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■火の鳥、山の神篇

■演出:小池博史,出演:リー・スイキョン,シルビア・H・レヴァンドスカ,今井尋也,櫻井麻樹ほか,演奏:ヴァツワフ・ジンベル,サントシュ・ロガンドラン,下町兄弟ほか ■なかのZERO・大ホール,2025.10.11-14 ■過去作品をかき集めて再構築したような舞台だ。 そこに、混迷する政治世界が物語の中心に据えられている。 二大政党・戒厳令・恐怖政治・アナーキスト・スパイや工作員・危険分子・細菌兵器・人工地震・・。 派手な政治用語が科白に散りばめられ、まるで「これが現代世界だ」と言わんばかりだ。  「ぼくらは安寧のなかに居たい、・・だが世界は大きな渦のなかで出口を探っている」。 演出家の危機感が伝わってくる。 しかしストーリーは大味で、もはや漫画のように見えてしまった。 劇場も作品にそぐわなかった。 がらんとした広い空間では声が響き逃げていく。 美術や映像は白々しく感じられ、役者の身体性も希薄になってしまった。 映像・美術・音楽・ダンス・演劇を統合した作品にはむしろ狭い空間の方が似合う。 いつもと違い、凝縮力の無い今日の舞台には違和感を覚えた。 このため帰りにプログラムを購入した。 「・・ドン・キホーテになり突進することで社会の閉塞感を打破する」。 演出家の挨拶文である。 「火の鳥」を作曲したイーゴリ・ストラヴィンスキー、それを依頼したセルゲイ・ディアギレフ、総合舞台芸術を目指したこの二人を背景に、アレルキーノになって舞台と世界をカーニヴァルで満たす。 そう考えると、芸術至上主義的な私の見方は演出家の目指す方向とは相容れないものかもしれない。 *CoRich、 https://stage.corich.jp/stage/391914 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、小池博史 ・・ 検索結果は14舞台 .

■Mary Said What She Said

■演出:ロバート・ウィルソン,出演:イザベル・ユペール,作:ダリル・ピンクニー,音楽:ルドヴィコ・エイナウディ ■東京芸術劇場・プレイハウス,2025.10.10-12 ■ロバート・ウィルソンとイザベル・ユペールのタッグは見逃せない。 池袋へ向かうと、折しも「東京よさこい祭り」の開催中で劇場周辺は大混雑だった。 先日観劇した「 ヨナ 」と共通点がある。 どちらも有名俳優による一人芝居で、内容は哲学的歴史的で難解だ。 ただ、演出家による俳優の扱い方に違いがある。 「ヨナ」では役者が<地>を出していた。 彼は佐々木蔵之介であり、同時にヨナでもあった。 しかし今日の舞台は違う。 イザベル・ユペールはまるで人形のように演じ、フランス語をロボットのような早口で冷徹に喋りまくる。 そこに彼女自身の存在は希薄で、あくまでメアリー・スチュアートの<器>として存在している。 「ヨナ」が<溶け合わせ>なら、今日の舞台は<重ね合わせ>と言ってもよい。 そして抽象的な美術を背景に照明と音楽の精緻な動きが物語に緩急と情感を与えていく。 ここにロバート・ウィルソンならではの劇的な美が立ち現れる。 久しぶりに、舞台からの驚きを存分に味わった。 帰宅後、メアリースチュアートについて改めて調べる。 当ブログの過去記事「 メアリー・スチュアート 」(森新太郎演出)、「ふたりの女王,メアリーとエリザベス」(ジョージー・ルーク監督)を読み返すとエリザベス女王との確執の激しさがみえる。 今日の舞台でもその緊張が感じ取れた。 ロバート・ウィルソンの急逝も残念だった。 来日は叶わなかったが、彼の舞台を観ることができたことを嬉しく思う。 *舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」作品 *劇場、 https://www.geigeki.jp/performance/theater378/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ロバート・ウィルソン ・・ 検索結果は5舞台 .

■ヨナ

■原作:マリン・ソレスク,演出:シルヴィウ・プルカレーテ,出演:佐々木蔵之介ほか ■東京芸術劇場・シアターウエスト,2025.10.1-13 ■劇場に入り観客を見渡すと、なんと!8割が女性。 しかも中年層が多いようにみえる。 贔屓筋かな? それにしても小難しい舞台だった。 タイトルからしてその気配が漂っている。 「ヨナは旧約聖書の聖人で、神に背き、その罰で鯨に呑まれ、三日間腹の中にいた漁師であり・・」、という背景がある。 舞台は鯨の腹の中。 狭くて暗い空間だが、音響・照明・美術を駆使して内奥を広げている。 ヨナの幻想(?)も現れる。 「人生の最期は眠らなければいけないのか?」「母さん!俺を産み続けてくれ」「(ここは)分断された場所なんだ!」「繋がらないのを繋げようとするのはもう止めよう!」「神が通りがかってくれたらいいのに」「復活のない神のようなもの」「復活した神をみたい」。 モノローグの断片には宗教を媒介にした自己への問いや迷いが色濃く滲んでいる。 「闇に触れた者だけが、光を探すことができる」「ヨナは私だ、ヨナはあなただ」。 言葉の一つ一つは耳に届くが、これが有機的な形となって身体に染み渡る感覚には至らない。 ひとり芝居のゆえに、原作者と演出家の生き様が前面に押し出されているせいかもしれない。 二人の故郷ルーマニアは池袋から遠い。 20世紀史も複雑だったはずだ。 東方正教会はどのような宗教なのか? 地理的・歴史的な距離も作品の理解を難しくしている要因だろう。 佐々木蔵之介は預言者然りとはしていなかった。 それでも、現代的ヨナ像を見事に演じていた。 鯨の暗い腹の中に、確かに灯をともしていた。 終幕では、暗い海から一転して、家具やベッドが赤い夕日に照らされる部屋が現れる。 その瞬間、演出家プルカレーテの狂気が垣間見えたのは嬉しい驚きだった。 前半から、このような部屋を幾つも造り、それを順次展開しても面白かったかもしれない。 私なりの解釈を加えながら舞台を反復する作品として受け止めた。 ところで「秋の隕石」プログラムの入手が遅れたため、庭劇団ペニノ「誠實浴池( せいじつよくじょう)」を見逃してしまったのは残念。 *舞台芸術祭「秋の隕石2025東京」作品 *東京芸術劇場xルーマニア・ラドゥ・スタンカ国立劇場国際共同制作 *劇場、 https://www.geigek...

■弱法師

■作:三島由紀夫,演出:石神夏希,出演:山本実幸,八木光太郎,大道無門優也ほか ■静岡芸術劇場,2025.10.4-19 ■役者を一部替えて、同じ科白で二度演じる構造が面白い。 俊徳役の山本実幸は圧倒的な演技を見せてくれた。 発声や身体の動きに無駄が無い。 作品の本質を舞台上に呼び寄せていた。 三脚の使い方も巧みだった。 スズキ・メソッドを彼女は取り入れているらしい。 SCOT以外でも採用する役者を時折みかけるが、今日はそのメソッドが自然に馴染んでいた。 これは、演出家と役者の高度なコンビネーションがあってこそ成立する方法論なのだろう。 この作品は能の形式で観ている。 役者がどこからともなく現れ、彼岸の世界を演じ、出会った父子は何事も無かったかのように寄り添って退場する。 今日はその流れが生きていた。 「ささやかな願い事はなに?」「腹が減った・・」。 救済には限りが無い。 此岸の平穏を求めるしかない。 帰りの車内で「俊徳の魂は救われたのか。反復を通じて答える」(大澤真幸)を読む。 「三島の原作の中に反復は潜在的に予定されていて、石神の演出はそれを引き出した・・」。 「ただし反復において一か所だけ大きな変更が加えられていることに気づくだろう」。 ・・? 原作は読んでいないし、今日の舞台でもその変更には気づかなかった。 二度演じる理由は何か? 実はこの問いも未決のままだ。 変更箇所を知りたい。 やはり、三島由紀夫は厄介な人だ! *SPAC秋のシーズン2025-作品 *三島由紀夫生誕100年記念公演 *劇場、 https://spac.or.jp/25_autumn/yoroboshi_2025 *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、石神夏希 ・・ 検索結果は2舞台 .

■能楽堂十月「空腕」「咸陽宮」

*国立能楽堂十月定例公演の□2舞台を観る. □狂言・大蔵流・空腕■出演:山本泰太郎,山本則孝 □能・喜多流・咸陽宮■出演:塩津哲生,福王和幸,福王知登ほか ■国立能楽堂,2025.10.1 ■「空腕(からうで)」は腕力を自慢する太郎冠者が実は臆病だったという話である。 今なら腕力より情報? いや、今も腕力かな。 「咸陽宮(かんようきゅう)」を観るのは初めてだ。 秦の始皇帝と彼を狙う二人の刺客が登場する。 謡の大部分が解説のような舞台だ。 中国を題材とする作品はこの手が多い。 しかも舞が無い。 作品の面白さは3人のダイナミックな動きだろう。 刺客二人が登場した場面から緊迫感が伝わってくる。 さすが刺客だ。 終幕、帝も剣を抜いて闘う。 滅り張りが効いていて能が持つ緊張を維持していた。 いつもと違う面白さがあった。 面は花陽夫人が「万媚(まんび)」待女は「小面」。 *劇場、 https://www.ntj.jac.go.jp/schedule/nou/2025/7026/

■トリプティック TRIPTYCH

*下記の□3作品を観る. □ミッシング・ドア (25分) □ロスト・ルーム (35分) □ヒドゥン・フロア (25分) ■演出:ガブリエル・カリーソ,フランク・シャルティエ,出演:コナン・ダヨ,フォンス・ドシュ,パノス・マラクトス他,舞団:ピーピング・トム ■世田谷パブリックシアター,2025.9.27-30 ■二方が壁の三角舞台は不安を呼ぶ。 ドア、ルーム、フロアのタイトルから3作品は客船内を描いていることが分かる。 そこへ不気味な音楽が聴こえてくる。  「ミッシング・ドア」はキャビン通路でダンスが展開する。 その壁はくすんだ緑色でドアが幾つも付いている。 意味深な船客や船員らしきダンサーが激しく踊りあう。 人形が憑依したような動きだ。 ストーリーは有るようで無い。 「ロスト・ルーム」へ入る前に舞台を作り替える。 これを観客に見せてくれる。 場面は通路からキャビン(客室)に移る。 家具も備わり色は茶系に変わる。 衝撃的な踊りが続く。 男女間の絡み合いが凄まじい。 しかし1作目の延長にみえる。 物語が微かに展開したようだが大きな変化は無い。 少し飽きる。 ここで休息が入る。 この間も舞台装置の転換作業が続く。 これが楽しい。 前列観客にビニールシートが配られる。 「ヒドゥン・フロア」は船内のレストランらしい。 窓の景色は大時化で雷も轟く。 床は水浸しだ。 そこに略全裸のダンサーたちが水飛沫を飛ばして踊り狂う。 火災も発生する。 狂乱の舞台だ。 3作を通して状況は想像できるがストーリは組み立てられない。 身体の柔軟性やリフティング技能に驚きはある。 小道具のトリックも楽しい。 しかしダンスとしての面白みがない。 肉体の表層を滑る過激なパフォーマンスにみえる。 芸術性がぶっ飛んでしまった舞台だ。 衝撃はあったが感動が少ない理由かもしれない。 それでも「脅威の身体能力と奇想天外なイメージが紡ぐ心地良い悪夢、最高にスキャンダラスなダンスエンターテインメント」を体感したことには納得。 そう、「心地良い悪夢」を見てしまったのだ。 *劇場、 https://setagaya-pt.jp/stage/25024/ *「ブログ検索🔍」に入れる語句は、ピーピング・トム ・・ 検索結果は4舞台 .