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■私は海をだきしめていたい ■春の祭典(改訂版)

*以下の2作品□を観る. ■彩の国さいたま芸術劇場・大ホール,2026.7.25-26 □私は海をだきしめていたい ■演出:金森穣,音楽:エリック・サティ,衣装:井深麗奈,映像:遠藤龍,出演:金森穣,井関佐和子,山田勇気ほか ■坂口安吾が1947年に発表した短編小説 「私は海をだきしめていたい」 は未読である。 無頼派の安吾がエリック・サティに興味を寄せていたことも今回初めて知った。 かつて私自身も、暇なときにサティのCDを流しっぱなしにしていた時期があったが、いまはすっかり遠ざかっている。 金森穣がサティをどのように料理するのか、その解釈に惹かれて<彩の国>へ向かった。 思いもよらぬフロックコートとシルクハット姿の男性ダンサーが登場し、冒頭から軽い混乱を覚えた。 安吾の小説を読んでおけばよかったと一瞬思ったが、もはや後の祭りである。 女性ダンサーは赤いドレスで現れ、どこかマリリン・モンローを素直にしたような雰囲気をまとい、きわめてセクシーである。 振付もそのキャラクター性に沿って構成されていた。 サティのピアノ曲は六曲前後を選び、そこから物語の流れを組み立てていた。 歩行場面ではゆっくりと摺足を用いる一方、動きの質はピアノ曲らしい爽快さを保っている。 途中、私はふとオペラ 「椿姫」 を連想してしまった。 後半、背景に波の映像が投影されると、急に「海」のイメージが強調され、ストーリーの軸が一瞬揺らいだように感じた。 むしろ安吾の存在を意識から外して観る方が正解だったのかもしれない。 サティを「椿姫」に近い大人の情感へと寄せた振付は、私にとって非常に魅力的であった。 □春の祭典,改訂版 ■演出:金森穣,音楽:I・ストラヴィンスキー「春の祭典」,衣装:RATTA・RATTARR,椅子:須長檀,井関佐和子,山田勇気,庄島さくら,坪田光ほか ■白いワイシャツに白い半パンという衣装は、若者らしい軽やかさを帯びており、「春の祭典」が本来もつ儀式性を一度ほどいて、現代の青春像へと接続する効果を生んでいた。 椅子の使い方も単なる小道具ではなく、若者の身体が寄りかかり、跳ね返し、支点として利用することで、青春期特有の不安定さと衝動を象徴していた。 観後に調べると、私は2021年7月の初演を観ていた。 今回の改訂版は、構成がより整理され、群舞の動線や身体の関係性がすっきりと見えるよう...

■能楽堂七月「チャッキラコ」「加茂」「御田」

*国立能楽堂七月企画公演の三舞台□を観る. □チャッキラコ■ちゃっきらこ保存会(神奈川県三浦市) □能・宝生流・加茂■出演:宝生和英,藪克徳,辰巳和麿,野口能弘ほか □間狂言・大蔵流・御田■出演:茂山逸平,茂山茂,茂山宗彦ほか ■国立能楽堂,2026.7.25 ■プレトーク「チャッキラコ」(高久舞解説)を聴く。 女性の音頭取りの歌に合わせて女児が踊る芸能で、「風流踊」や「小歌踊」に類別される。 踊り子が手に持つ綾竹を「チャッキラコ」と呼び、海への感謝と豊魚を願う踊りであること、歌詞の背景や歴史的変遷などが解説された。 トーク後には、音頭取りの成人女性八名、踊り手の女児十六名による実演が行われた。 素唄に合わせ、揃いの着物を着た少女たちが舞う姿は素朴で、どこか懐かしさを誘う。 昭和の半ば頃までは、正月や祭礼でこのような催しを目にする機会が多かったことを思い出す。 今は無形文化財として保護しなければ残らないのかもしれない、という感慨が胸に残った。 能「加茂(かも)」では、間狂言が替間の「御田(おんだ)」となり、神職と五人の早乙女が登場して舞台は一気に賑やかさを増した。 後場では御祖神が天女ノ舞を、別雷神が舞働を舞い、舞台全体に重厚な気配が満ちる。 神事性と祝祭性が交錯し、豊穣を祈る力が舞台の隅々まで張りつめていた。 面は前シテ「泣増」(是閑作)、後シテ「大飛天(おおとびで)」(越前出目作)、前ツレ「小面」(近江作)、後ツレ「小面」(是閑作)。 企画公演タイトル「豊魚・豊作への願い」が三演目に貫かれ、民俗芸能・狂言・能がそれぞれの様式で祈りの形を示した一日であった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85016/

■フリーダとディエゴ、最後の夢

■作曲:ガブリエラ・リーナ・フランク,作詞:ニロ・クルス,指揮:ヤニック・ネゼ=セガン,演出:デボラ・コルカー,出演:イザベル・レナード,カルロス・アルバレス,ガブリエラ・レイエス他 ■新宿ピカデリー,2026.7.10-16(メトロポリタン歌劇場,2026.5.30収録) ■フリーダ・カーロに関する美術展は30年前には頻繁に開催されていたが、近年はあまり耳にしなくなった。 しかし彼女の作品は、一度目にすると忘れがたい。 崩れゆく身体の叫びとメキシコの情熱が画面から立ち上がり、観る者の記憶に深く刻まれる。 近年では映画の主人公として語られることが多いが、画家がタイトルロールを担うオペラは珍しい。 彼女をどのように描いているのかを知りたくて、早速映画館へ足を運んだ。 なお、今回は夫ディエゴ・リベラにも多くの時間が割かれているが、彼については私自身ほとんど知識がない。 オペラは二幕構成で、1950年代のメキシコの風景が舞台上にぎっしりと詰め込まれている。 オフレンダ(祭壇)を見ていると、子どもの頃の<お盆>を思い出してしまった。 文化は異なるはずなのに、どこか懐かしさを呼び起こす場面が多い。 そしてチェレスタやマリンバを取り入れた幻想的な音楽が、メキシコの匂いをそっと連れてくる。 物語は「死者の日」を入口に、死後の世界を描き出していく。 冥界の番人カトリーナは恐ろしい存在である一方、フリーダは死者として登場するが、どこかおっとりしている。 この世に戻っても冥界の掟を破り、最後にはディエゴを道連れにしてしまう、それもまた人生だと言わんばかりに。 ストーリーはやや締まりに欠けるが、全体として心温まる舞台であり、西欧の冥界オペラとは異なるおおらかさが漂っていた。 ところで、フリーダが着ていたコルセットに後半から<鎌と槌>が付けられたのを見て、私はエイゼンシュテインの映画『メキシコ万歳』へのオマージュではないかと勝手に解釈したくなった。 もう一つ、グレタ・ガルボの登場は場違いにみえたが、この作品との関係は今も分からない。 *METライブブューイング2025年作品 *MET、 https://www.shochiku.co.jp/met/program/6910/

■能楽堂七月「文荷」「山姥」

*国立能楽堂七月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・文荷■出演:野村万之丞,石井康太,野村拳之介 □能・観世流・山姥(白頭)■出演:観世銕之丞,鵜澤光,福王和幸ほか ■国立能楽堂,2026.7.11 ■プレトーク「一念化生の鬼女の苦しみ、能「山姥」」(横山太郎解説)を聴く。 世阿弥作の能「山姥(やまんば)」は、他のどの曲にも似ていない特異な構造をもつとされる。 ツレの百万山姥は、現代でいえばヒップホップの著名ラッパーのような存在に喩えられ、<百万>という語が世阿弥にとって舞子(白拍子)と同義で用いられている点など、作品の位相を軽妙に解説していた。 また、物語の主人公が<現実>に姿を現すという、ポストモダン文学に通じる階層構造をもつことにも触れられ、粗筋紹介ながら興味深い示唆が多かった。 今月のプログラム掲載記事「山姥の正体、砕動風鬼」(大谷節子)も示唆に富み、「山姥とは何者か」という根源的な問いを観客に投げかける内容であった。 さて、今日のシテ山姥はやや不調に見えた。 山姥としての圧倒的な力が十分に発揮されず、当初は禅的思想の権化として意図的に力を抑えているのかとも思ったが、そうではないらしい。 体調が万全ではなかったのだろう。 結果としてワキ従者たちの力強い演技が際立ち、舞台全体の均衡がやや崩れた印象を受けた。 ツレ百万山姥の鵜澤光は今回初めて拝見したが、面を掛けていたためか男女差は意識しない。 慣れの問題だけである。 面は前シテが「痩女」、後シテが「山姥(洞水作)」、ツレは「小面」。 とりわけ「山姥」の面は、山姥像を想起しにくい造形で、こちらも少し戸惑いを覚えた。 狂言「文荷(ふみにない)」は二年前にも観ている。 中世の男色文化が日常の一部として描かれる作品で、現代の価値観から見ればハラスメントの要素が多いと言われるだろう。 こうした作品を観ると、現代社会が「生きることの窮屈さ」を増している方向に進んでいることを改めて感じさせられる。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85014/

■エレクトラ

■作曲:リヒャルト・シュトラウス,指揮:大野和士,演出:ヨハネス・エラート,出演:藤村実穂子,アイレ・アッソーニ,ヘドヴィグ・ハウゲルド他 ■新国立劇場・オペラパレス,2026.6.29-7.12 ■オペラとしては比較的短い上演時間100分が、舞台全体に強い凝縮感をもたらしていた。 しかも父・母・娘という家族関係はきわめて抽象化されており、その空白を埋めるようにエレクトラとクリソテミスのソプラノ声域が劇場を満たす。 二人の感情が声の質量として空間に響き渡ることで、悲壮感は否応なく高まっていく。 さらに母クリテムネストラの声が割り込むことで、ソプラノ系の音響が飽和点に達し、聴き手はある種の<満腹感>に包まれる。 そのため、オレストのバリトンが響いた瞬間、音楽的にも心理的にも一息つける解放感が訪れた。 舞台美術は父アガメムノンの不在を強く意識させる造形が特徴的であった。 だが、この作品は本来、父の時代を見据えなければ復讐の感情が具体化されない構造を持つ。 私自身はその前史をあえて飛ばして観てしまうため、舞台はどうしても抽象的な感情の奔流として立ち上がってくる。 大野和士の指揮は厚みのある響きを全編にわたり維持し、作品の暴力性と緊張を見事に支えていた。 しかしカーテンコールで姿を見せた際には、今日の公演を終えた安堵と共に、相当な疲労感が窺えた。 作品を完璧に近づける熱い姿にはいつもながら驚嘆してしまう。 *NNTTオペラ2025シーズン作品 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/opera/elektra/

■String SAGA ■暗やみから解き放たれて

*新国立劇場バレエ団のダブル・ビルを□を観る. ■新国立劇場・中劇場,2026.7.3-5 □String SAGA ■振付:宝満直也,音楽:久石譲,美術:長峰麻貴,衣装:matohu(まとう),照明:吉本有輝子,出演:赤井綾乃,花形悠月,大木満里奈ほか ■蜘蛛の糸で織られたような、銀色に光る薄布が舞台空間をゆるやかに漂っている。 「強靭でしなやかな糸(=ダンサー)、鮮やかで豊かな糸(=音楽)、それぞれの性(=Saga)が撚り合い、一枚のタペストリーが織り上がるまでの道のりを描く」。 チラシに記されたコンセプトは、そのまま舞台の冒頭から立ち上がっていく。 久石譲の音楽はリズミカルでテンポが速く、場面によってはやや忙しなさを感じるほどであった。 ダンサーたちはその速度に乱れるところもあったが、翻弄されることなく終始安定した重心と呼吸を保っていた。 「撚る、張る、絡まる、弾く、紡ぐ、縺れる、織る」といった言葉が場面を導くが、身体は必ずしも語の意味どおりには展開しない。 結果として、細密な言葉と身体性とのあいだに、ある種の<妥協点>が生まれ、作品の質感を形づくっていた。 衣装は質素なものから華美なものまで複数の系統が用意されていたが、天井から吊られた銀色の布との関係を考えると、もう一段階の統一感があってもよかったように思う。 また、舞台全体が「タペストリーを織り上げる過程」を示すのであれば、最終的にどのようなデザインや色彩の<織物>が立ち上がるのか、もう少し具体的な方向性を示してもよかったのではないかと思う。 そうした視覚的な指針が提示されれば、言葉と身体のあいだに生じた妥協点は、より高いレベルへと引き上げられたはずだ。 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、宝満直也 ・・ 検索結果は4舞台 . □暗やみから解き放たれて ■振付:ジェシカ・ラング,音楽:オーラヴル・アルナルズ他,美術:ジェシカ・ラング,衣装:山田いずみ,照明:ニコール・ピアース,クリエイティヴ・アソシエイト:瀬川寛司,出演:木村優里,木下嘉人,榎本志結ほか ■天井に吊るされた雲のような浮き輪のような浮遊物をどこかで見たことを思い出す。 舞台が進み、背景の幕を少しだけ上げてダンサーの下半身だけを見せる場面で確信する。 すっかり忘れていたが、観後に調べたら2014年に当劇場で観ていた...

■ジークフリート

■音楽・台本:リヒャルト・ワーグナー,指揮:アントニオ・パッパーノ,演出:バリー・コスキー,出演:アンドレアス・シャーガー,ピーター・ホーレ,クリストファー・モルトマン他 ■TOHOシネマズ日比谷,2026.6.26-7.2(ロンドン・ロイヤル・オペラ・ハウス,2026.3.31収録) ■「ラインの黄金」(2023年)、「ワルキューレ」(2025年)、そして今回の「ジークフリート」(2026年)。 来年には「神々の黄昏」が予定されており、思った以上に4作の上演間隔は短い。 嬉しいことだ。 指揮者が変更になると聞いていたが、パッパーノが引き続き指揮棒を振るようだ。 幕が開くと、ジークフリートとミーメの親子喧嘩が延々と続く。 しかし脳味噌がなかなか起きない。 ところが、さすらい人の登場で舞台の緊張が一気に高まり、眠気は吹き飛んだ。 前2作を通してヴォータンの存在感は圧倒的である。 また、素裸で徘徊する認知症エルダも健在で妙に安心してしまう。 二幕の舞台美術には呆気にとられた。 雪の降る町はずれの街道に、突如として現代風の一軒家が建っている。 その家から現れた龍=ファフナーは、金色に輝くスーツ姿で登場したので、時と場所の感覚が完全に混乱した。 三幕では、お花畑を走り回るジークフリートとブリュンヒルデが現れ、眩暈の連続が続く。 助監督はインタビューで「デヴィッド・リンチ風」と語っていたが、そうは感じなかった。 むしろ今回もドイツ的な風景が広がっていた。 1幕はフリッツ・ラング、2幕はF・W・ムルナウを思わせる。 映画監督から離れるが、3幕は舞踊家ピナ・バウシュの世界を連想させた。 ただし今回の「ジークフリート」は、どうもリズムが合わなかった。 おそらくミーメの弛緩した喜劇性が、<指輪>全体の緊張感を過度に緩めてしまったからだろう。 さらにブリュンヒルデがジークフリートに述べる凡庸な感想も、物語の高揚を現実へ引き戻してしまう。 日本語字幕との相性が悪かった可能性もある。 この狂ったリズムを、次作「神々の黄昏」でどう挽回するのか期待したい。 *英国ロイヤル・バレエ&オペラinシネマ2025作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/105024/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、バリー・コスキー ・・ 検索結果は3...

■Merrily We Roll Along

■作曲:スティーヴン・ソンドハイム,脚本:ジョージ・ファース,演出:マリア・フリードマン,出演:ダニエル・ラドクリフ,ジョナサン・グロフ,リンゼイ・メンデス他 ■TOHOシネマズ池袋,2026.6.16-(ニューヨーク・ハドソン劇場,2024.6収録) ■主人公はミュージカル界で成功した作曲家であり、そこに作詞家と小説家という二人の親友が加わる。 三人の友情にはすでに亀裂が生じているらしく、「どこで道を誤ったのか」を探るために、物語は三人の出会いへ向けて時間を遡行していく。 舞台は1976年から始まり、1973年、1968年・・と過去へ戻り、最終的に1957年で幕が下りる。 それぞれの時代に応じて衣装が変わり、歴史的出来事が語られ、ニューヨークのナイトクラブの公演から始まり、エンターテインメント界で成長していく三人の姿が描かれる。 途中にはベトナム戦争や学生運動、ケネディとニクソン大統領やフルシチョフ首相、舞台芸術ではバーンスタイン、シナトラ、ギールグッド、さらにはバルザックの名まで聞こえてくる。 1960年前後になるとソビエトの影響が濃くなり、スプートニク衛星の話題や、彼らの作品名「左に進め」からも時代の空気が読み取れる。 ミュージカルでありながら科白が多く、物語に入りやすい作品であぅた。 三人の友情の絡み合いはやや掴みづらかったが、二人の親友が主人公より保守的であったことが、関係の亀裂を生んだ一因かもしれない。 それ以上に、時代という風景が次々と切り替わっていく面白さが際立っていた。 1960-1970年代を青春期として過ごした世代には、懐かしさを伴う舞台だろう。 ブロードウェイ・ミュージカルの系譜に属する作品だが、カメラを人物に近接させることで演劇性を強め、親密で温度のある作品として仕立てられていた。 *映画com、 https://eiga.com/movie/106222/