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■フレンズ・オブ・フォーサイス

■振付:ウィリアム・フォーサイス他■出演:ラフ・"ラバーレッグズ"・ヤシット,マット・ラック,ライリー・ワッツ他 ■新国立劇場・小劇場,2026.3.25-29 ■「THREE QUIET DUETS」がコロナ禍で中止になったのは2022年のことだった。 そのためフォーサイス舞踊団の公演を最後に観たのは「ザ・フォーサイス・カンパニー2006」まで遡る。 過去の記録を読み返すと1999年公演「ウィリアム・フォーサイス&フランクフルト・バレエ団」Bプロ「仮定された流れ2他」が最高の舞台だったと書き残している。 しかし、いずれも20年以上前のことで、記憶はすでに薄れつつある。 今回の公演はフォーサイス舞踊団の元メンバーたちが、なお進化を続ける身体表現を見せてくれるという。 客席はアリーナ型で視界が開けとても観やすい。 6人のダンサーが入れ代わりながら密に絡み合い、離れてはシンクロし、互いの身体を撫でるようにしながら、親密さを帯びた振付が展開していく。 小節の切れ目と思われる瞬間には照明が一瞬だけ落ちる。 この振付に既視感を覚えた。 井出茂太である。 イデビアンクルーの舞台を思い出し、つい比較してしまった。 井出茂太は繊細で、日本的な身体感覚を極めて鋭敏に表現していたことに気づく。 一方、今日の舞台は親密さを保ちながらも、どこか荒々しい身体性が前面に出ており、いかにも欧米的だ。 両者の身体感覚の違いを改めて意識させられた。 上演時間は60分と短いが、似た質感の振付が続き、やや盛り上がりに欠けた印象もある。 眼鏡をかけたライリー・ワッツ(と思われる)がバレエ的な動きを見せる場面があったが、このような要素がいくつか挿入されていれば、より変化が生まれたであろう。 そして、もしタイトルを伏せられたら、これをフォーサイスと結びつけることは難しい。 いやタイトルを伏せなくても結びつかなかった。 それほどまでに、フォーサイスは私にとって遠い存在になってしまったのだ。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/dance/friends-of-forsythe/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、フォーサイス ・・ 検索結果は4舞台 .

■能楽堂三月「鷺」「名取ノ老女」

*国立能楽堂三月企画公演の二舞台□を観る. □復曲狂言・鷺■出演:野村萬斎,野村万作,笛:竹市学 □復曲能・名取ノ老女■出演:武田孝史,宝生和英,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2026.3.28 ■二舞台はいずれも復曲作品である。 狂言「鷺(さぎ)」は、太郎冠者が都で見聞した、醍醐天皇が神泉苑へ行幸した際の鷺の逸話を主人に語り、その姿を真似て舞を舞うという趣向の作品だ。 見どころは何といっても鷺舞である。 鷺の神経質な身のこなし、田圃を歩くときの慎重な足運び、そして飛び立つ軽やかさまで、要点を押さえた動きが実に楽しい。 この作品は2年前に山本凛太郎・山本東次郎の出演で観ているが、今回の舞台と比べると、粗筋や鷺舞の表現に違いがあり、似て非なる味わいが興味深い。 「名取ノ老女(なとりのろうじょ)」は<時間>が持っているメロディーとリズムが豊かに変化していく作品である。 前場では、老女の過去と現在が溶け合うように流れ、ゆったりと漂う時間が舞台を支配する。 ときどき、孫娘の甲高く澄んだ声が、未来の時間として差し挟む。 後場で早笛が入ると、護法善神が登場し、時間は一転して激しい雷雨のように押し寄せる。 まさに彼岸の時間を此岸へ持ってきたような感じだ。 護法善神は災難を除き悪魔を払い、老女に子孫までの加護を告げ去っていく。 そして舞台には、観客の心に至福の<時間>が残る。 面は名取ノ老女が「老女」、護法善神が「鷹」であった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7050/

■ROOM Rhapsody in White

■作・演出:佐藤信,出演:服部吉次,桐谷夏子,内沢雅彦,龍昇ほか,劇団黒テント ■スズナリ,2026.3.18-22 ■主人公の潜水夫が就職先へ赴くものの、就業書類の不備によって手続きが滞り、待ち続けることになる、そんな物語である。 舞台は白一色で統一され、そこに白い机と椅子が置いてあるだけだ。 チラシには「・・待ち続けている、あの部屋で」とあったが、当初は不条理劇「ゴドーを待ちながら」の系譜かと思われた。 暫くして、役所の業務が迷宮化していることが、主人公を待たせる原因であるとわかり、むしろ「カフカの城」に近い世界観が立ち上がってくる。 実際、役人と住民の滑稽で無意味にもみえる遣り取りが延々と続いていく。 科白は詩的で断片的なため、ストーリーは殆ど存在しない。 昭和を思わせる唱歌や踊り、さらには歌謡曲「帰り船」まで歌われる一方で、サイレンや砲弾の破裂音も響く。 役者たちの淡々とした演技が詩的な台詞と調和し、舞台全体に独特のリズムを生み出していた。 刺激的な場面もあっが、どこか落ち着く舞台だった。 場内で配られた演出家の「稽古場ノート」には、千田是也から「信は物語が書けないからな」というエピソードが記されていた。 今日の舞台を観て、この指摘が示すところの<一つの完成形>に佐藤信は辿り着いたのではないのか、そんな思いが胸に浮かんだ。 *劇団黒テント第80回公演 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/410582 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、佐藤信 ・・ 検索結果は8舞台 .

■フィフス・ステップ

■作:デヴィド・アイルランド,演出:フィン・デン・ヘルトック,出演:ジャック・ロウデン,マーティン・フリーマン ■TOHOシネマズ日比谷,2026.3.20-(ソーホー・プレイス,2025収録) ■6メートル四方の簡素な舞台、その周りに観客が取り囲み親密な雰囲気を映し出している。 物語は、アルコール依存症のルカが、カウンセラーであるジェームスを世話役として選ぶ場面から始まる。 二人だけで進む対話劇は、断酒更生プログラムである「告白の瞬間」に向けて緊張を高めていく。 それにしても、語られる多くが<酒>より<性>に関わるものだという点が印象的だ。 ルカの日常の「性行動」が次々と明かされ、その背景にはキリスト教的な価値観や慣習も織り込まれていく。 そして「告白の瞬間」では、ジェームスの妻までもが物語に巻き込まれてしまう。 この作品はアルコール依存症の話ではない。 むしろ<カウンセラー>=世話役とは何か? 性欲を例にとり、その役割を問いかけているように思われる。 世話役の構造は、キリスト教の<告白>とよく似ている。 しかし舞台が進むにつれ、患者(依頼人)と世話役の立場は徐々に溶け合い、対等な関係へと変化していく。 その過程は、キリスト教の慣習そのものが揺らぎ、溶解していく様子を暗示しているようでもある。 告白を真似たカウンセリング手法の衰弱を垣間見る舞台だった。 情報過多の現代では告白は難しい。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2026作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104637/

■ル・パルク

■音楽:W・A・モーツァルト,演出:アンジュラン・プレルジョカージュ,指揮:ベンジャミン・シュワルツ,出演:アリス・ルナヴァン,マチュー・ガニオ他,演奏:パリ・オペラ座管弦楽団 ■TOHOシネマズ日本橋,2026.3.13-19(パリ・オペラ座ガルニエ宮,2021.3.9-11収録) ■この作品を初めて観たのは、2021年にNHKの配信でのことである。 ロココ時代の貴族を描いた舞台に、突然ゴーグルを付けた近未来的なダンサーが現れる。 その衝撃はいまでも鮮明に覚えている。 謎めいた不思議な世界観に強く惹かれながらも、作品の背景を深く調べることなく今日まで過ごしてきた。 今回、パリ・オペラ座 in シネマで上映があると知り、初めて作品の背景を調べてみた。 本作は、18世紀フランス貴族社会における男女の心の動き、理性から情動へと揺れ動く内面、を描いたものらしい。 ゴーグルを付けたダンサーたちは庭師の役割を担っており、日本でいえば人形浄瑠璃の遣い手のような存在とも言えるのかもしれない。 上映された映像は、振付家・劇場・出演者から判断して、5年前に観たものと同じであると分かった。 作品について知識を得てしまったためか、初見のときほどの強い感動はなかった。 しかしその分、プレルジョカージュ独特の振付や物語の構造を、より落ち着いて味わうことができた。 ドイツが理性、イタリアが情動を重んじる傾向があるなかで、理性と欲望の微妙な揺れを繊細に描く本作は、まさにフランスならではの作品と言えるだろう。 *パリ・オペラ座inシネマ、 https://tohotowa.co.jp/parisopera/movie/le_parc/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、プレルジョカージュ ・・ 検索結果は4舞台 .

■能楽堂三月「横座」「祇王」

*国立能楽堂三月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・横座■出演:三宅右矩,高澤祐介,金田弘明 □能・金剛流・祇王■出演:今井清隆,金剛龍謹,舘田善博ほか ■国立能楽堂,2026.3.14 ■まず、プレトーク「祇王と<女どうしの絆(シスターフッド)>」(田中貴子解説)を聴く。 「<祇王>は上演機会が少なく金剛流での公演は特に珍しいこと」「出典は<平家物語>だが能作者は不明」「相舞が見せどころであること」「作品にはシスターフッドの要素が濃いこと」などが紹介された。 また、白拍子についても詳しい説明があった。 今様は歌(謡)が中心で、白拍子は舞を主にしながら歌うこと、遊女や傀儡は座って芸をするのに対し、白拍子は立って芸をすること、当時は女性が立つのははしたないとされたこと、白拍子は芸能者として差別されず、自宅を拠点に営業し、母から娘へと芸を継ぐ女系の職能集団であったことなど、白拍子の社会的背景が語られた。 また世阿弥の時代には白拍子は衰えて曲舞になった。 このことから今日の舞台は曲舞と言える。 またプログラムに掲載された「能<祇王>の背景ー白拍子と曲舞」(兵藤裕樹己著)も併せて読む。 導師と助音、座頭(検校)と弟子、瞽女とツレ、そして能のシテとワキ(ツレ)など、芸能者の「二人づれ」の関係性が論じられており、そこからシスターフッドへと繋がる視点がみえてくる。 能「祇王(ぎおう)」の上演時間は60分と比較的短い。 祇王と仏御前が清盛のもとに参上し、二人の相舞、絆の誓い、そし仏御前の破の舞で終わる構成であり、やはり相舞が最大の見どころだろう。 面はシテが「小面」、ツレが「孫次郎(金剛景頼作)」。 プレトークとプログラム記事、そして舞台の三点が揃い、作品世界を深く味合うことができた。 狂言「横座」は、行方不明になった牛の持ち主をどのように決めるかという筋立てで、最期に巧みなオチがつく。 能とは対照的な軽妙さで楽しめた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7048/

(キャンセル)■ドン・ジョヴァンニ

■作曲:W・A・モ-ツァルト,演出:グリシャ・アサガロフ,指揮:飯森範親,出演:ヴィートプリアンテ,田中大輝,フランチェスコ・レオーネ,イリーナ・ルング他,管弦楽:東京交響楽団,合唱:新国立劇場合唱団 ■新国立劇場・オペラハウス,2026.3.5- 12 ■この作品は2014年に同じ演出家・劇場で観ている。 放蕩児ジョヴァンニが地獄へ落ちる壮絶な最後をまた見たくなったのでチケットを購入したが、体調不良のため劇場へ行くことができなかった。 残念! *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_031145.html

■能楽堂三月「左近三郎」「須磨源氏」

*国立能楽堂三月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・左近三郎■出演:大藏彌太郎,吉田信海 □能・観世流・須磨源氏■出演:西村高夫,福王和幸,村瀬堤ほか ■国立能楽堂,2026.3.4 ■「須磨源氏」では、光源氏が前場では老人として、後場では若き貴公子として登場する。 その姿が舞台に現れた瞬間、こちらの想像も一気に広がっていった。 しゃがれた声でゆっくりしゃべるシテを見ていると、あの光源氏も年老いてしまったのかと自然に納得させられる。 後場では声の調子を一変させ、早舞も爽快にこなす。 面は前場の「笑尉」から後場の「中将」へと変わるが、シテの体格のためか後場の面がやや大きく見え、どこかずんぐりした印象の光源氏になっていた。 でも、これこそが当時の貴公子らしい気品として強く伝わってきた。 衣装も緑系で落ち着いた趣があり、「青鈍(あおにび)の狩衣」と記されていたが、舞台上ではより鮮やかに映っていた。 「なほも多生を助けんと、兜率天より、再びここに天降る」。 光源氏の言い訳にも聞こえる。 ただただ此岸が恋しいと素直に言えばよいのに、と思ってしまった。 狂言「左近三郎(さこのさむろう)」は締りのよい構成の作品である。 猟師と禅僧が、「殺生せよ、殺生せよ、刹那も殺生せざれば、その身地獄へ矢のごとく」「善悪不二」といった禅宗の戒律をめぐって問答を交わし、最期には両者が納得して幕が下りる。 緊張感に満ちた舞台で、短いながらも愉快な時を過ごせた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7047/

■能楽堂二月「子盗人」「高砂」

*国立能楽堂二月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・子盗人■出演:高野和憲,中村修一,深田博治 □能・観世流・高砂■出演:山﨑正道,山﨑友正,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2026.2.28 ■プレトーク「近代絵画はどう「高砂」を描いたか」(小林健二解説)を聴いた。 今月の演目に合わせ「松浦佐用姫」「鉢木」「高砂」に沿った内容で、梶田半古「比禮婦留山(ひれふるやま)」と菱田春草「時頼図」それに川村清雄「高砂」が紹介される。 解説は短い時間だったが、プログラムに掲載された絵を見返しながら物語世界に再び入り込むことができた。 春草の「時頼図」ではワキの北条時頼を描かれている点が興味深い。 また川村清雄の「高砂」には亀は描かれているが鶴がいない。 これは画面右下の和歌「たづ(鶴)のゐる・・」にその存在を託しているのだろう。 世阿弥作の「高砂」が和歌や漢詩句を巧みに織り込んだ緻密な詞章を特徴とすることを思えば、画家もまた世阿弥の手法に呼応して描いたのかもしれない。 「高砂(たかさご)」はワキの登場から舞台全体を力強いテンポで包み込む。 続いて現れるシテの尉とツレの姥が橋掛かりで見つめ合う姿は、時間がふっと止まった静謐さを帯びていた。 後場ではシテ住吉明神が舞う神舞の力強さに再び圧倒される。 動と静の対比が鮮烈で、しかも詞章の練度が高いため舞台に確かなリズムが生まれている。 テンポとリズムが見事に統一された、世阿弥の完成度が高い作品だ。 久しぶりに脳味噌がピクピクと喜ぶような体験をした。 面は前シテが「小尉(洞白作)」ツレは「姥」、後シテは「変霊神(かわりれいしん)」。 狂言「子盗人(こぬすびと)」は盗人が寝入っていた子の可愛さに心を奪われ、盗みを忘れて子をあやしてしまうという、人の温かさがにじむ作品である。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7046/