■能楽堂七月「文荷」「山姥」
*国立能楽堂七月普及公演の二舞台□を観る.
□狂言・和泉流・文荷■出演:野村万之丞,石井康太,野村拳之介
□能・観世流・山姥(白頭)■出演:観世銕之丞,鵜澤光,福王和幸ほか
■国立能楽堂,2026.7.11
■プレトーク「一念化生の鬼女の苦しみ、能「山姥」」(横山太郎解説)を聴く。
世阿弥作の能「山姥(やまんば)」は、他のどの曲にも似ていない特異な構造をもつとされる。 ツレの百万山姥は、現代でいえばヒップホップの著名ラッパーのような存在に喩えられ、<百万>という語が世阿弥にとって舞子(白拍子)と同義で用いられている点など、作品の位相を軽妙に解説していた。 また、物語の主人公が<現実>に姿を現すという、ポストモダン文学に通じる階層構造をもつことにも触れられ、粗筋紹介ながら興味深い示唆が多かった。
今月のプログラム掲載記事「山姥の正体、砕動風鬼」(大谷節子)も示唆に富み、「山姥とは何者か」という根源的な問いを観客に投げかける内容であった。
さて、今日のシテ山姥はやや不調に見えた。 山姥としての圧倒的な力が十分に発揮されず、当初は禅的思想の権化として意図的に力を抑えているのかとも思ったが、そうではないらしい。 体調が万全ではなかったのだろう。 結果としてワキ従者たちの力強い演技が際立ち、舞台全体の均衡がやや崩れた印象を受けた。 ツレ百万山姥の鵜澤光は今回初めて拝見したが、面を掛けていたためか男女差は意識しない。 慣れの問題だけである。
面は前シテが「痩女」、後シテが「山姥(洞水作)」、ツレは「小面」。 とりわけ「山姥」の面は、山姥像を想起しにくい造形で、こちらも少し戸惑いを覚えた。
狂言「文荷(ふみにない)」は二年前にも観ている。 中世の男色文化が日常の一部として描かれる作品で、現代の価値観から見ればハラスメントの要素が多いと言われるだろう。 こうした作品を観ると、現代社会が「生きることの窮屈さ」を増している方向に進んでいることを改めて感じさせられる。