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■初心生涯、私の履歴書

■著者:鈴木忠志,解説:内田洋一 ■白水社,2025.6.20発行 ■台風が近づいていたため、連休は外出を控え、家で読書をすることにした。 幾つか選んだ中の一冊がこの「初心生涯、私の履歴書」である。 演出家・鈴木忠志の半生とその活動を振り返った自伝的な内容だ。 2010年から続けている当ブログでも、鈴木忠志の舞台についての記事は三十本ほど書いている。 さらに、私が芝居を観始めた1970年代からかぞえれば観劇数はより増えるだろう。 当時はまず唐十郎や佐藤信を知り、その後に寺山修司や鈴木忠志の舞台に出会った。 なかでも鈴木忠志の舞台からの衝撃は大きかった。 今なお飽きもせず観劇を趣味としているのは、当時の個性あふれる演出家たちの舞台に接したことが大きい。 近頃は能楽堂へ通う機会が増えた。 昨年は百回ほど観劇をしたが、そのうち三十回が能楽だった。 これも鈴木忠志の舞台から受けた影響かもしれない。 本書には「西洋芸術との出会いを通して伝統芸能と改めて向き合った」とあるが、観客である私の場合は、早稲田小劇場からSCOTへと続く舞台で示された俳優の身体表現や舞台構成から、能楽への興味が広がっていったように思う。 これに加えて、長年観続けてきた舞踏の影響もある。 現在ではSCOTのような特性を持つ舞台を探すと能楽くらいしかなくなってしまった、ともいえる。 これが能楽鑑賞が増えた理由かもしれない。 「演劇人は通常以上のエネルギーを保持することが大切だ」という言葉があったが、そのエネルギーを舞台だけではなく、政治や行政を動かし文化政策へ使ってきたところに、鈴木忠志という演出家の特異性があるのだろう。 また、世界の演劇界を相手に活動できた背景には、「スズキ・トレーニング・メソッド」という独自の身体訓練法、いわば世界に通用する一つの<言語>を創り出したことも大きかったと思う。 読み進めるうちに、本書の内容に通じる「別冊新評鈴木忠志の世界」(1983年刊)を持っていたことを思い出した。 しかし本棚をいくら探しても見つからない。 だいぶ経つので処分してしまった? SCOTの舞台を最後に観たのは二年前だった。 次に観る機会はいつになるのだろうか。 そんなことを考えながら本を閉じた。 *白水社, https://www.hakusuisha.co.jp/book/b662895.html

■能楽堂九月「箕被」「融」

*国立能楽堂九月普及公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・箕被■出演:石田幸雄,野村万作 □能・宝生流・融(酌之舞)■出演:東川光夫,福王和幸,深田博治ほか ■国立能楽堂,2026.9.12 ■プレトーク「風雅を窮めて亡霊となる、能の精髄「融」の世界」(林望解説)を聴く。 観阿弥とは異なる、世阿弥が追求した「風雅」という理念を軸に据えた内容で、「古今和歌集」紀貫之の歌から、源融の死後に荒れ果てた六条河原院の姿を読み解く。 また「伊勢物語」では融の優雅な生活を紹介する。 「古事談」(巻一の五)では天皇に推挙されなかった場面を再現、「宇治拾遺物語」は天皇との確執が語られる。 さらに「竹取物語」における<月>の象徴性との共通点、「歌枕名寄」(万治二年刊)に見られる<煙>のイメージの連関など、融をめぐる物語世界を多角的に照射する充実したプレトークであった。 能「融(とおる)」は、前場で荒れ果てた河原院の風景を豊かに味わい、後場では往時の華やかな遊宴が再現される。 全体として淡々と進む構成であるが、だからこそ早舞の場面で一種のカタルシスが訪れるのだろう。 天皇になれなかった融の恨みはほとんど感じられず、むしろ月の都の住人となった存在としての透明な気配が舞台を支配していた。 シテ面は「朝倉尉」から「中将」へ。 狂言「箕被(みかずき)」は都合により夫役が野村万作に交代した。 夫婦の年齢差が生じたものの、野村万作の安定感ある演技によって夫婦の関係性が自然に収まり、作品が持つ連歌のある生活がおもしろく立ち上がっていた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85023/

■由比正雪

■作:唐十郎,演出:流山児祥,出演:松熊つる松,橘杏奈,岡本瑠奈,申大樹ほか ■ザムザ阿佐谷,2026.9.8-13 ■由比正雪の名は知っていたものの、その人物像や「慶安の変」については曖昧だったため、簡単に史実を調べてから劇場へ向かった。 幕開きは、夜鷹たちが大勢登場し、歌い踊る華やかな場面で始まる。 唐十郎作品に歌唱はつきものだが、今回はその比重がいつも以上に大きく、音楽劇に近い印象を受けた。 チラシに掲げられた「新宿オペラ」という言葉がそのまま舞台化されており、アングラ演劇というより、地方巡業の大衆演劇の熱気に近い雰囲気が漂っていた。 由比正雪をはじめ、丸橋忠弥、金井半兵衛、柳生十兵衛という三剣士の性格の差異がくっきりと描き分けられており、人物群像としての面白さがあった。 狭い舞台で繰り広げられるチャンバラは前列の観客に当たらないかと心配になるほど間近で、迫力は十分。 そこへ夜鷹たちが群舞のように折り重なり、舞台の熱量をさらに押し上げていた。 劇中では「正雪は何でも売る、江戸も売る」と周囲から語られるが、複数の正雪が登場し、彼の思想や行動が一つの像へ収束していく気配はない。 むしろ「正雪は日に日に形造られていく」存在として、観客の前で生成し続ける人物像が提示されていた。 全体として、いつもの唐十郎作品とは異なる趣があった。 演出家流山児祥による口上で「もう歳だから好きにやらせてくれ」と話していたが、その言葉どおり、演出家の個性が強く反映された舞台だったのではないか。 作品世界の奔放さと大衆性が心地よく混ざり合い、楽しく観ることができた。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/465857 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、流山児祥 ・・ 検索結果は8舞台 .

■能楽堂九月「隠狸」「三井寺」

*国立能楽堂九月定例公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・隠狸■出演:野村万禄,上杉啓太 □能・喜多流・三井寺■出演:塩津哲生,宝生常三,野村万之丞ほか ■国立能楽堂,2026.9.9 ■狂言「隠狸(かくしだぬき)」は、太郎冠者と主が市場で酒を酌み交わし、謡い舞うという筋立てだが、その行動に至る理由づけは薄い。 しかし、物語の軽さがかえって酒宴の愉快さを際立たせ、酒好きの観客には抗いがたい魅力を放つ。 舞台を眺めながら、こちらも帰りに一杯やりたくなるような、ゆるやかな酔い心地が漂っていた。 能「三井寺(みいでら)」は、母と子の再会を描く人情物である。 清水寺から三井寺へ向かう道行の場面では、母が目に映る風景を淡々と語り、その叙景が観客の脳裏に静かに広がっていく。 三井寺に着いてからは、名物の鐘の音が詩的に描写され、音色が心の奥へ染み入るように響く。 こうした景色と言葉の積み重ねが、作品全体を柔らかい光で包み込む。 ただし、母子の再会は物語の終盤に唐突に現れ、長い道行ののちに付け足された印象も否めない。 寄り道の多い作品だが、忙しない現代にあっては、この「道草」こそが貴重であり、作品の本質でもあるのだろう。 シテも地謡もゆったりとしたテンポで演じ謡い続け、舞台全体が心地よい余韻に満たされていた。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85022/

■神のみぞ知る死

■作・演出:海路,出演:福田麻由子,朝田淳弥,盛隆二,村上航,太田緑ロランス他 ■シアタートラム,2026.9.6-13 ■舞台は複数の断片的な場面から始まり、オムニバスのように人物と出来事が並置されていく。 進行とともに、それぞれの人物や話題が少しずつ結びつき、ひとつの物語の核が浮かび上がってくる。 「私はカミである」。 自らを神と称する人々が新たな教団を立ち上げ、奇跡を起こした<神の手>を持つ女子大学生を教祖として担ぎ上げる。 作品の中心には、この奇妙で不穏な構図が据えられているためか、薄暗い照明のなか、舞台全体に謎めいた気配が漂っていた。 観ながらふと、1946年の昭和天皇「人間宣言」を思い出してしまった。 国家神道が支えた「現御神(あらみかみ)」という観念を退け、自身が人間であることを宣言した一つの歴史的転換である。 いつの時代でも人は教祖をつくり、カミからヒトへ、そしてヒトから再びカミへと回帰する<神格化>の運動を繰り返す。 本作は、その循環の危うさを、現代の若者の言葉遣いや生活感の中に巧みに埋め込んでいた。 教祖となる戸塚と宮野、そして死神として登場する大木と新城の恋の破断は、物語の主軸からはやや外れるため淡泊に描かれていたが、それがむしろ作品の<群像劇としての広がり>を生んでいたように思う。 また、劇団イキウメの盛隆二が出演していたことは印象的だった。 「イキウメ」が得意とする<日常の裂け目から異質なものが滲み出す>作劇と、今日の舞台の方向性には確かに近さがあり、両者の美学が舞台上で交差する瞬間がいくつかあり、興味を持って面白く観ることができた。 *劇団papercraft第13回公演 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/35088/

■能楽堂九月「盆山」「鵺」

*国立能楽堂九月ショーケース公演の二舞台□を観る. □狂言・和泉流・盆山■出演:野村太一郎,岡聡史 □能・観世流・鵺■出演:角当直隆,則久英志,野村遼太ほか ■国立能楽堂,2026.9.5 ■狂言「盆山(ぼんさん)」は<盆栽>の源流を思わせる題材を扱った一曲である。 盆栽を盗みに入った男が家主に見つかれまいと、犬・猿、さらには鯛の鳴き真似まで披露して逃げようとする筋で、動物の模倣が次々と展開する滑稽味が見どころとなる。 能「鵺(ぬえ)」の前場は、まるで起承転結の「承」が抜け落ちたかのように、あっという間に終わった印象を受けた。 季節の変わり目で私自身の集中が揺らいでいたのかもしれない。 気を入れ直して臨んだ後場では、金色の装束をまとって再登場した鵺の激しい所作をしっかりと追うことができた。 面も前場の「怪士(あやかし)」から後場の「猿飛出(さるとびで)」へと替わり、鵺がまさに<蘇生>したかのような迫力があった。 この作品では源頼政の存在が強く前面化している。 頼政の心情はシテである鵺が語り、具体的な動きとして示される一方、鵺自身の心は地謡が担い、抽象的な響きとして立ち上がる。 頼政=具体、鵺=抽象という対構造のため、観客の記憶にはまず具体的な頼政像が刻まれる。 しかし後からじわりと鵺の存在感が浮上してくるところに、世阿弥の構成力の妙がある。 今回はショーケース公演で、能面体験コーナーやプレトーク(川口晃平解説)が設けられていた。 外国人客がいつもより多かったのは、この企画性によるものだろう。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2026/85021/

■清教徒

■作曲:V・ベッリーニ,指揮:マルコ・アルミリアート,演出:チャールズ・エドワーズ,出演:リセット・オロペーサ,ローレンス・ブラウンリー,リカルド・ホセ・リベラ,クリスチャン・ヴァン・ホーン他 ■東劇,2026.8.14-9.24(メトロポリタン歌劇場,2026.01.10収録) ■METライブビューイング2025年シーズンのアンコール上映が始まったので、見逃していた作品を補うことにした。 まずは、50年ぶりの新演出となるベッリーニ「清教徒」を選んだ。 もっとも、この作品は歴史的・宗教的背景が強固で、物語の軸もエルヴィーラの一途な狂乱に大きく縛られているため、演出が大きく変貌する余地は多くないはずである。 今回の新演出では、エルヴィーラが画家として登場する設定が付与されていたが、演出家のインタビューを聞いてもその意図が十分に掴めず、実際には「画家」という要素が物語の必然性を高めるというより、むしろ雑音として増えた印象が残った。 それでもベルカント・オペラは、歌唱が充実していれば大きな満足が得られる。 息の長い、伸びやかな旋律が聴く者の心拍を静め、日常の喧騒をしばし忘れさせてくれる。 今回もその魅力が十分に発揮されていた。 エルヴィーラ役リセット・オロペサをはじめ、リッカルド、ジョルジョら主要歌手たちは作品の美質に応える歌唱を聴かせてくれた。 特にアルトゥーロ役ローレンス・ブラウンリーは、長距離ランナーのように揺るぎないスタミナと集中力で最後まで声を保ち続け、その強靭さが強く印象に残った。 なお、2025年シーズンでは「夢遊病の娘」も新演出とのこと。 日程が合えば、こちらもぜひ鑑賞したい。 *MET2025シーズン作品 *MET、 https://www.shochiku.co.jp/met/program/6907/