投稿

11月, 2024の投稿を表示しています

■冥王星の使者

■作:高取英,脚本・演出:流山児祥,音楽:巻上公一,協力:天野天街,振付:池田遼,人形:山田俊彦,劇団:流山児★事務所 ■新宿スターフィールフド,2024.11.21-12.1 ■高橋和巳「邪宗門」に想を得た舞台らしい。 「アマテラスに奪われた地上の統治権を奪い返すべく国津神の復権を唱える宗教団体」の話です。 これに源頼朝の義経追放が加わる。 国家や宗教を相手にするので物語は暗く重たい。 「信仰とは何か? 救済なり。 救済とは何か? 死なり。 死とは何か? 安楽なり」と教団教義は吠える。  複雑な流れです。 スサノオウとアマテラスの争いが現代の世直し教団と国家権力の闘いに再現される。 現天皇は偽者である! 義経と頼朝の争いにも広がっていく。 北条政子にアマテラスが乗り移った! 傀儡(くぐつ)は敵か味方か? 時空は飛び回る。 昭和の匂いがする舞台です。 肉体の匂いと言ってよい。 そこに天野天街の振付も被さる。 これで舞台はリズムを持った。 追い詰められた教祖高橋はあたかも冥王星の使者のごとく民の平穏な暮らしを求めて幕が下りようとする、、民のみえない舞台ですが。 同時に縄に絡めとられた役者が身動きできずにフェードアウトしたのは闘争がこれからも続く予感がしました。 聖師の次女マキが小児麻痺を克服し継主としての将来を見据えるかのように。 奥深い背景を消化したとは思えないが勢いで舞台をまとめる巧さが出ていた。 加えて、物理的に小さな舞台を十分に熟していました。 *流山児★事務所創立40周年記念公演 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/335210 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、流山児祥 ・・ 検索結果は7舞台 .

■魔弾の射手

■作曲:C・M・ウェーバー,指揮:エンリケ・マッツォーラ,演出:フィリップ・シュテルツル,出演:マウロ・ペーター,ニコラ・ヒンブラント,カタリーナ・ルックガーバー他,演奏・合唱:ウィーン交響楽団,ブレゲンツ音楽祭合唱団,プラハ・フィルハーモニー合唱団 ■NHK・配信(オーストリア・ブレゲンツ・ボーデン湖上ステージ,2024.7.12-19収録) ■美術の凝り方が尋常でない。 遠くには大きな青白い月が懸かり、湖畔の丘に古汚い民家が点在し、教会の時計台が倒れかかっている。 湖中では大きな蛇が馬車がベッドが機械仕掛けで大げさに動き、骸骨が泳ぎ回る。 火も多用する。 起伏の激しい道や水の中をびしょ濡れになりながら歌手たちは歌い動き回る。 合唱団の衣装や仕草もブリューゲルの絵画から飛び出してきたような中世の農民や猟師そのものね。 そこに悪魔が進行役にように登場し物語を進めていくの。 現代にも繋がるストーリーには強く引き付けられる。 悪魔に多くを語らせたのが面白い。 隠者との勝敗が有耶無耶で幕が閉じるのも異様と言ってよい。 古さと新しさが混じりあった現代ドイツ語圏の宗教感覚が滲み出る。 歌手がマイクを付けていたので歌唱はとてもよく聴き取れたわよ。 主要歌手はびしょ濡れになってもブレない。 歌唱量が少ない作品でもあるけどね。 調べると湖上舞台は80年の歴史を持つらしい。 これだけの激しい内容をキャストやスタッフが難なく熟しているのがここからも理解できる。 おっ!と驚く楽しい舞台だった。 *ブレゲンツ音楽祭2024 *NHK、 https://www.nhk.jp/p/premium/ts/MRQZZMYKMW/episode/te/QGWJ1JX5GZ/

■能楽堂十一月「住吉」「空蝉」

*国立能楽堂十一月企画公演の□3舞台を観る. □箏組曲・空蝉■箏:萩岡松柯 □箏曲・住吉■箏:萩岡松韻,岸辺美千賀,三絃:鈴木厚一,笛:福原徹彦 □復曲能・空蝉■出演:大坪喜美雄,安田登,高野和憲ほか ■国立能楽堂,2024.11.23 ■箏組曲「空蝉(うつせみ)」は源氏物語「空蝉」「関屋」を基に六歌構成になっている。 物語に沿った歌詞で親しみ易い。 作曲は北島検校。 筝曲「住吉」は住吉大社への参詣を歌う。 作曲は山田検校。 筝の調べは空気が乾き引き締まる。 大陸風土を感じる。 そこに日本語の湿った発声が入り混じり独特な雰囲気が醸成されていく。 能楽の囃子も同じだろう。 復曲能「空蝉」は空蝉の霊を弔うシンプルな構成だ。 序の舞では久しぶりに恍惚感がやってきた。 シテの動きに雑音が無いからだ。 シテ面は「節木増」(満総作)。 鼻が少し大きく親しみを感じる。 でも源氏物語から想像する「空蝉」には似合わない。 *古典の日記念公演・特集源氏物語 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2024/11191/

■ガラスの動物園 ■ノイマイヤー、ライフ・フォー・ダンス

*以下の□2作品を観る. □ガラスの動物園 ■原作:テネシー・ウィリアムズ,振付:ジョン・ノイマイヤー,指揮,ルチアーノ・ディ・マルティーノ,出演:アリーナ・コジョルカ,アレッサンドロ・フローラ,パトリシア・フリッツァ他,舞団:ハンブルグ・バレエ団,演奏:ハンブルク交響楽団 ■NHK・配信(ハンブルク国立歌劇場,2024.5.28-29収録) ■ノイマイアー80歳で振り付けた作品です。 彼は17歳に原作を芝居で観ている。 感動したことでしょう。 私が初めて観たのは演劇集団円の舞台でした。 やはり痛く感動したのを今でも覚えています。 これでテネシー・ウィリアムズにのめり込んだ時期があった。 でもバレエは初めてです。 はたして不安が的中しましたね。 複雑な心理描写をバレエに乗せるのは至難の業、特にこの作品はです。 でも見応えはある、さすがノイマイアー。 それよりも過去の演劇がバレエを邪魔してしまった。 観ていなければ違った感想を持ったはずです。 □ノイマイヤー,ライフ・フォー・ダンス ■出演:ジョン・ノイマイヤー,ヘザー・ユルゲンセン,ジャクリーヌ・チュイルー他 ■NHK・配信(ドイツ,2024作) ■ハンブルク・バレエ団を今年退任するノイマイヤーのドキュメンタリー映画です。 「人間に寄り添う現代振付家」と彼は言われている。 それは「踊り手の感情や内容や意図が形を決める」振付をするからです。 「形が内容を決める」クラッシク・バレエと逆ですね。 しかも「クラッシクもミニマルも表現舞踊も何でも扱う物語作家」でもある。 彼は言葉を続ける。 「舞台で命の息吹を感じたい」「劇場で感動するのは自分(の一部)と再会するから」「私は踊る人を見たいのではなく人間をみたい」。 ノイマイヤーの人間主義が現れていますね。 *NHK、 https://www.nhk.jp/p/premium/ts/MRQZZMYKMW/blog/bl/p1EGmp948z/bp/pVWann5pvP/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ジョン・ノイマイヤー ・・ 検索結果は4舞台 .

■テーバイ

■原作:ソポクレス「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」,演出:舟岩裕太,出演:植本純米,加藤理恵,今井明彦ほか ■新国立劇場・小劇場,2024.11.7-24 ■ソポクレスの3作を一つにまとめた舞台です。 「オイディプス王」はコンパクトにまとまっていて楽しく観ることができた。 神託が舞台の面白さを深めていますね。 次の「コロノスのオイディプス」は初めて観ます。 オイディプスの家族が前面に現れてくる。 家族の広がりは新鮮です。 今井明彦がオイディプスを見事に演じていたのが印象的でした。 「アンティゴネ」は<家族の物語>から<倫理と法律>へと舵を切る。 そこにはクレオンがいる。 彼は20世紀の独裁者のように描かれます。 クレオンを押し出し過ぎて<家族の物語>が薄まったように感じる。 でも、神託・家族・国家の三つが拮抗している三作を一つにすることでオイディプスの全体像を浮かび上がらせたのは確かです。 *劇場、 https://www.nntt.jac.go.jp/play/thebes/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、船岩裕太 ・・ 検索結果は2舞台 . *追記・・購入してあったプログラムを読む。 「・・船岩君はクレオンに注目するとのことだが、まさにこれは近代主義を理解せぬまま近代国家へと移行した私たちの近代、その再検討以外のなにものでもない」(「船岩裕太とリアリズム」(鐘下辰男著))。 クレオンの行動こそ現代日本で続いている近代なき国家と同じであることに納得します。 それと「死と生物学と演劇」(小林武彦著)を面白く読む。 「・・積極的に寿命を縮める働きのある遺伝子の存在に気が付く・・」。 これは現代に届く神託の声かもしれない。

■演劇島

■台本・演出・美術:佐藤信,振付・出演:竹屋啓子,出演:櫻間金記,龍昇,内沢雅彦ほか,劇団黒テント ■座高円寺,2024.11.8-12 ■ドラマリーディングに近い? 上演テキストは演出家が馴染んだ30作品から選んでいるようです。 その台詞をコラージュにして喋り演じる。 数分ごとに作品が入れ替わっていく。 このため集中力が必要です。 特に「金島書」「テンペスト」「地がわれらを圧迫して」を構成の柱にしているらしい。 テンペストしか知らないがコラージュのため気にならない。 しかし幾つもの物語断片が一つにまとまっていく流れは見え難い。 ゴダールの「映画史」を真似て「演劇史」だと演出家が言っていたが、どれだけ作品を観ているかが勝負になるのかもしれない。 よく知る「ゴドーを待ちながら」の場面でそう考えてしまった。 観る側に厳しい舞台ですね。 そのなかで能楽師櫻間金記とダンサー竹屋啓子の二人の絡み合いが面白い。 追放者役の櫻間は「私は世阿弥だった」「私はプロスペローだった」・・、後半になると「私は世阿弥ではなかった」「私はプロスペローではなかった」・・!? エアリエル役竹屋啓子も存在感ある塵になっている。 役者たちも皆熟れていて声も動きも整っている。 男女比は同じだが後期高齢者が目立つ客層です。 1970年代前後から黒テントを知っている者は皆この歳に入ったのですね。 この劇団は考えさせられる舞台が多い。 科白の裏に社会性が塗り込めてある。 今回もそうみえます。 ところで櫻間金記の科白「金島書」には字幕が必要です。 やはり聞き難い。 また作品の説明が映されたが、いま観客がそれを知っても舞台を分断するだけかもしれない。 *劇場、 https://za-koenji.jp/detail/index.php?id=3227 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、佐藤信 ・・ 検索結果は7舞台 .

■能楽堂十一月「寝音曲」「蝉丸」

*国立能楽堂十一月普及公演の□2舞台を観る. □狂言・大蔵流・寝音曲■出演:大藏教義,大藏基誠 □能・観世流・蝉丸(替之型)■出演:上田拓司,上田公威,大日方寛ほか ■国立能楽堂,2024.11.9 ■「寝音曲(ねおんきょく)」。 謡の巧い太郎冠者は主人の前では謡いたくない。 毎回謡わせられるからだ。 しかし主人の膝枕の上でリズムに乗って気持ちよく謡ってしまう。 酒を呑む豪快な場面が楽しい。 プレトーク「蝉丸の謎・蝉丸の能」(佐伯真一解説)を聴く。 「百人一首の坊主めくりでは蝉丸は坊主か否か?」から始まり「世の中はとてもかくても同じこと宮も藁屋も果てし無ければ」を百人首と比較する。 そして「後撰和歌集」「新古今和歌集」「今昔物語」「無名抄」等々から「最初は盲目ではなかった」「途中から帝の皇子になった」など蝉丸説話の成り立ちを追う。 「蝉丸(せみまる)」は舞踏的な作品である。 蝉丸が登場する時はいつもドキドキする。 今日はそれほどでもなかった。 輿舁(こしかき)が蝉丸にピタリとへばり付いていなかったからである。 歩行姿も大事だ。 席も良くなかった。 クリ・サシ・クセで逆髪と蝉丸を正面から見ることができなかった。 動きのない二人の姿をじっくりみたい。 姉と弟の再会と別れの物語は表面的である。 美しい詞章と舞踏的な動と静が全てである。 両シテは声を含め動きも似ていた。 調べたら兄弟だった。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2024/11189/

■能楽堂十一月「仁王」「白楽天」

*国立能楽堂十一月定例公演の□2舞台を観る. □狂言・和泉流・仁王■出演:深田博治,野村万作,月崎晴夫ほか □能・金剛流・白楽天(鶯蛙)■出演:廣田幸稔,宇高徳成,則久英志ほか ■国立能楽堂,2024.11.6 ■「仁王(におう)」は負け続きの博奕打ちが仁王像に変装して参詣人から供物を巻き上げようとする話である。 参詣の一人が仁王の体を触ったが柔らかいので変装がばれてしまう。 仁王像の不動姿と参詣6人の揃いの動さが重なり合い舞台に面白いリズムを作り出していた。 「白楽天」は唐代の詩人白楽天一行が筑紫にやってくる。 しかし魚翁に化けた住吉明神に追い返されてしまう。 中国の詩と日本の和歌の違いを二人で披露するところが見所である。 一行の衣装が中国風で楽しい、それに歩き方も。  間狂言では鶯と蛙の精が来序して和歌を謡い舞を舞う。 活き活きとした発声と動きが効いていた。 次の荘厳な真ノ序ノ舞と対比させて作品を活性化したからだ。 シテ面は「三光尉」から「石王尉」へ。 ところで大鼓が強くキンキン耳に響いた。 後半から慣れてきたが、唐からの一行のために盛り上げたのかな? *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2024/11188/

■光の中のアリス

■作:松原俊太郎,演出・出演:小野彩加,中澤陽,出演:荒木知佳,伊東沙保,古賀友樹,東出昌大 ■シアタートラム,2024.11.1-10 ■劇場の特徴である凸型舞台の奥に演奏機器(ドラムマシン?)を配置して納まりの良い形にしてある。 演奏者の上には英語字幕板、その上に役者達を映すモニターが6台みえる。 客が入場している時から役者が舞台を歩いたりしているが、全員そろったところで皆で握手などをして幕が開く。 役者たちの声は明瞭、動きは明確で鍛錬されているのがわかります。 隙がない。 観客と目が合う時がある。 緊張感が漂います。 抽象的な用語も科白に入るので尚更です。 理解できた場面は東京ディズニーランドの批判くらいでした。 現代は「のアリス」を舞台に乗せると極端に二分化される。 この舞台は極めて難解な部類です。 振り落とされてしまった。 作者松原俊太郎の名前は聞き覚えがある。 調べたら劇団地点がいつも選ぶ作家でしたね。 地点の舞台を思い返すと今日の科白に似ているようにも感じられる。 でも似て非なるもの、劇団の違いでしょう。 たぶん抽象化を身体で受け止める方法に違いがあるらしい。 芸術監督推薦の<フィーチャード・シアター>だけあって今日の舞台は未来志向でした。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/20768/