く。 「<祇王>は上演機会が少なく金剛流での公演は特に珍しいこと」「出典は<平家物語>だが能作者は不明」「相舞が見せどころであること」「作品にはシスターフッドの要素が濃いこと」などが紹介された。 また、白拍子についても詳しい説明があった。 今様は歌(謡)が中心で、白拍子は舞を主にしながら歌うこと、遊女や傀儡は座って芸をするのに対し、白拍子は立って芸をすること、当時は女性が立つのははしたないとされたこと、白拍子は芸能者として差別されず、自宅を拠点に営業し、母から娘へと芸を継ぐ女系の職能集団であったことなど、白拍子の社会的背景が語られた。 また世阿弥の時代には白拍子は衰えて曲舞になった。 このことから今日の舞台は曲舞と言える。 またプログラムに掲載された「能<祇王>の背景ー白拍子と曲舞」(兵藤裕樹己著)も併せて読む。 導師と助音、座頭(検校)と弟子、瞽女とツレ、そして能のシテとワキ(ツレ)など、芸能者の「二人づれ」の関係性が論じられており、そこからシスターフッドへと繋がる視点がみえてくる。 能「祇王(ぎおう)」の上演時間は60分と比較的短い。 祇王と仏御前が清盛のもとに参上し、二人の相舞、絆の誓い、そし仏御前の破の舞で終わる構成であり、やはり相舞が最大の見どころだろう。 面はシテが「小面」、ツレが「孫次郎(金剛景頼作)」。 プレトークとプログラム記事、そして舞台の三点が揃い、作品世界を深く味合うことができた。 狂言「横座」は、行方不明になった牛の持ち主をどのように決めるかという筋立てで、最期に巧みなオチがつく。 能とは対照的な軽妙さで楽しめた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7048/

■能楽堂三月「左近三郎」「須磨源氏」

*国立能楽堂三月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・左近三郎■出演:大藏彌太郎,吉田信海 □能・観世流・須磨源氏■出演:西村高夫,福王和幸,村瀬堤ほか ■国立能楽堂,2026.3.4 ■「須磨源氏」では、光源氏が前場では老人として、後場では若き貴公子として登場する。 その姿が舞台に現れた瞬間、こちらの想像も一気に広がっていった。 しゃがれた声でゆっくりしゃべるシテを見ていると、あの光源氏も年老いてしまったのかと自然に納得させられる。 後場では声の調子を一変させ、早舞も爽快にこなす。 面は前場の「笑尉」から後場の「中将」へと変わるが、シテの体格のためか後場の面がやや大きく見え、どこかずんぐりした印象の光源氏になっていた。 でも、これこそが当時の貴公子らしい気品として強く伝わってきた。 衣装も緑系で落ち着いた趣があり、「青鈍(あおにび)の狩衣」と記されていたが、舞台上ではより鮮やかに映っていた。 「なほも多生を助けんと、兜率天より、再びここに天降る」。 光源氏の言い訳にも聞こえる。 ただただ此岸が恋しいと素直に言えばよいのに、と思ってしまった。 狂言「左近三郎(さこのさむろう)」は締りのよい構成の作品である。 猟師と禅僧が、「殺生せよ、殺生せよ、刹那も殺生せざれば、その身地獄へ矢のごとく」「善悪不二」といった禅宗の戒律をめぐって問答を交わし、最期には両者が納得して幕が下りる。 緊張感に満ちた舞台で、短いながらも愉快な時を過ごせた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7047/

■能楽堂二月「子盗人」「高砂」

*国立能楽堂二月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・子盗人■出演:高野和憲,中村修一,深田博治 □能・観世流・高砂■出演:山﨑正道,山﨑友正,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2026.2.28 ■プレトーク「近代絵画はどう「高砂」を描いたか」(小林健二解説)を聴いた。 今月の演目に合わせ「松浦佐用姫」「鉢木」「高砂」に沿った内容で、梶田半古「比禮婦留山(ひれふるやま)」と菱田春草「時頼図」それに川村清雄「高砂」が紹介される。 解説は短い時間だったが、プログラムに掲載された絵を見返しながら物語世界に再び入り込むことができた。 春草の「時頼図」ではワキの北条時頼を描かれている点が興味深い。 また川村清雄の「高砂」には亀は描かれているが鶴がいない。 これは画面右下の和歌「たづ(鶴)のゐる・・」にその存在を託しているのだろう。 世阿弥作の「高砂」が和歌や漢詩句を巧みに織り込んだ緻密な詞章を特徴とすることを思えば、画家もまた世阿弥の手法に呼応して描いたのかもしれない。 「高砂(たかさご)」はワキの登場から舞台全体を力強いテンポで包み込む。 続いて現れるシテの尉とツレの姥が橋掛かりで見つめ合う姿は、時間がふっと止まった静謐さを帯びていた。 後場ではシテ住吉明神が舞う神舞の力強さに再び圧倒される。 動と静の対比が鮮烈で、しかも詞章の練度が高いため舞台に確かなリズムが生まれている。 テンポとリズムが見事に統一された、世阿弥の完成度が高い作品だ。 久しぶりに脳味噌がピクピクと喜ぶような体験をした。 面は前シテが「小尉(洞白作)」ツレは「姥」、後シテは「変霊神(かわりれいしん)」。 狂言「子盗人(こぬすびと)」は盗人が寝入っていた子の可愛さに心を奪われ、盗みを忘れて子をあやしてしまうという、人の温かさがにじむ作品である。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7046/

■能楽堂二月「泣尼」「松浦佐用姫」

*国立能楽堂二月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・泣尼■出演:大藏基誠,大藏彌右衛門,大藏教義 □能・観世流・松浦佐用姫■出演:関根知考,大日方寛,大藏彌太郎ほか ■国立能楽堂,2026.2.18 ■狂言「泣尼(なきあま)」は、説法を頼まれた住職が自信の無さから尼を同伴し、法談の最中に泣いてもらうことで場を取り繕うとする。 しかし肝心な場面で尼は居眠りをしてしまう。 約束した布施の分け前をどうするか、損得が絡む一曲である。 「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」は世阿弥作と伝わり、2000年に観世流の公定演目に採用された比較的新しい曲とある。 事前に詞章を読んだ段階では物語に深みは感じるものの、舞台のイメージが掴みにくかった。 しかし実際の上演では、詞章が役者の身体を通して立ち上がり、佐用姫の心の揺れが鮮やかに伝わってくる舞台となっていた。 前場での佐用姫と遣唐使・狭手彦との出会い、後場では遣唐船が見えなくなるまで領巾を振り続ける姿、そして形見の鏡を手に入水する終幕まで、胸が締めつけられる思いだ。 解説に「後シテが鏡に映る趣向は「井筒」と同じ・・」とあったが、まさに「井筒」を想起させる工夫にみえて、世阿弥らしい巧らしさも感じられた。 力強い地謡が物語を引っ張っていたのも印象的であった。 シテの発声が澄んでいたら佐用姫により近づけたかもしれない。 面は前シテが「棹さし(近江作)」、後シテは「小夜姫(龍右衛門作)」で物語の陰影を支えていた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7044/

■未練の幽霊と怪物、「珊瑚」「円山町」

*「円山町」,「珊瑚」の2作品を観る. ■作・演出:岡田利規,音楽:内橋和久,謡:里アンナ,出演:アオイヤマダ,小栗基裕,片桐はいり他 ■神奈川芸術劇場・大スタジオ,2026.2.13-3.1 ■いずれも能楽のフォーマットを応用した音楽劇である。 2021年上演の「挫波(ザハ)」「敦賀」がとても刺激的だったので、今回も期待してチケットを購入した。 舞台は簡素ながらも橋掛かりが設けられ、囃子方が一人、地謡が一人座る。 幕が開いても照明は変化せず、客席が明るいままという設定が独特の緊張感を生む。 シテ役は直面で登場する。 「円山町」では仕事で成功しながら夜の街で他殺に遭った、表裏のある女性がシテとして現れる。 「珊瑚」では沖縄・辺野古の米軍基地建設で滅ぼされた湾の珊瑚がシテとなる。 どちらも「社会とその歴史の犠牲者」である共通点を持つ存在だ。 前場では、まずワキが状況を語り、前シテが現れて過去を振り返る。 中入りではアイが物語を補足する。 囃子の演奏を背景に、役者と地謡の詞章が絡み合い、舞台に緊張感が生まれる。 後場に入ると科白は極端に少なくなり、後シテの舞が長く続く。 その舞(ダンス)は次第に激しさを増し、狂おしいまでの表現へと向かう。 両作品とも、犠牲者の姿を言葉よりもパフォーマンス的なダンスで表現しているように感じた。 「珊瑚」のシテは人間ではないため、ダンスと謡いだけで十分に世界観が伝わる。 しかし「円山町」では、後シテが心の内を詞章として吐露する場面がもっと多くてもよかったのではないだろうか。 なぜ此岸へ戻って来たかが曖昧なままであった。 岡田演出特有の、ゆっくりと捻りの効いた身体の使い方と非感情的な発声は、能の形式にとても馴染んでいた。 また、アイ役片桐はいりによる忙しい語りが舞台にリズムを与えていた。 役者たちの身体が異化されていく面白さが、目の前で立ち上がる舞台だった。 さらに渋谷という繁華街の空気感、沖縄のサンゴ礁の広がりといった、場所性を反映した衣装が視覚的な楽しさを添えていた。 特に「珊瑚」の後シテの衣装は、色彩とデザインで海中世界を想起させ、観る者の想像力を刺激していた。 *劇場、 https://www.kaat.jp/d/miren2026 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、岡田利規 ・・ 検索結果は15舞台 .