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■ガラスの動物園 ■ノイマイヤー、ライフ・フォー・ダンス

*以下の□2作品を観る. □ガラスの動物園 ■原作:テネシー・ウィリアムズ,振付:ジョン・ノイマイヤー,指揮,ルチアーノ・ディ・マルティーノ,出演:アリーナ・コジョルカ,アレッサンドロ・フローラ,パトリシア・フリッツァ他,舞団:ハンブルグ・バレエ団,演奏:ハンブルク交響楽団 ■NHK・配信(ハンブルク国立歌劇場,2024.5.28-29収録) ■ノイマイアー80歳で振り付けた作品です。 彼は17歳に原作を芝居で観ている。 感動したことでしょう。 私が初めて観たのは演劇集団円の舞台でした。 やはり痛く感動したのを今でも覚えています。 これでテネシー・ウィリアムズにのめり込んだ時期があった。 でもバレエは初めてです。 はたして不安が的中しましたね。 複雑な心理描写をバレエに乗せるのは至難の業、特にこの作品はです。 でも見応えはある、さすがノイマイアー。 それよりも過去の演劇がバレエを邪魔してしまった。 観ていなければ違った感想を持ったはずです。 □ノイマイヤー,ライフ・フォー・ダンス ■出演:ジョン・ノイマイヤー,ヘザー・ユルゲンセン,ジャクリーヌ・チュイルー他 ■NHK・配信(ドイツ,2024作) ■ハンブルク・バレエ団を今年退任するノイマイヤーのドキュメンタリー映画です。 「人間に寄り添う現代振付家」と彼は言われている。 それは「踊り手の感情や内容や意図が形を決める」振付をするからです。 「形が内容を決める」クラッシク・バレエと逆ですね。 しかも「クラッシクもミニマルも表現舞踊も何でも扱う物語作家」でもある。 彼は言葉を続ける。 「舞台で命の息吹を感じたい」「劇場で感動するのは自分(の一部)と再会するから」「私は踊る人を見たいのではなく人間をみたい」。 ノイマイヤーの人間主義が現れていますね。 *NHK、 https://www.nhk.jp/p/premium/ts/MRQZZMYKMW/blog/bl/p1EGmp948z/bp/pVWann5pvP/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ジョン・ノイマイヤー ・・ 検索結果は4舞台 .

■テーバイ

■原作:ソポクレス「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」,演出:舟岩裕太,出演:植本純米,加藤理恵,今井明彦ほか ■新国立劇場・小劇場,2024.11.7-24 ■ソポクレスの3作を一つにまとめて舞台にしたらしい。 「オイディプス王」はコンパクトにまとまっていて楽しく観ることができた。 神託が舞台の面白さを深めていますね。 次の「コロノスのオイディプス」は初めて観ます。 オイディプスの家族が前面に現れてくる。 家族の広がりは新鮮です。 今井明彦がオイディプスを見事に演じていたのが印象的でした。 「アンティゴネ」は<家族の物語>から<倫理と法律>へと舵を切る。 そこにはクレオンがいる。 彼は20世紀の独裁者のように描かれます。 クレオンを押し出し過ぎて<家族の物語>が薄まったように感じる。 でも、神託・家族・国家の三つが拮抗している三作を一つにすることでオイディプスの全体像を浮かび上がらせたのは確かです。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/thebes/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、船岩裕太 ・・ 検索結果は2舞台 . *追記・・購入してあったプログラムを読む。 「・・船岩君はクレオンに注目するとのことだが、まさにこれは近代主義を理解せぬまま近代国家へと移行した私たちの近代、その再検討以外のなにものでもない」(「船岩裕太とリアリズム」(鐘下辰男著))。 クレオンの行動こそ現代日本で続いている近代なき国家と同じであることに納得します。 それと「死と生物学と演劇」(小林武彦著)を面白く読む。 「・・積極的に寿命を縮める働きのある遺伝子の存在に気が付く・・」。 これは現代に届く神託の声かもしれない。

■演劇島

■台本・演出・美術:佐藤信,振付・出演:竹屋啓子,出演:櫻間金記,龍昇,内沢雅彦ほか,劇団黒テント ■座高円寺,2024.11.8-12 ■ドラマリーディングに近い? 上演テキストは演出家が馴染んだ30作品から選んでいるようです。 その台詞をコラージュにして喋り演じる。 数分ごとに作品が入れ替わっていく。 このため集中力が必要です。 特に「金島書」「テンペスト」「地がわれらを圧迫して」を構成の柱にしているらしい。 テンペストしか知らないがコラージュのため気にならない。 しかし幾つもの物語断片が一つにまとまっていく流れは見え難い。 ゴダールの「映画史」を真似て「演劇史」だと演出家が言っていたが、どれだけ作品を観ているかが勝負になるのかもしれない。 よく知る「ゴドーを待ちながら」の場面でそう考えてしまった。 観る側に厳しい舞台ですね。 そのなかで能楽師櫻間金記とダンサー竹屋啓子の二人の絡み合いが面白い。 追放者役の櫻間は「私は世阿弥だった」「私はプロスペローだった」・・、後半になると「私は世阿弥ではなかった」「私はプロスペローではなかった」・・!? エアリエル役竹屋啓子も存在感ある塵になっている。 役者たちも皆熟れていて声も動きも整っている。 男女比は同じだが後期高齢者が目立つ客層です。 1970年代前後から黒テントを知っている者は皆この歳に入ったのですね。 この劇団は考えさせられる舞台が多い。 科白の裏に社会性が塗り込めてある。 今回もそうみえます。 ところで櫻間金記の科白「金島書」には字幕が必要です。 やはり聞き難い。 また作品の説明が映されたが、いま観客がそれを知っても舞台を分断するだけかもしれない。 *劇場、 https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3227 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、佐藤信 ・・ 検索結果は7舞台 .

■能楽堂十一月「寝音曲」「蝉丸」

*国立能楽堂十一月普及公演の□2舞台を観る. □狂言・大蔵流・寝音曲■出演:大藏教義,大藏基誠 □能・観世流・蝉丸(替之型)■出演:上田拓司,上田公威,大日方寛ほか ■国立能楽堂,2024.11.9 ■「寝音曲(ねおんきょく)」。 謡の巧い太郎冠者は主人の前では謡いたくない。 毎回謡わせられるからだ。 しかし主人の膝枕の上でリズムに乗って気持ちよく謡ってしまう。 酒を呑む豪快な場面が楽しい。 プレトーク「蝉丸の謎・蝉丸の能」(佐伯真一解説)を聴く。 「百人一首の坊主めくりでは蝉丸は坊主か否か?」から始まり「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てし無ければ」を百人首と比較する。 そして「後撰和歌集」「新古今和歌集」「今昔物語」「無名抄」等々から「最初は盲目ではなかった」「途中から帝の皇子になった」など蝉丸説話の成り立ちを追う。 「蝉丸(せみまる)」は舞踏的な作品である。 蝉丸が登場する時はいつもドキドキする。 今日はそれほどでもなかった。 輿舁(こしかき)が蝉丸にピタリとへばり付いていなかったからである。 歩行姿も大事だ。 席も良くなかった。 クリ・サシ・クセで逆髪と蝉丸を正面から見ることができなかった。 動きのない二人の姿をじっくりみたい。 姉と弟の再会と別れの物語は表面的である。 美しい詞章と舞踏的な動と静が全てである。 両シテは声を含め動きも似ていた。 調べたら兄弟だった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2024/11189/

■能楽堂十一月「仁王」「白楽天」

*国立能楽堂十一月定例公演の□2舞台を観る. □狂言・和泉流・仁王■出演:深田博治,野村万作,月崎晴夫ほか □能・金剛流・白楽天(鶯蛙)■出演:廣田幸稔,宇高徳成,則久英志ほか ■国立能楽堂,2024.11.6 ■「仁王(におう)」は負け続きの博奕打ちが仁王像に変装して参詣人から供物を巻き上げようとする話である。 参詣の一人が仁王の体を触ったが柔らかいので変装がばれてしまう。 仁王像の不動姿と参詣6人の揃いの動さが重なり合い舞台に面白いリズムを作り出していた。 「白楽天」は唐代の詩人白楽天一行が筑紫にやってくる。 しかし魚翁に化けた住吉明神に追い返されてしまう。 中国の詩と日本の和歌の違いを二人で披露するところが見所である。 一行の衣装が中国風で楽しい、それに歩き方も。  間狂言では鶯と蛙の精が来序して和歌を謡い舞を舞う。 活き活きとした発声と動きが効いていた。 次の荘厳な真ノ序ノ舞と対比させて作品を活性化したからだ。 シテ面は「三光尉」から「石王尉」へ。 ところで大鼓が強くキンキン耳に響いた。 後半から慣れてきたが、唐からの一行のために盛り上げたのかな? *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2024/11188/

■光の中のアリス

■作:松原俊太郎,演出・出演:小野彩加,中澤陽,出演:荒木知佳,伊東沙保,古賀友樹,東出昌大 ■シアタートラム,2024.11.1-10 ■劇場の特徴である凸型舞台の奥に演奏機器(ドラムマシン?)を配置して納まりの良い形にしてある。 演奏者の上には英語字幕板、その上に役者達を映すモニターが6台みえる。 客が入場している時から役者が舞台を歩いたりしているが、全員そろったところで皆で握手などをして幕が開く。 役者たちの声は明瞭、動きは明確で鍛錬されているのがわかります。 隙がない。 観客と目が合う時がある。 緊張感が漂います。 抽象的な用語も科白に入るので尚更です。 理解できた場面は東京ディズニーランドの批判くらいでした。 現代は「のアリス」を舞台に乗せると極端に二分化される。 この舞台は極めて難解な部類です。 振り落とされてしまった。 作者松原俊太郎の名前は聞き覚えがある。 調べたら劇団地点がいつも選ぶ作家でしたね。 地点の舞台を思い返すと今日の科白に似ているようにも感じられる。 でも似て非なるもの、劇団の違いでしょう。 たぶん抽象化を身体で受け止める方法に違いがあるらしい。 芸術監督推薦の<フィーチャード・シアター>だけあって今日の舞台は未来志向でした。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/20768/

■さようなら、シュルツ先生

■原作:ブルーノ・シュルツ,構成・演出:松本修,出演:石井ひとみ,榎本純朗,大宮京子ほか,劇団MODE ■座高円寺,2024.10.18-27 ■ガラーンとした空間、響く声、舞台と客席の間に谷があるような距離感・・。 この劇場にいつも戸惑ってしまう。 シュルツ1930年代の作品らしい。 6話のオムニバスのようです。 幕が開き照明を絞った舞台でやっと集中できるようになる。 ・・小学校に通う年金暮らしの男、鳥を飼う父親、マネキン人形と父、サナトリウムでの父と息子の再会、人物画のある部屋・・。 父親とその家族が中心だが18人の役者が歩き語りポーズを取る。 話が繋がっているようだが筋は追えない。 カフカやドイツ表現主義映画を思い出します。 しかも「変身」より奇譚な物語で占められている。 ザリガニやゴムホース、父の再生など驚きの連続ですね。 性の挑発や倒錯もみえて退廃的な雰囲気が漂う。 そこにナチス影響下の東欧の暗さが被さる。 「劇的とは何か、・・」。 演出家の挨拶文です。 物語を内在する役者の身体そのもので劇的を表現する。 このようにみました。 先導する音楽と照明のなか、奇譚・性・ナチス・都市などの物語を持つ(ように観客の私からみえる)役者が静止する場面で劇的さを現前させる。 静止ポーズが多いのはこのためでしょう。 面白く観ました。 ところで劇的が希薄な場面もあったように感じる。 その理由は動の不足でしょう。 娼婦が歩く、小学生が騒ぐなど動から静への移行では静と動の残照が劇的へ繋がった。 しかしマネキン人形や人物画はこの動が省かれている。 動の無い静止は劇的さが薄まる。 動の残照には物語の過去が詰まっているからです。 MODEの舞台は10年ぶりですね。 カーテンコールで演出家が「(この舞台は)今の日本に無いもの」と言っていた。 MODE独自の劇的をより発展させてほしい。 *劇場、 https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3255 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、松本修 ・・ 検索結果は5舞台 . *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ブルーノ・シュルツ ・・ 検索結果は2舞台 .

■吉原御免状

■原作:隆慶一郎,脚色:中島かずき,演出:いのうえひでのり,出演:堤真一,松雪泰子,古田新太ほか,劇団☆新感線 ■新宿バルト9,2024.10.25-11.8(青山劇場,2005年収録) ■いつもとは違うゲキXシネを感じました。 原作の人間味が滲み出ているのでしょう。 吉原の裏話は多いが、しかし前半は盛り上がらない。 主人公松永誠一郎が夢で過去を知った後からが面白い。 誠一郎と勝山太夫、二人の情念が完全燃焼しましたね。 傀儡(くぐつ)の民が自国として遊郭吉原を造るが、徳川秀忠に忠実な裏柳生一族はこれを邪魔する。 関ヶ原で戦死した徳川家康の身代わりになった傀儡の者が遊郭を承認したからです。 替玉家康の出身を隠す為、そして政権を脅かす傀儡吉原を滅ぼす。 これが秀忠の遺言を守る裏柳生が動く理由です。 いやー楽しい!、テンコ盛りです。 流浪民の存在と性の解放は国家権力が特に恐れることです。 これが通奏低音のように響いている。 深みが出ている。 その存在が裏にある天皇制をも照射している? いやー面白い! 高尾大夫の説得で誠一郎が吉原楼主として残るのも安定感のある終わり方でした。 *劇団☆新感線2005年作品 *ゲキXシネ、 http://www.geki-cine.jp/yoshiwara/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、いのうえひでのり ・・ 検索結果は15舞台 .

■セツアンの善人

■作:ベルトルト・ブレヒト,音楽:パウル・デッサウ,台本・演出:白井晃,出演:葵わかな,木村達成,渡部豪太ほか ■世田谷パブリックシアター,2024.10.16-11.4 ■・・主人公シェン・テが失職中の飛行士ヤン・スンに恋をしてから盛り上がってきましたね。 そして一人二役のシュイ・タが登場して俄然面白くなった。 後半、彼の煙草事業の成功や従業員の対応で物語の二面性が見えてくる・・。 音楽劇というより歌唱の多い演劇とでも言うのでしょうか? 舞台美術も箱家の丸窓がアジアの都市を、天井の扇風機は飛行機を連想させる。 衣装はカラフルだが派手さを抑えている。 そして歌唱は10曲くらいあったがこれも衣装に合わせた歌詞です。 演奏も歌手の動きを邪魔しない。 演出家の好みと総合力が発揮されていました。 現代は善と悪の二項対立の表面が見え難くなっている。 この舞台は一つの善ともう一つの善を比較、具体的には互酬社会と資本社会を対立させている。 時代は前者が不利だが、一人二役で両者が一心同体であることを演出家は言いたいのかもしれない。 ところで、老人が劇の終わり方に不満だ!と言っていた。 後味を噛みしめるところで解説して舞台を壊してしまいましたね。 <一人二役>のまま幕を下すのがこの作品の妙味でしょう。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/16042/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、白井晃 ・・ 検索結果は20舞台 .

■ピローマン

■作:マーティン・マクドナー,翻訳・演出:小川絵梨子,出演:成河,木村了,斉藤直樹,松田慎也ほか ■新国立劇場・小劇場,2024.10.3-27 ■飲酒や麻薬、認知症や精神疾患の人物が登場する舞台は厄介です。 酒や病自身が舞台で役者から離れて独り立ちしてしまう。 それは役者より強い。 現実と舞台の<境界>を崩してしまう。 精神疾患らしい兄ミハエルは言語能力が低い。 彼は現実世界と言語世界の<境界>が分からない。 兄は弟のカトゥリアンが書いた小説を読んで殺人を犯してしまう。 ここで観客(私)は精神疾患という病が犯したという現実に一瞬醒めてしまう。 弟も精神疾患に属する人だが<境界>を越えないので観客は物語から醒めない。 後半、兄の言語能力を向上させ疾患を目立たなくすることで切り抜け、また兄の罪を弟がすべて被ることで舞台をまとめ直した。 弟の対応を正当化する酷い過去は両親の滑稽な行動で漫画にみえる。 両親の感化を受けた弟のサイコパス小説も同じです。 二人の刑事アリエルとトゥポルスキも兄と弟をずらした位置にいます。 これらサイコパス世界を楽しむという観方も有りでしょう。 今回は病の現実が<境界>を乗り越えてしまったが役者の演技力で何とか凌いだ。 力尽くでまとめた舞台でした。 *NNTTドラマ2024シーズン作品 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/the-pillowman/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、小川絵梨子 ・・ 検索結果は23舞台 . *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、マーティン・マクドナー ・・ 検索結果は3舞台 .