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■フレンズ・オブ・フォーサイス

■振付:ウィリアム・フォーサイス他■出演:ラフ・"ラバーレッグズ"・ヤシット,マット・ラック,ライリー・ワッツ他 ■新国立劇場・小劇場,2026.3.25-29 ■「THREE QUIET DUETS」がコロナ禍で中止になったのは2022年のことだった。 そのためフォーサイス舞踊団の公演を最後に観たのは「ザ・フォーサイス・カンパニー2006」まで遡る。 過去の記録を読み返すと1999年公演「ウィリアム・フォーサイス&フランクフルト・バレエ団」Bプロ「仮定された流れ2他」が最高の舞台だったと書き残している。 しかし、いずれも20年以上前のことで、記憶はすでに薄れつつある。 今回の公演はフォーサイス舞踊団の元メンバーたちが、なお進化を続ける身体表現を見せてくれるという。 客席はアリーナ型で視界が開けとても観やすい。 6人のダンサーが入れ代わりながら密に絡み合い、離れてはシンクロし、互いの身体を撫でるようにしながら、親密さを帯びた振付が展開していく。 小節の切れ目と思われる瞬間には照明が一瞬だけ落ちる。 この振付に既視感を覚えた。 井出茂太である。 イデビアンクルーの舞台を思い出し、つい比較してしまった。 井出茂太は繊細で、日本的な身体感覚を極めて鋭敏に表現していたことに気づく。 一方、今日の舞台は親密さを保ちながらも、どこか荒々しい身体性が前面に出ており、いかにも欧米的だ。 両者の身体感覚の違いを改めて意識させられた。 上演時間は60分と短いが、似た質感の振付が続き、やや盛り上がりに欠けた印象もある。 眼鏡をかけたライリー・ワッツ(と思われる)がバレエ的な動きを見せる場面があったが、このような要素がいくつか挿入されていれば、より変化が生まれたであろう。 そして、もしタイトルを伏せられたら、これをフォーサイスと結びつけることは難しい。 いやタイトルを伏せなくても結びつかなかった。 それほどまでに、フォーサイスは私にとって遠い存在になってしまったのだ。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/dance/friends-of-forsythe/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、フォーサイス ・・ 検索結果は4舞台 .

■能楽堂三月「鷺」「名取ノ老女」

*国立能楽堂三月企画公演の二舞台□を観る. □復曲狂言・鷺■出演:野村萬斎,野村万作,笛:竹市学 □復曲能・名取ノ老女■出演:武田孝史,宝生和英,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2025.3.28 ■二舞台はいずれも復曲作品である。 狂言「鷺(さぎ)」は、太郎冠者が都で見聞した、醍醐天皇が神泉苑へ行幸した際の鷺の逸話を主人に語り、その姿を真似て舞を舞うという趣向の作品だ。 見どころは何といっても鷺舞である。 鷺の神経質な身のこなし、田圃を歩くときの慎重な足運び、そして飛び立つ軽やかさまで、要点を押さえた動きが実に楽しい。 この作品は2年前に山本凛太郎・山本東次郎の出演で観ているが、今回の舞台と比べると、粗筋や鷺舞の表現に違いがあり、似て非なる味わいが興味深い。 「名取ノ老女(なとりのろうじょ)」は<時間>が持っているメロディーとリズムが豊かに変化していく作品である。 前場では、老女の過去と現在が溶け合うように流れ、ゆったりと漂う時間が舞台を支配する。 ときどき、孫娘の甲高く澄んだ声が、未来の時間として差し挟む。 後場で早笛が入ると、護法善神が登場し、時間は一転して激しい雷雨のように押し寄せる。 まさに彼岸の時間を此岸へ持ってきたような感じだ。 護法善神は災難を除き悪魔を払い、老女に子孫までの加護を告げ去っていく。 そして舞台には、観客の心に至福の<時間>が残る。 面は名取ノ老女が「老女」、護法善神が「鷹」であった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7050/

■ROOM Rhapsody in White

■作・演出:佐藤信,出演:服部吉次,桐谷夏子,内沢雅彦,龍昇ほか,劇団黒テント ■スズナリ,2026.3.18-22 ■主人公の潜水夫が就職先へ赴くものの、就業書類の不備によって手続きが滞り、待ち続けることになる、そんな物語である。 舞台は白一色で統一され、そこに白い机と椅子が置いてあるだけだ。 チラシには「・・待ち続けている、あの部屋で」とあったが、当初は不条理劇「ゴドーを待ちながら」の系譜かと思われた。 暫くして、役所の業務が迷宮化していることが、主人公を待たせる原因であるとわかり、むしろ「カフカの城」に近い世界観が立ち上がってくる。 実際、役人と住民の滑稽で無意味にもみえる遣り取りが延々と続いていく。 科白は詩的で断片的なため、ストーリーは殆ど存在しない。 昭和を思わせる唱歌や踊り、さらには歌謡曲「帰り船」まで歌われる一方で、サイレンや砲弾の破裂音も響く。 役者たちの淡々とした演技が詩的な台詞と調和し、舞台全体に独特のリズムを生み出していた。 刺激的な場面もあっが、どこか落ち着く舞台だった。 場内で配られた演出家の「稽古場ノート」には、千田是也から「信は物語が書けないからな」というエピソードが記されていた。 今日の舞台を観て、この指摘が示すところの<一つの完成形>に佐藤信は辿り着いたのではないのか、そんな思いが胸に浮かんだ。 *劇団黒テント第80回公演 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/410582 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、佐藤信 ・・ 検索結果は8舞台 .

■フィフス・ステップ

■作:デヴィド・アイルランド,演出:フィン・デン・ヘルトック,出演:ジャック・ロウデン,マーティン・フリーマン ■TOHOシネマズ日比谷,2026.3.20-(ソーホー・プレイス,2025収録) ■6メートル四方の簡素な舞台、その周りに観客が取り囲み親密な雰囲気を映し出している。 物語は、アルコール依存症のルカが、カウンセラーであるジェームスを世話役として選ぶ場面から始まる。 二人だけで進む対話劇は、断酒更生プログラムである「告白の瞬間」に向けて緊張を高めていく。 それにしても、語られる多くが<酒>より<性>に関わるものだという点が印象的だ。 ルカの日常の「性行動」が次々と明かされ、その背景にはキリスト教的な価値観や慣習も織り込まれていく。 そして「告白の瞬間」では、ジェームスの妻までもが物語に巻き込まれてしまう。 この作品はアルコール依存症の話ではない。 むしろ<カウンセラー>=世話役とは何か? 性欲を例にとり、その役割を問いかけているように思われる。 世話役の構造は、キリスト教の<告白>とよく似ている。 しかし舞台が進むにつれ、患者(依頼人)と世話役の立場は徐々に溶け合い、対等な関係へと変化していく。 その過程は、キリスト教の慣習そのものが揺らぎ、溶解していく様子を暗示しているようでもある。 告白を真似たカウンセリング手法の衰弱を垣間見る舞台だった。 情報過多の現代では告白は難しい。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2026作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104637/

■ル・パルク

■音楽:W・A・モーツァルト,演出:アンジュラン・プレルジョカージュ,指揮:ベンジャミン・シュワルツ,出演:アリス・ルナヴァン,マチュー・ガニオ他,演奏:パリ・オペラ座管弦楽団 ■TOHOシネマズ日本橋,2026.3.13-19(パリ・オペラ座ガルニエ宮,2021.3.9-11収録) ■この作品を初めて観たのは、2021年にNHKの配信でのことである。 ロココ時代の貴族を描いた舞台に、突然ゴーグルを付けた近未来的なダンサーが現れる。 その衝撃はいまでも鮮明に覚えている。 謎めいた不思議な世界観に強く惹かれながらも、作品の背景を深く調べることなく今日まで過ごしてきた。 今回、パリ・オペラ座 in シネマで上映があると知り、初めて作品の背景を調べてみた。 本作は、18世紀フランス貴族社会における男女の心の動き、理性から情動へと揺れ動く内面、を描いたものらしい。 ゴーグルを付けたダンサーたちは庭師の役割を担っており、日本でいえば人形浄瑠璃の遣い手のような存在とも言えるのかもしれない。 上映された映像は、振付家・劇場・出演者から判断して、5年前に観たものと同じであると分かった。 作品について知識を得てしまったためか、初見のときほどの強い感動はなかった。 しかしその分、プレルジョカージュ独特の振付や物語の構造を、より落ち着いて味わうことができた。 ドイツが理性、イタリアが情動を重んじる傾向があるなかで、理性と欲望の微妙な揺れを繊細に描く本作は、まさにフランスならではの作品と言えるだろう。 *パリ・オペラ座inシネマ、 https://tohotowa.co.jp/parisopera/movie/le_parc/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、プレルジョカージュ ・・ 検索結果は4舞台 .

■能楽堂三月「横座」「祇王」

*国立能楽堂三月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・横座■出演:三宅右矩,高澤祐介,金田弘明 □能・金剛流・祇王■出演:今井清隆,金剛龍謹,舘田善博ほか ■国立能楽堂,2025.3.14 ■まず、プレトーク「祇王と<女どうしの絆(シスターフッド)>」(田中貴子解説)を聴く。 「<祇王>は上演機会が少なく金剛流での公演は特に珍しいこと」「出典は<平家物語>だが能作者は不明」「相舞が見せどころであること」「作品にはシスターフッドの要素が濃いこと」などが紹介された。 また、白拍子についても詳しい説明があった。 今様は歌(謡)が中心で、白拍子は舞を主にしながら歌うこと、遊女や傀儡は座って芸をするのに対し、白拍子は立って芸をすること、当時は女性が立つのははしたないとされたこと、白拍子は芸能者として差別されず、自宅を拠点に営業し、母から娘へと芸を継ぐ女系の職能集団であったことなど、白拍子の社会的背景が語られた。 また世阿弥の時代には白拍子は衰えて曲舞になった。 このことから今日の舞台は曲舞と言える。 またプログラムに掲載された「能<祇王>の背景ー白拍子と曲舞」(兵藤裕樹己著)も併せて読む。 導師と助音、座頭(検校)と弟子、瞽女とツレ、そして能のシテとワキ(ツレ)など、芸能者の「二人づれ」の関係性が論じられており、そこからシスターフッドへと繋がる視点がみえてくる。 能「祇王(ぎおう)」の上演時間は60分と比較的短い。 祇王と仏御前が清盛のもとに参上し、二人の相舞、絆の誓い、そし仏御前の破の舞で終わる構成であり、やはり相舞が最大の見どころだろう。 面はシテが「小面」、ツレが「孫次郎(金剛景頼作)」。 プレトークとプログラム記事、そして舞台の三点が揃い、作品世界を深く味合うことができた。 狂言「横座」は、行方不明になった牛の持ち主をどのように決めるかという筋立てで、最期に巧みなオチがつく。 能とは対照的な軽妙さで楽しめた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7048/

(キャンセル)■ドン・ジョヴァンニ

■作曲:W・A・モ-ツァルト,演出:グリシャ・アサガロフ,指揮:飯森範親,出演:ヴィートプリアンテ,田中大輝,フランチェスコ・レオーネ,イリーナ・ルング他,管弦楽:東京交響楽団,合唱:新国立劇場合唱団 ■新国立劇場・オペラハウス,2026.3.5- 12 ■この作品は2014年に同じ演出家・劇場で観ている。 放蕩児ジョヴァンニが地獄へ落ちる壮絶な最後をまた見たくなったのでチケットを購入したが、体調不良のため劇場へ行くことができなかった。 残念! *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/enjoy/record/detail/37_031145.html

■能楽堂三月「左近三郎」「須磨源氏」

*国立能楽堂三月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・左近三郎■出演:大藏彌太郎,吉田信海 □能・観世流・須磨源氏■出演:西村高夫,福王和幸,村瀬堤ほか ■国立能楽堂,2025.3.4 ■「須磨源氏」では、光源氏が前場では老人として、後場では若き貴公子として登場する。 その姿が舞台に現れた瞬間、こちらの想像も一気に広がっていった。 しゃがれた声でゆっくりしゃべるシテを見ていると、あの光源氏も年老いてしまったのかと自然に納得させられる。 後場では声の調子を一変させ、早舞も爽快にこなす。 面は前場の「笑尉」から後場の「中将」へと変わるが、シテの体格のためか後場の面がやや大きく見え、どこかずんぐりした印象の光源氏になっていた。 でも、これこそが当時の貴公子らしい気品として強く伝わってきた。 衣装も緑系で落ち着いた趣があり、「青鈍(あおにび)の狩衣」と記されていたが、舞台上ではより鮮やかに映っていた。 「なほも多生を助けんと、兜率天より、再びここに天降る」。 光源氏の言い訳にも聞こえる。 ただただ此岸が恋しいと素直に言えばよいのに、と思ってしまった。 狂言「左近三郎(さこのさむろう)」は締りのよい構成の作品である。 猟師と禅僧が、「殺生せよ、殺生せよ、刹那も殺生せざれば、その身地獄へ矢のごとく」「善悪不二」といった禅宗の戒律をめぐって問答を交わし、最期には両者が納得して幕が下りる。 緊張感に満ちた舞台で、短いながらも愉快な時を過ごせた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7047/

■能楽堂二月「子盗人」「高砂」

*国立能楽堂二月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・子盗人■出演:高野和憲,中村修一,深田博治 □能・観世流・高砂■出演:山﨑正道,山﨑友正,御厨誠吾ほか ■国立能楽堂,2025.2.28 ■プレトーク「近代絵画はどう「高砂」を描いたか」(小林健二解説)を聴いた。 今月の演目に合わせ「松浦佐用姫」「鉢木」「高砂」に沿った内容で、梶田半古「比禮婦留山(ひれふるやま)」と菱田春草「時頼図」それに川村清雄「高砂」が紹介される。 解説は短い時間だったが、プログラムに掲載された絵を見返しながら物語世界に再び入り込むことができた。 春草の「時頼図」ではワキの北条時頼を描かれている点が興味深い。 また川村清雄の「高砂」には亀は描かれているが鶴がいない。 これは画面右下の和歌「たづ(鶴)のゐる・・」にその存在を託しているのだろう。 世阿弥作の「高砂」が和歌や漢詩句を巧みに織り込んだ緻密な詞章を特徴とすることを思えば、画家もまた世阿弥の手法に呼応して描いたのかもしれない。 「高砂(たかさご)」はワキの登場から舞台全体を力強いテンポで包み込む。 続いて現れるシテの尉とツレの姥が橋掛かりで見つめ合う姿は、時間がふっと止まった静謐さを帯びていた。 後場ではシテ住吉明神が舞う神舞の力強さに再び圧倒される。 動と静の対比が鮮烈で、しかも詞章の練度が高いため舞台に確かなリズムが生まれている。 テンポとリズムが見事に統一された、世阿弥の完成度が高い作品だ。 久しぶりに脳味噌がピクピクと喜ぶような体験をした。 面は前シテが「小尉(洞白作)」ツレは「姥」、後シテは「変霊神(かわりれいしん)」。 狂言「子盗人(こぬすびと)」は盗人が寝入っていた子の可愛さに心を奪われ、盗みを忘れて子をあやしてしまうという、人の温かさがにじむ作品である。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7046/

■能楽堂二月「泣尼」「松浦佐用姫」

*国立能楽堂二月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・大蔵流・泣尼■出演:大藏基誠,大藏彌右衛門,大藏教義 □能・観世流・松浦佐用姫■出演:関根知考,大日方寛,大藏彌太郎ほか ■国立能楽堂,2025.2.18 ■狂言「泣尼(なきあま)」は、説法を頼まれた住職が自信の無さから尼を同伴し、法談の最中に泣いてもらうことで場を取り繕うとする。 しかし肝心な場面で尼は居眠りをしてしまう。 約束した布施の分け前をどうするか、損得が絡む一曲である。 「松浦佐用姫(まつらさよひめ)」は世阿弥作と伝わり、2000年に観世流の公定演目に採用された比較的新しい曲とある。 事前に詞章を読んだ段階では物語に深みは感じるものの、舞台のイメージが掴みにくかった。 しかし実際の上演では、詞章が役者の身体を通して立ち上がり、佐用姫の心の揺れが鮮やかに伝わってくる舞台となっていた。 前場での佐用姫と遣唐使・狭手彦との出会い、後場では遣唐船が見えなくなるまで領巾を振り続ける姿、そして形見の鏡を手に入水する終幕まで、胸が締めつけられる思いだ。 解説に「後シテが鏡に映る趣向は「井筒」と同じ・・」とあったが、まさに「井筒」を想起させる工夫にみえて、世阿弥らしい巧らしさも感じられた。 力強い地謡が物語を引っ張っていたのも印象的であった。 シテの発声が澄んでいたら佐用姫により近づけたかもしれない。 面は前シテが「棹さし(近江作)」、後シテは「小夜姫(龍右衛門作)」で物語の陰影を支えていた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7044/

■未練の幽霊と怪物、「珊瑚」「円山町」

*「円山町」,「珊瑚」の2作品を観る. ■作・演出:岡田利規,音楽:内橋和久,謡:里アンナ,出演:アオイヤマダ,小栗基裕,片桐はいり他 ■神奈川芸術劇場・大スタジオ,2026.2.13-3.1 ■いずれも能楽のフォーマットを応用した音楽劇である。 2021年上演の「挫波(ザハ)」「敦賀」がとても刺激的だったので、今回も期待してチケットを購入した。 舞台は簡素ながらも橋掛かりが設けられ、囃子方が一人、地謡が一人座る。 幕が開いても照明は変化せず、客席が明るいままという設定が独特の緊張感を生む。 シテ役は直面で登場する。 「円山町」では仕事で成功しながら夜の街で他殺に遭った、表裏のある女性がシテとして現れる。 「珊瑚」では沖縄・辺野古の米軍基地建設で滅ぼされた湾の珊瑚がシテとなる。 どちらも「社会とその歴史の犠牲者」である共通点を持つ存在だ。 前場では、まずワキが状況を語り、前シテが現れて過去を振り返る。 中入りではアイが物語を補足する。 囃子の演奏を背景に、役者と地謡の詞章が絡み合い、舞台に緊張感が生まれる。 後場に入ると科白は極端に少なくなり、後シテの舞が長く続く。 その舞(ダンス)は次第に激しさを増し、狂おしいまでの表現へと向かう。 両作品とも、犠牲者の姿を言葉よりもパフォーマンス的なダンスで表現しているように感じた。 「珊瑚」のシテは人間ではないため、ダンスと謡いだけで十分に世界観が伝わる。 しかし「円山町」では、後シテが心の内を詞章として吐露する場面がもっと多くてもよかったのではないだろうか。 なぜ此岸へ戻って来たかが曖昧なままであった。 岡田演出特有の、ゆっくりと捻りの効いた身体の使い方と非感情的な発声は、能の形式にとても馴染んでいた。 また、アイ役片桐はいりによる忙しい語りが舞台にリズムを与えていた。 役者たちの身体が異化されていく面白さが、目の前で立ち上がる舞台だった。 さらに渋谷という繁華街の空気感、沖縄のサンゴ礁の広がりといった、場所性を反映した衣装が視覚的な楽しさを添えていた。 特に「珊瑚」の後シテの衣装は、色彩とデザインで海中世界を想起させ、観る者の想像力を刺激していた。 *劇場、 https://www.kaat.jp/d/miren2026 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、岡田利規 ・・ 検索結果は15舞台 .

■ハムレット

■作:W・シェイクスピア,演出:ロバート・ハスティ,出演:ヒラン・アベイセケラ,アリスター・ペトリ,フランチェスカ・ミルズ他 ■TOHOシネマズ日比谷,2026.2.13-(ナショナル・シアター,2025年収録?) ■舞台前半、南アジア的な軽やかさをまとった主人公像が英国演劇の枠組みに否応なく溶け込もうとしているようにみえた。 どこか植民地時代の影が反射しているようにも感じられる。 ハムレットの枯れたようで甲高い声による独白は、キリスト教的世界観から距離を置き、宗教性を感じさせない独特な響きを持っていた。 また、小人症のオフィーリアは身体的な異化を強烈に発揮し、舞台上を奔放に駆け回る。 二人の姿には、現代の若者文化の祝祭的なエネルギーが垣間見られる。 また(映像内の)観客の笑いが絶えず、英語を母語としない私にはニュアンスを掴み切れずもどかしさもあった。 しかし後半に入るとその笑いがピタリと止む。 ハムレットとオフィーリアの奇異な関係性が見事に絡み合い舞台の空気が一変した。 ついに彼女は天使の翼をつけたのだ。 周囲の役者も弱強のビートを刻む科白で緊張感を高め、物語は鮮やかな逆転劇へと向かっていく。 いやー、ハムレットはやはり面白い。 改めてそう実感させられる舞台だった。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2025シーズン作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104638/

■黒百合

■原作:泉鏡花,演出:杉原邦生,出演:木村達成,土居志央梨,岡本夏美ほか ■世田谷パブリックシアター,2026.2.4-22 ■泉鏡花の摩訶不思議な世界観も垣間見える。 それより、花売り娘の雪、盲目の恋人・拓、そして子爵家の青年・滝太郎が織りなす三角関係が中心の据えられ、幻想味よりロマン主義的な色合いの濃い作品に感じられた。 雪は洪水で命を落とすものの、三角関係そのものは終幕まで崩れない。 当時の小説としては珍しい構図にみえる。 拓と滝太郎の双方が家系の長として同じ道を歩む運命にあり、さらに盲目の拓と健常な滝太郎という身体的対比が表裏一体の関係を形つくっている為と思われる。 それでも、この三角関係はどこか平凡に映った。 雪を狙う島野や多磨太などの高等遊民崩れの人物たちの描写が、物語の焦点を散らしてしまったのかもしれない。 黒百合探しを命ずる勇美子の内面も見え難い。 彼女はモウセンゴケの観察に心を奪われ過ぎていた。 異界の地から持ち帰った黒百合が洪水を呼んだとしても、黒百合はいつの間にかただの花へと回収されてしまった。 本作は泉鏡花の初期作品にあたるが、後の彼の物語世界の萌芽が随所に詰め込まれているようにも思える。 これを舞台化するのは至難の業だろう。 音楽・照明・美術のどれをとっても躍動的で、スタッフの苦心が舞台の隅々から伝わってきた。 しかしその丁寧さゆえに、鏡花の若さを詰め込み過ぎてしまったようだ。 カーテンコールの拍手がやや弱かったのは、その均一な舞台に観客が方向性を見失ってしまったのかもしれない。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/25221/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、杉原邦生 ・・ 検索結果は10舞台 .

■バレエ・コフレ2026

*下記□の3作品を観る. ■指揮:冨田実里,ピアノ:高橋優介,管弦楽:東京交響楽団,出演:新国立劇場バレエ団 ■新国立劇場・オペラパレス,2026.2.5-8 □A Million Kisses to my Skin ■振付・美術:デヴィッド・ドウソン,音楽:J・S・バッハ ■雪が散らつき、外出するのが少し億劫だった。 それでも、せっかく手に入れたチケットを無駄にしたくないと自分に言い聞かせて劇場に向かった。 近頃、新国立劇場バレエ公演の人気は上昇しているようで、この数年は応募しても抽選に外れたことが何度かあった。 オペラや演劇では経験しないことだ。 この作品は、幕が上がった瞬間に心を掴まれた。 ただし、作品と自分の感覚が重なるまでには少し時間がかかった。 途中からようやく同期が取れ、ある種の恍惚感に浸ることができた。 伸びやかで張のある振付が心地よく、音楽も作品をしっかり支えていた。 馴染み深いバッハの「ピアノ協奏曲第1番ニ短調」が流れ、バッハと現代バレエの相性の良さを改めて感じた。 デヴィッド・ドウソンという振付家は今回初めて知ったが、今後も注目していきたい。 □ファイヴ・タンゴ ■振付・美術・照明:ハンス・ファン・マーネン,音楽:アストル・ピアソラ,出演:奥田花純,井澤駿 ■黒一色の舞台に、黒と赤の衣装をまとったダンサーたちがタンゴ風のバレエを繰り広げる。 人間関係の機敏を描いているようだ。 奥田花純と井澤駿が主人公だが、身長差のためデュオの姿勢がややぎこちなく見える場面があった。 それ以上に気になったのは音楽が録音だったこどだ。 この劇場で録音に出会うのは珍しいが、今日の音響は残念ながら良くなかった。 特に低音が濁り高音は棘があり、ピアソラの音楽の魅力が損なわれてしまっていた。 前後の作品が生演奏だけに、その差がより際立ってしまった。 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、マーネン ・・ 検索結果は2舞台 . □テーマとヴァリエーション ■振付:ジョージ・バランシン,音楽:P・I・チャイコフスキー,出演:米沢唯,速水渉悟 ■これまでに何度も観てきた作品だが、チャイコフスキーの音楽を聴くと、やはり三大バレエの世界を思い浮かべる。 これは「見る音楽」と称されるだけあって、終盤のダンサーたちの華やかな動きには圧倒される。 今日の公...

■能楽堂一月「当麻」

*国立能楽堂一月特別公演の3舞台□では「当麻」のみを観る. □能・観世流・当麻■出演:観世銕之丞,観世淳夫,宝生欣哉ほか □狂言・大蔵流・文蔵■出演:大藏教義,大藏基誠 □能・金剛流・妻戸■出演:金剛永謹,飯冨雅介,橋本宰ほか ■国立能楽堂,2025.1.31 ■都合により「文蔵」「妻戸」は観劇を取り止め「当麻」のみを鑑賞した。 「当麻」は世阿弥の作とされている。 一月のプログラムに掲載されていた中野顯正解説による「能<當麻>とその背景」には「世阿弥は・・、善導浄土(直接には時衆)の世界を念頭に置いた」作品であると記されている。 上演時間は120分と長めであるが、それは世阿弥が浄土の教えを丁寧に舞台に織り込んでいる為であろう。 さらに「この作品は當麻曼荼羅が織られる糸が終始貫いている」とも述べていたが、それを十分に感じさせてくれる。 藤原豊成の娘・中将姫の厚い信仰心が阿弥陀如来の顕現を招き、やがて観世音菩薩となって此岸へ戻り、人々を救済する。 当時の民衆は、この舞台を通して浄土救済の有難い世界を実感したに違いない。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7043/

■ドッペルゲンガー

■作曲:F・P・シューベルト,演出:クラウス・グート,ピアノ演奏:ヘルムート・ドイッチュ,テノール歌唱:ヨナス・カウフマン ■NHK・配信(ニューヨーク・ウェイド・トンプソン・ドリル・ホール,2023.9.24-26収録) ■シューベルトの歌曲集「白鳥の歌」を演劇的な舞台作品に構成した公演である。 ここは馴染み深い「冬の旅」の続編として観ることにした。 全十四曲が歌われ、日本では「影法師」と訳される第13曲目「ドッペルゲンガー」が重要な位置を占める。 今回はピアノソナタ第21番(遺作)第2楽章が途中に挿入されている。 体育館のような広々とした空間に、規則正しく並んだ六十台のベッド。 その中央にピアノが置かれ、舞台を挟んで観客席が左右に広がる。 野戦病院と思わせる光景で、十数人の負傷兵がベットに横たわっている。 その中の一人が歌手ヨナス・カウフマンである。 数人の看護婦も忙しく歩き回っている。 先ずは第2曲「兵士の予感」から始まるが、野戦病院の負傷兵という設定はこの曲に驚くほどよく馴染む。 孤独な兵士が歌う姿はまさに演劇そのものだ。 その病院はそのまま戦場へと変貌し、ベットは銃弾を防ぐ盾となる。 爆撃機の影が横切り爆弾音が響き負傷兵たちは逃げ惑う。 第13曲「都会」では劇場の扉が開かれ、ニューヨークの喧騒が流れ込んでくる。 救急車のサイレンも聞こえる。 そこにカウフマンと瓜二つの人物が現れ第14曲「影法師」が歌われて幕が閉じる。 興味深い舞台だった。 負傷した兵士が歌うという設定により、十四曲のそれぞれが強い意味を帯びて心に迫ってくる。 これは演出の勝利と言ってよいだろう。 *NHK、 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025153961SA000/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、クラウス・グート ・・ 検索結果は2舞台 .

■ガリレオ、ENDLESS TURN

■原作:ベルトルト・ブレヒト,台本・演出:多田淳之介,出演:石井萠水,大内智美,大高浩一ほか,劇団SPAC ■静岡芸術劇場,2026.1.18-3.7 ■舞台にはドーム状の大きな構造物が置かれ、その周囲には大小の石が散らばっている。 まるで土星のようにも見えるその表面には映像や文字が投影され物語進行の一翼を担っていた。 冒頭では700万年前からの人類史がテンポよく振り返えられる。 その後、時代はガリレオの生きた17世紀へと移り物語が本格的に始まる。 ガリレオの死後も更に未来へと進みAIが人知を超えるとされる2050年頃まで描いてから幕を閉じるという構成である。 舞台では、地動説を唱えるガリレオと天動説に固執する宗教者たちとの対立が描かれる。 ガリレオは科学の基本である<観測>を重視するが、宗教者たちは望遠鏡を覗こうともしない。 つまり、彼らの多くも地動説が正しいことを感じていたのだろう。 教会の権威を守れることが分かった時点で受け入れることになるのだ。 真理や真実の追究はいつの時代でも権利・権力が纏わりつくのが常である。 それにしても登場人物の多い舞台である。 20人以上は登場していたのではないだろうか。 一人が複数役を演じたり、逆に複数人で一役を担ったりと、巧みに構成されていた。 ガリレオ役も子供時代、青年期、老年期と役者が入れ替わる。 衣装はどれもキッチュな雰囲気で、胸には電子基板のような装飾を付けられている。 ロボットを暗示しているのだろうか。 さらにラップ調の動きや、聞き取り難いスピーカーからの解説、文字による補足などが頻繁に挿入され、舞台は常に賑やかだった。 演出家は「俯瞰して見られるように作っている」と語っていたが、俯瞰の視点が高くなりすぎたのかもしれない。 ト書を含む説明が多く、結果としてガリレオの経歴をなぞるだけの印象が残った。 おそらく中高生向けに構成された舞台なのではないかと思われる。 *SPAC2025シーズン作品 *劇場、 https://spac.or.jp/25_autumn/galileo_2025 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、多田淳之介 ・・ 検索結果は17舞台 .

■ウォレン夫人の職業

■作:バーナード・ショー,演出:ドミニク・クック,出演:イメルダ・スタウトン,ベッシー・カーター,ケビン・ドイル他 ■TOHOシネマズ日比谷,2026.1.23-(ロンドン・ギャリック劇場,2025年収録?) ■主人公ヴィヴィが母ウォレンの過去と自身の出自を知り、価値観の違う母から独立していく物語である。 科白量が多いので余計なことを考えながら観ている余裕は殆ど無い。 舞台前半はウォレン夫人の自宅の庭、そして後半はヴィヴィが務める会計会社の事務室が舞台となる。 どちらもシンプルな美術で構成されており物語に集中し易かった。 登場人物は六人だが、物語の核心を語るのはウォレン夫人と彼女とホテルを共同経営しているクロフツである。 他の三人、芸術家ブレイド、ヴィヴィの恋人フランク、フランクの父である牧師サミュエルは物語を進める燃料役を担っている。 ヴィヴィは二つの過去を知り動揺する。 一つは、若き日の母が貧困から抜け出すために選んだ道の話、もう一つは、クロフツから聞かされる自身の父親にまつわる真実である。 ヴィヴィが強い精神力と高い教育に裏打ちされた独立心を持つことは理解できるが、過去を知る前後で彼女の行動に大きな変化がみられなかった点は気になった。 この舞台の弱点はヴィヴィの人生観や世界観が物語を通してほとんど揺るがず、母やクロフツのような現実の重みを感じにくかったことである。 一方で「ウォレン夫人の職業」というタイトルの強さは印象的で、まさに夫人の職業が物語を動かしていた。 それでも興味深い舞台だった。 日本の母娘物語とは一味違う価値観に戸惑いながらも、ナショナル・シアターの総合力が舞台の隅々にまで行き渡っていた。 NTL作品に外れは無い。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2025シーズン作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104636/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ドミニク・クック ・・ 検索結果は3舞台 .

■カルメン

■原作:プロスペル・メリメ,演出:アントニオ・ガデス,カルロス・サウラ,出演:エスメラルダ・マンザナス,アルバロ・マドリード,ハイロ・ロドリゲス他,舞団:アントニオ・ガデス舞踊団 ■NHK・プレミアムシアター,2026.1.5-(マエスト・ランサ劇場,2025.9.6-7収録) ■この作品は、2011年にマドリード王立劇場で上演された舞台映像を過去に観ている。 素晴らしかったという印象だけは強く残っている。 今回、2025年9月にセビリアのマンスト・ランサ劇場で上演した映像が配信されていたので、改めて鑑賞することにした。 アントニオ・ガデス舞踊団の定番作品だからだろうか、どこを切り取っても無駄が無く、過剰な演出も一切ない。 乾いた雑巾を絞り切ったような、徹底した研ぎ澄ましが感じられる。 背景に流れるギター演奏や歌唱もダンスも完全に一体化しており、「ハバネラ」も「闘牛士の歌」も、まさにここぞという場面で響き渡る。 ダンスは切れ味抜群で、観ているこちらの背筋まで自然と伸びてしまうほどだ。 緊張感は常に高く保たれているが、時折笑いを誘う場面もあり、沈黙の使い方も効果的である。 照明の明暗も巧みに計算され、舞台全体の抽象化に成功している。 これらの結果、ダンサーの肉体が一種の象徴へと昇華され、深い芸術的感動が押し寄せてくる。 アントニオ・ガデス舞踊団の最新「カルメン」を観ることができ、とても満足した。 *NHK、 https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2025153957SA000/index.html *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、アントニオ・ガデス ・・ 検索結果は2ブログ .

■ショウメイコウ Show me a code

■作・振付・演出:平原慎太郎,演出:稲葉賀恵,出演:小川ゲン,長友郁真,薬丸翔,那須凛ほか,舞団:OrganWorks ■吉祥寺シアター,2026.1.10-18 ■ダンスというより演劇に近い舞台だった。 「・・芸術活動が極端に制限された国で芸術表現を試みる人々の苦悩を描いた」という物語背景があり、科白も豊富に盛り込まれている。 出演者は役者とダンサーが半々だが、ダンサーも科白を担っているようだ。 青と白で彩られた美術ギャラリーを思わせる舞台美術は、階段や広間が幾何学的に配置され完成度が高い。 平原慎太郎の、身体同士を絡ませながら粘り気のある動きを特徴とする振付にも十分耐え得る空間となっていた。 演劇とダンスが離散と融合を繰り返しながら場面が展開していく。 ダンスは、その瞬間の役者の心情や風景を可視化する役割を担っているようにみえる。 振付はストーリーと巧くみに絡み合い、物語が描く国家と個人の対立の激しさ、そこから生まれる喜怒哀楽を強く支えていた。 むしろ感情の振れ幅が大きい物語だからこそ、ダンスによる心情表現が自然に成立していたのかもしれない。 これは演劇とダンスが融合した<演劇ダンス>と呼ぶべき作品に近い。 平原慎太郎は近年、オペラ「浜辺のアインシュタイン」や「東京オリンピック開会式」など、異分野の振付を手掛けているが、今回のような    <演劇ダンス>を含め、今後も新たな表現に挑戦し続けて欲しい。 *劇場、 https://www.musashino.or.jp/k_theatre/1002050/1003231/1008319.html *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、平原慎太郎 ・・ 検索結果は9舞台 . *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、稲葉賀恵 ・・ 検索結果は4舞台 .

■能楽堂一月「三本柱」「百万」

*国立能楽堂一月普及公演□の2舞台を観る. □狂言・和泉流・三本柱■出演:松田高義,野村信朗,奥津健一郎,井上蒼大 □能・喜多流・百万■出演:狩野了一,塩津希介,野口能弘,井上松次郎ほか ■国立能楽堂,2025.1.10 ■プレトーク「「狂ひ」ということ、そして「百万」という名の意味するもの」(林望)を聴いた。 講師は、「百万とは念仏などを百万回唱えることであり、その反復によってエクスタシー(法悦)状態に入ることができた」「シテである百万はシャーマニズム(巫術)におけるシャーマン(巫女)の位置にある」「清凉寺はセアンス(降霊)の場になっている」「シテの百万は子供を失って狂ったのではなく、子と再会する機会を増やすためシャーマンになり<狂う>ことにした」などを解説する。 「百万」は観る側に一定の集中力を求める作品である。 変化のある「次第」はともかく、「車の段」「笹ノ段」、そして「クセ」へと進むにつれ、母の心情がひたすら吐露されていく。 しかし「「カケリ」「クルイ」といった狂乱を表す場面がなく、さらに「クセ」は地謡が多くを担うため、母の狂気が醒めて見え、感情移入が難しい。 舞台に意識を向け、一句一句のイメージを自ら立ち上げていく姿勢が求められる。 シテ面は「曲見(しゃくみ)」。 「三本柱」は正月にふさわしく明るい作品である。 新しい蔵の柱を 三人 のアドが知恵を絞って持ち帰り、それをシテ(果報者)が褒め称えるという筋立てで、四人のはしゃぐ姿には素直に同調できた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7040/

■能楽堂一月「絵馬」「牛馬」

*国立能楽堂一月定例公演□の2舞台を観る. □能・宝生流・絵馬■出演:金森秀祥,金森良充,金井賢郎.木谷哲也ほか □狂言・大蔵流・牛馬■出演:善竹忠亮,善竹大二郎,茂山千三郎 ■国立能楽堂,2025.1.7 ■正月らしく、客席には和服姿の観客が多く見られた。 祝典能では、神霊をシテとする脇能の後に脇狂言が続くのが常だが、今日はその順番で演目が始まった。 「絵馬」は、前場で尉と姥が伊勢神宮の社殿に絵馬を掛け、後場では天照大神、天鈿女命(あめのうずめ)と天手力雄神(あめのたぢからおのかみ)が登場し、天岩戸の故事を再現し、神舞を続いて神楽を舞う。 新年にふさわしい豊かな趣のある作品である。 神舞では天照大神の舞に切れと速さがあり、舞台が一気に引き締まった。 神楽では二神の相舞が華やかで見事で、豪華なお年玉をもらった気分になった。 面は尉が「小尉(こじょう)」姥は「姥」、後場になって天照大神は「外河(とごう)」、二神は「小面」と「邯鄲男」。 「牛馬」は過去に観たことがあったが、詳細は忘れていた。 博労(牛や馬の仲買商人)同士が市場の権利を争う話で、今年の干支に因んで取り上げられたのだろう。 牛と馬の効用を巡る掛け合いが軽妙で、改めて楽しめた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7039/

■くるみ割り人形

■音楽:P・I・チャイコフスキー,振付:ウィル・タケット,指揮:マーティン・イェーツ,出演:東真帆,奥村康祐,福岡雄大ほか,演奏:東京フィルハーモニー交響楽団 ■新国立劇場・オペラパレス,2025.12.19-26.1.4 ■クリスマス公演の定番作品だが、近年は年初まで上演されるようになり、年末の多忙な時期を避けて観られるのは有難い。 しかもウィル・タケット振付による新作と聞き、期待してチケットを購入した。 新作の特徴としては・・ 1.チャイコフスキーの楽譜に書かれたシナリオに、より忠実に近づけていること。 2.作曲家が望んだとされる演奏速度に、より近づけていること。 3.「菓子の国」のディヴェルティスマンをすべて<菓子の踊り>に統一したこと。 舞台装置は凝っており、映像も多用されていて非常にカラフルだ。 「菓子の国」ではキャンディ・綿飴・ゼリー・ポップコーンなど多彩な菓子が登場し、どれもくっきりとした鋭い照明下で映えていた。 まるでディズニーランドに来ているかのような華やかさがある。 私は本来、質素ながら重厚な舞台、たとえば古い英国ロイヤル・バレエなどの様式、を好むため、今回はやや趣味から外れていた。 若い観客を惹きつける工夫がなければ、近頃は劇場運営も難しいのだろう。 主役のクララと助手(王子)はグラン・パ・ド・ドゥも無難に熟していた。 とくに群舞が素晴らしかった。 チャイコフスキーのバレエ音楽は楽しさと寂しさが共存しており、年末・・今年は年初だが、この時期に聴くには最適だ。 演奏も申し分無かった。 劇場は満席で、スタッフやキャストは大変だろうが、年初公演は成功すると確信できる。 当劇場のバレエ公演はオペラと比較して客層が真逆になる。 この日は若い女性が九割を占めていた。 ともあれ、今年の幕開けとして順調な舞台だった。 *NNTTバレエ2025シーズン作品 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/ballet/nutcracker/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ウィル・タケット ・・ 検索結果は2舞台 .

■朧の森に棲む鬼

■作:中島かずき,演出:いのうえひでのり,出演:松本幸四郎,中村時蔵,坂東新吾ほか ■アップリンク吉祥寺,2026.1.2-22(新橋演舞場,2024.11収録) ■作品紹介には「阿弖流為(アテルイ)に続く待望の第二弾!」とある。 第一弾が面白かったこともあり正月早々に映画館へ足を運んだ。 今作は「底知れぬ欲望に捕らわれ、狡猾な詭弁で人々を騙し、底辺から頂上を狙う主人公ライ」に焦点を当てている。 前半はどうにも身動きがとれない印象だった。 森に棲む魔物から授けられた魔力が彼を守ってしまうため、物語の展開が読み易く、緊張感が薄れてしまう。 「マクベス」や「リチャード三世」を思わせる場面が時折登場するものの、ライの心は終始閉ざされたままだ。 彼は何を考えているのか外側からは想像しずらく、天下統一のビジョンも見えてこない。 上映時間200分が長く感じられた。 しかし後半に入ると、ようやくエンジンが掛かってきた。 それは、前半でライと交わりを持った人物・・、上司・愛人・同僚・部下・親友・知人の関係を彼の欲の力で次々と暴力的な解決をしていく展開だ。 ここは作家と演出家の名コラボらしい捻りの効いた流れが見事に発揮されていた。 主人公ライの支離滅裂な強欲だけが突っ走る舞台だった。 そこに<大きな物語>が欠けていたのは残念に思う。 最後に彼は鬼となり、朧の森を支配して幕が下りる。 ヒトがオニになる作品だが、もし彼の欲望を<大きな物語>に向かわせたら、オニではなく、政治の、宗教の、英雄になったのかもしれない。 *シネマ歌舞伎作品 *シネマ歌舞伎、 https://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/2850/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、いのうえひでのり ・・ 検索結果は18舞台 .

■インター・エイリア

■作:スージー・ミラー,演出:ジャスティン・マーティン,出演:ロザムンド・パイク,ジェイミー・グローヴァー,ジャスパー・タルボット ■シネリーブル池袋,2025.12.26-26.1.8(リトルトン・シアター,2025.7-9収録) ■登場人物は主人公ジェシカと彼女の夫、そして息子の3人である。 しかし実際には、ジェシカが複数の役を演じ分けながら物語を進めていくため、ほぼ一人芝居のような構造になっている。 一人数役ゆえに、科白の中にト書きのような状況説明が多く含まれるが、重要な場面では夫や息子も科白を発する。 作品全体の9割以上をジェシカが語り続けるという大胆な構成が面白い。 ジェシカは裁判官で、夫も弁護士という裕福なリベラル家庭に見える。 そして契約書用語のラテン語タイトルが意味深いニュアンスを漂わせている。 彼女は一人息子を深く愛しており、同時に自身の職業にも強い誇りを持っている。 前半はこの二つの軸を中心に物語が展開していく。 素人の私から見ても、特に判事としての仕事の描写は興味深かった。 後半、息子が性加害で訴えられるという重大なトラブルが発生する。 ジェシカは息子を救うため、リベラルが掲げる<権力からの自由>を手放し、<権力への自由>である<法の正義>だけを頼りにして解決しようとする。 しかし息子は<人としての正義>を選び、自ら罪を認めて自首をする・・。 判事という職業を持つ家庭に法的紛争が持ち込まれることで、家族関係は複雑に揺れ動く。 この複雑さを作品は巧みに救い上げ、舞台を魅力的なものにしていた。 ジェシカを演じたロザムンド・パイクの熱演は見処であった。 *NTLナショナル・シアター・ライブ2025作品 *映画com、 https://eiga.com/movie/104635/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ジャスティン・マーティン ・・ 検索結果2舞台 .